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異法人の夜-Foreigners night-/第二部  作者: 夕月日暮
十二月六日(火曜日)
9/34

第七話「守りたいもの」

 時刻は、四時半。

「遅いな……」

 遥は何度も時計と窓の外を交互に見ている。

 梢がなかなか帰ってこないのだ。状況が状況なだけに、不安が募る。

「予定だと、もう帰って来てもいい頃なんだけど」

 今日だけが遅いというわけではない。学校の都合や帰りがけの買い物などで、たまに梢の帰宅が遅れることはある。

 しかし、普段と違って、今は梢の身が危うい。もう帰ってこないという可能性もあるのだ。

 ……駄目だ、悪い方にばっかり考えたら。

 膝の上に乗せていた梢のシャツを、そっと抱きかかえる。そうしていると安心出来た。

 もし梢がいなかったら、遥は人間としての生活すら送れなかった。生まれて間もなく、彼女の持つ『共有』の力に目をつけた組織に捕らわれ、実験材料として扱われ続けていた。それを、二年前の夜、梢が救い出してくれた。

 それから遥がここで暮らすようになっても、梢はいつも傍らで見守ってくれていた。時には庇い、時には教え、時には叱り、時には頭を撫でてくれた。

 そんな彼がいなくなるなどと、考えたくはなかった。遥はもう大抵のことは一人で出来るようになったし、梢の手を借りるようなこともなくなってきた。しかし、そんなこととは関係なく、彼の存在は遥の日常に不可欠なのだ。否、それは遥だけではない。この家に暮らす皆も、同じように思っている。

