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異法人の夜-Foreigners night-/第二部  作者: 夕月日暮
十二月六日(火曜日)
8/34

第六話「少女の言葉」

 電話で言っていた通り、美緒は大学の方に戻っていた。特に危害を加えられた様子もない。

「よかったぁ……」

 彼女の無事な姿を見て、遥はほっと胸を撫で下ろした。

 亨は少しばつが悪そうに頭を下げる。

「悪かったよ。僕のミスだ」

「あ、うん。それは別にいいんだけど……」

 珍しく、美緒は亨の言葉を軽く流した。普段なら、ここぞとばかりにからかうはずなのに。

「何かあったのか?」

 零次もその違和感に気づいたのだろう。心配そうに尋ねる。

「……とりあえず食堂行かない? ここだと寒いし」

「ああ、そうだな」

 外は冷える。どうやら、また雪が降り始めたようだった。


 遥たちは食堂で適当に注文を頼み、片隅の席に腰をおろした。

「――そっか」

 零次たちから話を聞いて、美緒は物憂げに頷いた。

「確かに、あの人もそんなこと言ってたよ」

「奴と……草薙と話をしたのか?」

「うん。あんまり詳しいことは教えてくれなかったけど、悪い人じゃなさそうだった」

「悪い人じゃないって、お前を人質にしてたじゃないか」

「でもきちんと解放してくれたし、この近くまで送ってくれたよ」

「ぬ、それはそうだけど……」

 亨は美緒の言葉が納得出来ないのか、しかめっ面になって身を引いた。

「しかし、嫌な話だ。向こうは向こうで、守るべき相手がいる。そのために倉凪を殺そうとするなどと……」

「目的には賛同出来ても、手段が物騒過ぎますよ」

「ああ、亨の言う通りだ。それに、あの連中が言っていたこと、どこまで真実か分からんしな」

 美緒たちが会った草薙樵は、変なところに倒れていた点を除けば、正気であるように見えたという。一方、古賀里夕観たちは、草薙樵が土門荒野に侵食されつつある、と言っていた。侵食の度合が深まれば、梢と樵が殺し合うようになるとも。

「鵜呑みには出来ないね」

「というか、したくないな。これ以上悪い情報は聞きたくないのが正直なところだ」

 零次は眉間に指をあてて溜息をつく。

「放っておいたら倉凪と草薙が殺し合うようになり、どちらかが死んで相手に取り込まれれば、土門荒野は復活。そうさせないために、飛鳥井は両方を、古賀里は倉凪だけを殺そうとしている、か」

「本当だとしたら、私たちが一番不利になるね……」

 梢を守るという基本方針こそあれど、事態を打開する方法が見つからないのだ。どうすればいいのか、分からない。

 零次は腕組みをして唸り、

「美緒。差支えなければ、草薙とどのような話をしたか聞かせてくれないか。何かヒントがあるかもしれん」

 と言った。

「うん。それはいいけど……」

 美緒はゆっくりと、話を始めた。


 時間は少し遡る。

 零次たちが飛鳥井冷夏や古賀里夕観らと対峙していた頃、樵は美緒を連れて、大学の方に戻ろうとしていた。

 二人はずっと無言だった。自分が土門荒野の片割れだと告げてから、樵は逃げに専念している。美緒も、聞きたいことは山ほどあるはずなのだが、何から聞けばいいのか分からずにいた。

 ちらりと樵の顔を覗き見る。しかし、その横顔からはどんな感情も読み取れなかった。

「……お前らの親父にゃ世話んなった」

 ふと、樵がそんなことを言った。

「俺が土門荒野に寄生されたのは、まだ物心つくかつかないかって頃だった。漢字もろくに書けなかったが、自分の身に何が起きたのかは理解出来た」

「……どんな気分だったの?」

「最悪だったぜ。いずれ自分が食われるってことが直感で分かったんだからな。教え込まれた理屈なら拒絶も出来るが、直感ってのは否定しようがない」

 美緒は今朝見た兄の姿を思い浮かべる。その直感でまいってしまったから、あんなに投げやりな態度だったのだろうか。

「そんなとき、お前らの親父に助けられた。決して消えることのなかった土門荒野は分割されてその力をなくした。その代わり、厄介なもんがお前の兄貴に埋め込まれたわけだが」