 だからこそ――余計に心配だった。

 抱いていたシャツを畳んで、次のものに手を伸ばす。

 そのとき、玄関の戸を開く音が聞こえた。遥は駆け足で向かう。

「おう、ただいま」

 そこには、いつも通りの梢がいた。手には買い物袋を持っている。

 見ると、遥だけではなく、家にいる全員が梢を出迎えに来ていた。皆安堵している。

「なんだなんだ、随分と豪勢な出迎えだな」

「し、心配したんだよっ。梢君、いつもより帰り遅かったから」

「悪い悪い、買い物してた」

「そういうときは電話入れて。お願いだから」

「分かったって。反省してる」

 軽く頭を下げながら、梢は台所へと向かう。特に怪我をした様子もなさそうだった。

「ったく、心配かけさせるんだから。困ったもんだよね」

 美緒の言葉に、全員が頷く。しかし、どの表情にもかすかな笑みが浮かんでいた。

「おーい遥、遅くなっちまったから夕飯作り手伝ってくれ」

「あ、うん。今行くー!」

 呑気な梢の呼びかけに苦笑してしまう。彼の命が狙われていることが、嘘のように思えてきてしまう。

 だが、台所に向かおうとした瞬間、遥は零次の表情が若干曇っていることに気付いた。彼は横目で台所の方をじっと見ている。

「久坂君、どうかしたの?」

 遥に問われて、零次は慌てた様子で表情を和らげた。

「ああ、いや。まったく、あいつは呑気なものだと、そう思っただけだ」

 そう言って、零次は部屋に戻ってしまった。美緒と亨も、特にそのことを気にする風もなく戻っていく。

「遥、どうしたー?」

「ああ、ごめんごめん。洗濯物片付けてから手伝うからっ」

 遥は駆け足で洗濯物を取りに向かった。梢が無事に帰って来たからか、その足取りは軽かった。


「――――そっちはいろいろあったんだな」

 夕食の席で、遥たちは今日会ったことを梢に話していた。彼だけが別行動を取っていたからだ。そのことが寂しくもあり、不安でもある。

「道理で俺の方が静かだと思ってたんだよ。襲撃の一つ二つはあると思ってたけど、全然なかったし」

「誰かに見られてるとか、そういうのは感じなかったの?」

「いいや、全然。まあ何かしらの方法で監視はされてるんだろうが、危害は一切加えられてないな」

 梢は肩をすくめた。心なしか、残念そうにも見える。

「それでは、お前の方は何もなかったのだな?」

 零次が念押しする。梢は苦笑して頷いた。

「心配いらねえよ。大丈夫大丈夫、なんとかなるだろ」

「……なんか今一つ緊張感に欠けるよね、お兄ちゃん」

「でも、草薙樵も似たような感じに見えたよなぁ」

 美緒と亨の言葉も、梢は笑って流していた。確かに、緊張感に欠けている気がする。

「しかし、草薙樵か」

 梢は窓の外に視線を移した。外にはまだ雪が降っている。天気予報によると、しばらくは降り続けるらしい。

「お兄ちゃん、ひょっとして何か知ってるの?」

「いや、全然。ガキの頃に会った記憶もないし、親父がそいつに関して教えてくれたってわけでもないし」

「そっか……」

 美緒は肩を落とす。

「でも、そいつ……こんな寒空の下、どうしてんだろうな。きちんと飯食ってるのかね」

「そんなことを気にしている場合じゃないでしょう。梢さんは自分のこともっと考えないと」

 一同が亨の意見に賛同した。梢は困った風に頬を掻く。

「はいはい、分かりましたよ。大丈夫だって、お前らには迷惑かけないようにするから」

 そう言うなり、梢は食器を手に台所へと向かう。

 その背中に、零次が声をかけた。

「倉凪、後で少し話がある」

「あん?」

 梢は足を止めてこちらを振り向く。

「大事な話だ。出来ればサシで話がしたい」

「……まあ、そういうなら。手短に頼むぜ」

 そのまま梢は台所へと姿を消してしまった。残された遥たちの視線が零次に集中する。

「やっぱり、何かあったの?」

「いや。ただ、確認しておきたいことがあってな。もしかしたら俺の勘違いかもしれないから、確認してから皆には話す」

「うん。まあ、久坂君がそういうなら」

 おそらく零次は、遥たちに余計な心配をかけさせまいとしているのだろう。それは少し嬉しくもあり寂しくもある。だが、必要であれば話してくれるだろうとは思っている。だから、無理に追及するのはやめておいた。

「……おかしいなぁ」

 と、美緒がソファに移りながら、携帯電話を手に不満の声を洩らした。

「どうしたの?」

「いや、涼子に電話が繋がらなくて。用事ってまだかかってるのかなぁ」

「メールにしといたらいいんじゃない? 気づいたら返事くれると思うよ」

「うん、そうだね」

 不承不承の様子で、美緒はメールを打ち始める。

 そのとき――風もないのに髪がふわりと舞い上がった。

「え?」

 得体のしれない何かが、身体を突き抜けていったような感覚がした。それに遅れて、心臓がばくばくと悲鳴を上げる。

「……」

 零次たちも、それぞれ茫然としている。遥だけではない。他の皆も、全員がその何かに気づいていた。

「なんだ、今の」

 台所にいた梢も、表情をこわばらせて出てきた。零次は眉間にしわを寄せながら窓の外に目を向ける。

「分からん。ただ事ではなさそうだが」

 まるで、地震が起きたかのようだった。あれほど強大な魔力を感知したのは、二年前の事件以来である。昨日今日の戦いなど、比べようもない。

「俺が様子を見てくる。皆はここに残っててくれ」

「待てよ久坂、俺も――」

「お前は残ってろ」

 零次は心なしか怒気を込めて言い放つ。梢は少しむっとしたようだったが、その隙に零次はさっさと行ってしまった。

 不服そうにしている梢の裾を、遥はそっと掴んだ。

「梢君は行かないで」

 行ってしまえば、梢はもう戻ってこない。そんな不安が、遥の胸中に湧き上がった。

 失うのが怖い。行って欲しくない。

「……お願い。行かないで」

 裾を掴む手に、力が入った。

「……分かったよ。行かない。だから手、離してくれ」

 梢は子供をあやすように言う。仕方なく遥は手を離した。

「けど、久坂一人で大丈夫か」

 その呟きに、一同の視線は窓の外へと向けられた。


 巨大な魔力を感じる。朝月町の北東部にある山脈の方からだ。発信源が市中ではないことに安堵する。

「しかし、いったいなんだ……?」

 零次にも分からない。今回の件に関わっている者で高い魔力を持っているのは遥や古賀里夕観辺りだが、これは彼女たちのものではない。

 格が違う。

 ……これが町中に降りてきたら大変なことになる……!

 零次は翼を解放し、空から急ぎ現場に向かう。梢のこともあるが、今はそれどころではない。

 荒波が押し寄せてくるように、魔力が流れてくる。その圧迫感に負けそうになりながらも、零次は進んでいく。

 やがて、魔力の源が見えてきた。山中の開けた場所だ。

 一人ではない。二人いる。

 そのうちの一人は、零次と遥が昨晩遭遇した男だった。ただ、様子がまるで違う。獣のような雰囲気を持っていただけだったのが、今は獣そのものと化しているように見えた。

 直線的な動きで、何度ももう一人の方に突撃を繰り返している。そのたびに放たれる咆哮が、山中を震わせた。

 そんな男と戦っているもう一人。こちらは、零次の知っている相手ではない。

「……なんだ、あれは」

 知っているはずもない。

 そいつは――全身に包帯のようなものを巻きつけていた。そんな知り合いは、さすがの零次にもいない。奇怪な紋様が描かれていることを考えると、ただの包帯ではなさそうだった。

 その、彼か彼女かも分からないそいつは、獣と化した男と互角の戦いを繰り広げていた。両者がぶつかり合うたびに、あの巨大な荒波のごとき魔力が押し寄せてくる。

 ……これでは、近寄れん!

 両者の持つ魔力量、動きから読み取れる身体能力は、いずれも零次を上回るものだった。迂闊に近付けば大変なことになる。

 そのとき、零次は背後に人の気配を感じ取った。振り向くよりも速く、頭を押さえつけられて地面に落とされる。

「何者だっ!」

 着地と同時に頭の手を払いのける。

「何者だ、ではありません。死にたいのですか、あなたは!」

 振り返った先には、飛鳥井冷夏の姿があった。その背後には数人の魔術師の姿もある。

 咄嗟に零次は距離を取る。が、冷夏は追撃する素振りも見せず、溜息をついた。

「警戒せずとも、今あなたと戦うつもりはない。……それより、なぜここに?」

「さすがに、あんなものを感じ取れば無視出来ん。あれはなんだ?」

 零次の問いに、冷夏は他の者たちを下がらせてから答えた。

「片方は草薙樵。あなたはまだ会ってなかったのですか?」

「……いいや。顔と名前はそれぞれ知っていた。合致したのは今のがはじめてだが」

 あの獣じみた男の方がそうなのだろう。美緒や亨から聞かされた草薙樵の特徴と一致しないこともない。ただ、昨日会ったときと印象が大分違う。

「……あの様子はなんだ? 明らかに正気を失っているようだが」

「ここ数日はずっとああです。日を経るにつれて、次第に酷くなってきていますが」

 冷夏の言葉に込められた意味を、零次はすぐに察した。

 ……そうか、あれが土門荒野の症状か。

 冷夏たちはずっと樵の症状が悪化する様を見てきたという。ここ数日は、夜になると本格的に土門荒野の方が表に出てくる。そのたびに、冷夏たちが牽制してきた。

 話している間にも、力の奔流が押し寄せてくる。

「これが、お前たちの言う復活の予兆か」

「ええ。しかし、症状の進行が早まってきているとしか思えない」

 樵が吠える。途端、大きな揺れが零次たちを襲った。先ほどまでのような一時的なものではない。

「草薙樵の異法は大地を操るもの。ですが、この規模はまずいっ。土砂崩れが起きて、町に被害が出てしまう……!」

 揺れは続いている。町の方でも、今頃は混乱が起きているはずだ。

 おまけにここは町を囲むように連なっている山脈である。ここが震源地となれば、冷夏の言うように土砂崩れが起きて、甚大な被害が起きる。