「知ってる。朝聞いた」

「ってことは、そっちの方も状況は大体理解出来てるわけか」

 そう言って、再び樵は押し黙った。

 美緒にとっては複雑だった。梢が土門荒野などという爆弾を抱えることになったのは、樵や司郎のせいとも言える。無論彼らは悪意からそうしたわけではない。それに、樵は梢と同じ被害者でもある。

 と、ポケットの中で音楽が流れた。携帯の着信音だ。涼子からのメール用に設定してある音楽だった。

「んじゃ、この辺りでいいだろ」

 樵が美緒を降ろした。周囲を見渡すと、少し離れたところに朝月大学がある。

「ほれ、ダチからだろ? さっさと出てやんな」

「いや、これメールだから」

「それでも返信はなるべく早めにだ。ダチ公ってのは大事にしなけりゃならねえって決まってるんだよ。……ま、付き合わせて悪かったな」

 樵はすぐさま踵を返した。その背中に慌てて声をかける。

「ねえ、これからどうするの?」

「聞いてどうする」

「もしあれだったら、家に来ない? 追われてる者同士さ、うちのお兄ちゃんと手を組む、とかさ」

「俺個人としちゃ魅力的な誘いだが、それは無理な相談だ。俺とあいつの合流は他の誰もが望まない。全力で妨害してくるだろうよ。俺たちが近付けば、土門荒野の復活が早まる。そいつはいろいろとまずいだろ」

 少しだけ美緒の方を振り返って、樵は言う。

「ま、連中も簡単に俺たちを殺せはしない。そいつを利用して、せいぜい好きにやらせてもらうさ」

 樵の表情には、獰猛な笑みが浮かんでいた。相手を委縮させる、そんな笑みだ。

「ああ、そうそう。夜……だいたい八時過ぎ以降は外出しない方がいいぜ。万一俺に会ったら、お前を殺しちまうかもしれねえからな。……じゃ、あばよ」

 口早にそれだけを言い残して、樵はいずこかへと行ってしまった。


 美緒の話はそれで終わりだった。

「殺しちまうかもしれないって……やっぱり、自覚はあるのかな」

 土門荒野に侵食されるということは、無差別に破壊を繰り返すようになる、ということだ。そういう存在になりつつあるという自覚がなければ、このような忠告はしないだろう。

「自覚はあるにしても、結局草薙が何をしたいのかは分からないな。ただ、一点気になるところはあった」

「連中も簡単には殺せないってところ?」

「ああ。それが事態の打開に繋がるかは分からんが、一考の価値はある」

 俺たちを、という言い方からして、己の実力に自信があって出た言葉ではないだろう。冷夏たちが何かしらの問題を抱えている、と考えた方が自然である。

「そういえば美緒、涼子からのメールはどんなものだったんだ?」

「あ、うん。『今どこ?』って」

「それだけ? 涼子ちゃんにしては珍しいね」

 遥の妹であり美緒の親友でもある涼子は、こことは違う大学に通っている。近頃は忙しいという話を聞いているが、暇になったのだろうか。

「まあね。だから、どうしたのって返信出したんだけど」

 と、そこで美緒の携帯が鳴った。今度はメールではなく電話らしい。

「あ、もしもし涼子? ああ、うん。そうだよ、皆一緒だけど」

 美緒は頬を掻きながら表情を和らげた。まだ涼子のことを呼び捨てにするのに慣れていないらしい。昔からの癖が身についているのだろう。

「え? ああ、はいはい。それじゃ食堂にいるから」

 そう言って美緒は電話を切った。

「こっちに来るのか?」

「うん。今日午後からやる講義が揃って休講になったから、こっちに顔出すって」

「最近は忙しくてあまり会えなかったからな」

 零次も優しげな顔つきになる。彼と涼子は互いを大切に想い合っており、それは当人たちも自覚しているのだが、今一歩を踏み出せないという微妙な関係なのである。友達以上恋人未満とは、美緒の評。