「なら止めるしかないっ」

 そう言って飛び出そうとする零次の腕を、誰かが掴んだ。

「――心配ないよ」

 それは、冷夏ではない。昼間に会った、郁奈と名乗る少女だった。

「郁、あなたまでなんでここに……!」

 冷夏が郁奈の肩を掴み、零次から引き離す。零次も、突然現れた少女を前に、どうすればいいのか戸惑っていた。

 そんな二人を前に、郁奈は落ち着き払った様子である一点を指さした。その先には、あの包帯の姿がある。

「大丈夫だよ。彼がいるから」

「あいつは、なんだ?」

 零次は郁奈ではなく、冷夏に尋ねた。しかし冷夏も頭を振る。

「お前たちの仲間ではないのか?」

「私たちにも分かりません。こちらに着いたときには、既に草薙樵と戦っていて……」

 だとすれば、あの包帯は何なのか。

「あれは本来現れるはずの無い者――――無現」

 答えたのは、郁奈だった。

「無現だと?」

「そう。ここではないどこかでの後悔を背負い、今ではないいつかより現れた。それが彼」

 郁奈の言葉は相変わらず要領を得ない。冷夏もよく分かっていないらしく、その表情には戸惑いが浮かんでいる。

「謎かけはいい。あれは何者なんだ」

「これ以上は言えない。でも、見てれば分かると思うよ」

 郁奈は零次でも冷夏でもなく、無現と呼んだ者だけを見ていた。零次たちもそちらに視線を向ける。

 地震を引き起こしながらも突進を続ける樵に対して、無現は防戦一方のように見えた。ただ、樵も少しずつ傷を負ってきている。

 よく見ると、樵が突撃する際、無現は細かく反撃を試みている。致命打にはなっていないが、確実に樵の動きは鈍くなってきていた。対する無現の方は、目に見える形での外傷はない。

 何度目かの突撃で、樵の体勢が崩れかかった瞬間だった。無現はすかさず飛びかかり、樵の後頭部を思い切り殴りつける。

 樵が面を上げたときには、既に跳躍している。

「……っ!」

 次の瞬間無現の背に現れたものを見て、零次は息を呑んだ。

 それは禍々しさを漂わせる漆黒の翼だった。零次のものとよく似ている。ただ、よりその形は歪で大きなものだった。

 さらに驚くべきことに――黒翼は、一瞬にして無現の身体から離れた。切り離された己が翼を手にすると、無現はそれを重ね合わせた。

 途端、二枚の翼は奇怪な音を立てながら変形を始める。それ自体は数秒もしないうちに終わり、翼は巨大な一本の剣となった。

 剣とするにはあまりに無骨。刀身は使い手をも凌駕する大きさだが、ごつごつとした形状であり、美しさは微塵もない。少なくとも斬るための剣ではない。

 圧倒的な力で、相手を叩き潰す。それがあの剣の唯一の使い道だろう。

 その黒剣から生じる力は、先ほどまでの攻防すら生温く思えてくるほどのものだった。

 樵も本能的にその恐ろしさを感じ取ったのだろう。無慮の突撃はせず、じっと相手の出方を窺っている。

 無現は、迷うことなく黒剣を振りおろした。樵との距離は離れ過ぎている。これでは届かない、という零次の思考は、即座に吹き飛ばされた。

 剣圧。

 刀身から放たれた、衝撃波とでもするしかないものが、大地を抉り取った。粉塵が、遠く離れた零次たちのところにまでやって来る。

 黒剣は既に消えていた。無現は言葉を発さず、ただ樵のいたところを見つめている。

 やがて煙が晴れたとき、そこには誰の姿もなかった。跡形もなく消し飛んだわけではない。地震がまだ続いているから、樵はまだ生きているはずだ。どこかに隠れたか、逃げたか。

 しかし、無現は樵がいないことを確認すると、早々に退散してしまった。それからしばらくして、揺れは少しずつ収まっていく。樵の中の土門荒野が鎮まったということなのだろう。

「ほら、大丈夫だったでしょ」

 完全に地震が止まり、山が静けさを取り戻すと、郁奈は当然のようにそう言った。

「あいつは……なんだ?」

 零次はもう一度同じことを聞いた。郁奈は呆れたような眼を向けてくる。

「だから言えないってば。これは意地悪でもなんでもない。無現の正体を明かすことは、誰のためにもならないことなんだから」

「だが、お前は知っているんだろう」

「それも、無現にしたら迷惑なことなんだろうけどね。でも知ってるんだもん、仕方ないじゃない」

 まるで、そんなこと知りたくなかった、と言いたげだった。

「悪いけど、これは冷にも言えないよ。ただ一つ言えるのは、土門荒野が完全に復活でもしない限り、草薙樵や倉凪梢の暴走は、無現が抑えてくれるってこと」

「つまり……市中に被害は出ない?」

「うん」

 郁奈が頷くと、冷夏は若干安堵したようだった。が、すぐに硬い表情に戻り、こちらを睨み据えてくる。

 零次も警戒心を取り戻す。異常事態ゆえに脇に置いていたが、二人は敵対する者同士だ。

「戦うつもりはなかったんじゃないのか?」

「しかし、あなたが私たちを大人しく見逃すとも思えない。邪魔立てするなら、こちらも武器を取る覚悟はある」

 何人かが既に零次を囲んでいる。先ほど冷夏が下がらせた者たちだろう。こんな場所に来ているくらいだ。全員、素人ではあるまい。

「……一応、最初のあれは助けられたものだと解釈している。ゆえに、後は追わない。さっさと戻れ」

「最初の?」

「人の頭を押さえつけてくれただろう」

 そう言って零次は頭を撫でた。冷夏も気づいたのか、微笑を洩らす。

「借りを返す、ということですか」

「ああ。それに、子供の前だ」

 正体の掴めないところはあるが、郁奈はまだ子供だ。そんな彼女の前で、戦いを行うのは気が引ける。冷夏も同じように考えていたらしく、頷いてみせた。

「ただ、一つだけ聞きたい」

 踵を返そうとした冷夏に、零次は声をかけた。

「あなたは……この町に何か思い入れでもあるのか」

「……なぜ、そのようなことを?」

「時々この町のことを口にする。そのときだけ、何か他のときとは違うものを感じた」

 梢や樵を殺すこと、土門荒野に関することを語るときの冷夏は冷徹そのものだった。しかし、この町に関することを話すときだけは、そこに必死の思いが見え隠れしている気がする。

 零次の問いに、冷夏は間を空けて答えた。

「かつて、私は親友を救えなかった。この町で出会い、短いときながら、共に過ごしていて、最高に楽しい親友たちだった。……彼らを守れなかったとき、私はこの地だけは絶対に守り抜くと誓った。ただ、それだけです」

 冷夏は郁奈と共に去った。その表情はよく見えなかった。ただ、郁奈は寂しげにこちらを振り返った。それも、一瞬のことだったが。

「……親友、か」

 冷夏には冷夏で、譲れないものがあるのだろう。それでも、零次にも譲れないものはあった。

 零次とて、この町には思い出がたくさんある。いいことだけではない。辛いことも、悲しいこともたくさんあった。それでも、ここで知り合った人々、そして彼らとの思い出は、本当に掛け替えのないものだと思っていた。