 涼子が通っている大学はここからは遠い。彼女の家はこの町にあるのだが、以前と比べると直接会う機会は減ってしまっている。久々に顔を見れるのは、遥としても嬉しい。

「でも、どうしようか。涼子ちゃんにもこのこと言っておく?」

「いや……涼子も今は大変みたいだし、心配はかけたくない。それに、酷な言い方になってしまうが、話したところであいつに何が出来るわけでもない。そのことで一番苦しむのはあいつだ。余計な負担を増やすだけになる」

「もし後で知ったら、涼子ちゃん怒ると思うよ」

「それでも、あいつには心配かけたくないんだ」

 零次の言葉には、真摯な響きがこもっていた。遥は「そっか」と身体を引く。彼の想いが伝わってきたからだ。能力など使わずとも、自然に。

「もし、言わなきゃいけないようなことになったら付き合うよ。久坂君一人だと、上手く説明出来なさそうだし」

「むぅ……反論したいところだが出来んな」

 零次が苦笑する。沈みがちだった雰囲気が、少しだけ明るくなった。

「……っと、すまない。トイレだ」

「あ、それなら帰りに飲み物買ってきてくれない? 話してたら喉渇いちゃった」

「私も。そんなしないで来ると思うから、涼子の分もね」

「僕もお願いします」

「承知した。適当に選んでくる」

 各自からお金を受け取って、零次は食堂から出て行く。

 遥は窓の外を見た。本格的に降り込みそうな勢いである。

「――――しばらく雪、続きそうだな」


 それは、零次が頼まれた飲み物を買おうと、自動販売機の場所へ向かおうとしたときのことだった。

「……?」

 何か視線のようなものを感じて、零次は振り返る。

 しかし、人だかりがあるだけだった。不審な点はない。

「気のせいか」

 そう思って販売機に視線を戻そうとして――身体の動きが途中で止まった。

 すぐそこから見える、窓の外。そこに、大学では見かけないような、小さな女の子が立っていた。

 昨晩、冷夏を助けた少女だ。

 少女は何も言わず、踵を返す。その足取りは遅い。ついてこいと言わんばかりである。

「……」

 零次は僅かにためらったが、追いかけることにした。あの少女からはまだ何も話を聞いていない。もしかしたら、何か貴重な情報を得ることが出来るかもしれないのだ。その機会をみすみす逃すわけにはいかない。

 入口から外に出る。雪の寒さを感じながら、少女の姿を探した。

 彼女は校門の外に向かってゆっくりと歩いている。逃げるという様子ではない。

「待てっ」

 声をかけながら零次はその後を追う。異法人の脚力は人間の数倍にもなる。すぐに追いついた。

 零次は正面に回り込んで、少女を見下ろした。少女に動じる気配はない。

「……やっぱり、ムードというものが分かってない」

「何?」

 自分の前に立ちはだかる零次を、少女は無表情で見上げてきた。心なしか、呆れられているような気もする。

 少女は嘆息した。

「逃げたりしないよ。だから大人しくついてきて」

「……」

 零次は周囲を見た。冷夏や天夜たちがいる様子はない。

「何の目的でここまで来た」

「……だから、ムードが分かってないって言ってるのに。こんな道端で話すのは嫌。もっと見晴らしのいいところに行こ」

 少女はそのまま歩いて行く。零次はどうしようかと迷ったが、結局ついていくことにした。少女からは好意も感じ取れないが、悪意もなさそうに見える。

 ……それなら、なぜここに?

 あれこれ考えているうちに、少女はすいすいと進んでいく。

 やがて二人は、大学の敷地内にある林の中に辿り着いた。見慣れた場所のはずなのに、何か妙な感覚がした。降りしきる雪のせいか、目の前にいる少女のせいか。

「改めまして、こんにちは」

「……ああ」

 零次は曖昧に頷いた。今更挨拶するのも変な気がしたからだ。

 しかし少女は、それで機嫌を損ねてしまったらしい。かすかに険しい目つきになる。

「ああ、って駄目だよ。挨拶はきちんとしないと」

「こんにちは。……俺の名前は?」

「知ってるよ。お兄ちゃんのことは」

 冷夏か天夜にでも聞いているのだろう。知っていてもおかしくはない。

「こちらは、君のことを知らないがな」

「私は郁奈」

 少女は短くそう名乗った。

 零次はかすかに表情を硬くする。郁奈というのは、昔亡くなった零次の妹の名前なのだ。それも、こんな雪の寒さを感じる日に。そのせいで、少し嫌な記憶を思い出したのである。