 今の日常を絶対に失わせない。それが、零次の誓いだった。

 そのためにも、梢は死なせない。

「親友と言えるかどうかは分からんが、あいつは俺たちにとって家族だ。俺はもう――家族を失うつもりはない」

 周囲から完全に人の気配が消えたことを確認すると、零次は家に足を向けた。


 幸い、市中における地震の被害はあまりなかった。土砂崩れなども起きていない。震度四強とニュースでは流れていた。

 一応友人知人にメールを出したり、向こうから着たものへの返事を出したりしたが、怪我をした人はいなかった。ただ、涼子とだけは連絡が取れない。

 帰宅した零次もメールを送ったが、まだ返信はないようだった。今は皆、居間でニュースを見ている。

 その間、梢は一人湯船に浸かっていた。

 ……これからどうするかな。

 梢はそのことばかりを考えていた。

 先ほどの地震は大きいものだった。あれが土門荒野の力の一端だと零次は言う。ならば、土門荒野が完全に蘇れば、この町はどうなってしまうのか。それは想像したくなかった。

「俺の力が、皆ぶっ壊すことになるのか……」

 それは嫌だった。今まで梢は、自分の異常な力を、誰かのために使いながら生きてきた。それは誰かに強制されたものではない。幼い頃に父と交わした約束を、自分の意思で貫いているだけだ。倉凪梢という一人の男の生き様そのものと言ってもいい。

 しかし、土門荒野の存在がそれを覆そうとしている。自分が守ろうとしてきたものを、自らの手で破壊する。それも、自分以外の意思によって。

「そいつは、駄目だ」

 顔にお湯をかけて頭を振る。

 だからと言って、土門荒野を復活させないために死ねばいいというわけではない。ただ死ぬことは、正解ではない。

 大切なのは、守ると誓ったものを守り通すことだ。そのために出来ることやればいい。それは、今までの自分と何も変わらない。

 ただ、今回は問題が自分自身に根ざしている。そのせいで調子が崩れているのだ。

「時間もあんまないし……早く決めないとな」

 胸に手を当てながら、梢は一人呟いた。

 傷が湯にしみる。目を閉じると、いろいろなことが頭に浮かんできた。


 風呂上りの梢を出迎えたのは零次だった。

「なんだ、冬塚から連絡あったのか?」

「ああ。今まで寝てたそうだ。まったく、呑気なものだよ」

 そう言って零次は苦笑したが、すぐに表情を改めた。

「それで、話があるんだが」

「ああ、飯のあと何か言ってたな。なんだ?」

「お前――――今日どこに行っていた」

 射抜くような視線だった。完全に気づいているらしい。ごまかせる雰囲気ではなかった。

「なんで分かった?」

「雰囲気、とでも言うしかないな。戦いの後に滲み出るものがある。幸か不幸か、俺はそういう雰囲気に多く触れてきたのでな。お前の違和感にも気づいた」

 零次はこちらを睨みつけたまま言った。どうも相当怒っているらしい。

「それで、どこに行っていた」

「飛鳥井んとこの屋敷」

 梢が事もなげに言うと、零次は頭を抱えた。

「……相手の本拠地に行ったのか、お前は」

「情報収集にはそれが一番だと思ったんだよ。……まあ、空だったけど」

 梢が行ったのは、二年前の事件で利用させてもらった屋敷である。こちらに知られている場所をそのまま使うつもりはなかったのか、屋敷には誰もいなかった。

「本当か?」

「ああ。もっとも、防衛機能みたいなのは働いてたけど。それ抜けるのに少し時間かかっちまってな」

「倉凪」

 梢の言葉を遮るように、零次が肩を掴んできた。

「頼むから無茶はするな。お前に死なれでもしたらどうにもならないんだ。特に遥は、お前がいないと駄目になる」

「……」

 梢は反論しようとしたが、やめた。ここでの議論はあまり意味がない。

「悪い」

 短く言い切って、梢は頭を下げた。零次もしつこく説教するつもりはないのか、僅かに溜息をついただけだった。

「……今、この家がこういう形でいるのは、榊原さんやお前のおかげなんだ。皆、お前に死んで欲しくないんだ。俺も、お前に感謝している部分もある。だから、本当に頼む。自分の命を……粗末に扱わないでくれ」

 それは零次の本音だろう。彼が梢にここまで言って来たのは初めてだった。

 だから梢も、その場凌ぎの適当な言葉ではなく、本音を返す。

「分かってる。俺も――無意味に死ぬつもりはねえよ」

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