「……それで、何の用でここまで来た」

「お兄ちゃんに会いに来たんだよ」

 そこで、はじめて彼女は笑った。子供が浮かべる無邪気な笑みではなく、もっと深い何かを感じさせる笑みだったが。

「うん。やっぱり、こんなときでも、会えたのは嬉しいな」

「意味が分からん。俺に会うためだと?」

「そうだよ。そろそろ事態が本格的に悪化する頃だから、忠告しに来たの」

 郁奈の声が低くなる。淡く浮かんでいた笑みも消え、また人形のような表情に戻ってしまった。

「――――倉凪梢を助ける方法は存在しない」

 その言葉には、少女の戯言とは思えない迫力があった。反論しようとするも、胸が急に痛み出して、何も言えなくなってしまう。

「どんなに頑張っても、土門荒野は必ず復活する。恐るべき執念で、破壊と殺戮を撒き散らすために現れる。それは阻止出来ない。絶対に」

「……どういう意味だ」

「皆がどれだけ一生懸命になっても、その人を守りたいと思っても、運命は無慈悲にそんな希望を打ち砕く。お兄ちゃんも知ってるんだよ、本当は」

 郁奈は零次に背を向けながら言った。その声からは感情が読み取れない。他人事のように話す。それが、零次を苛立たせた。

「やってみなければ分からない。やる前から諦めるつもりは、俺にはない」

「それで辛い思いするのはお兄ちゃんだよ」

 郁奈がつまらなさそうに、雪の積もった地面を蹴る。

「でも、ここで言ってもお兄ちゃんが納得しないのも分かってたけどね。……こういうところは、本当に頑固なんだから」

「知った風なことをいう」

「知ってるよ、お兄ちゃんのことは」

 先ほどと同じことを言う。だが、受ける印象は全く違っていた。彼女に兄と呼ばれることに、不快を感じる。

「……まあいいや。これ以上お兄ちゃんを怒らせるのも嫌だし、今日はこれくらいにしとくよ。私、嫌われたいわけじゃないもん」

 郁奈がこちらを振り返る。一瞬だけ、その瞳が寂しげに見えた。

「だから、一つ教えてあげる。冷や緋河天夜は、簡単には倉凪梢や草薙樵を殺すことは出来ない。土門荒野の欠片を捕獲する方法はないから、片方を殺してしまうと、もう片方のところに欠片が移ってしまう可能性がある。そうなれば、土門荒野が復活してしまう。だから冷たちは、二人をほぼ同時に殺さなきゃ駄目なの」

「それでも、結局は他の誰かに乗り移るのではないか?」

「二人同時に仕留めた場合、土門荒野の欠片はどちらも相当弱まってる。その状態で誰かに乗り移っても、すぐには復活しないよ」

「どちらにせよ、根本的な解決にはならないわけか」

 情報提供はありがたいが、さほど有益なものではなかった。冷夏たちの抱える問題は分かったが、それは事態の解決に役立つものではなさそうだった。

「……根本的な解決策なんてあるなら、倉凪司郎だって、冷たちだってそっちを選んでる。誰も、好きでやってるわけじゃないよ」

 郁奈は小さく鼻を鳴らした。冷とは冷夏のことだろう。略称で呼ぶくらいだから、親しい間柄なのか。

 そう考えると、この情報提供の意味がよく分からなくなってくる。親しい相手の問題点を、わざわざ敵側に伝える。その真意が測れない。

 思考を働かせる零次を見て、郁奈はそのまま踵を返す。

「そうやって、考えてばかりいる癖、直した方がいいよ。――じゃあね、お兄ちゃん」

 あれだけムードにこだわっていたのに、郁奈はあっさりと去っていった。自然な足取り、当然のような別れ方。そのせいだろう。彼女の後を追うという発想が、なぜか出てこなかった。

「郁奈、か」

 亡き妹と同じ名を持つ少女。不吉な予言を残し、彼女はいったい何を伝えたかったのだろう。

 なぜ、あんなにも感情のない話し方をするのだろう。

「……確かに、考えても仕方がないな」

 零次は肩に降りかかった雪を払うと、踵を返した。

 皆を待たせている。早めに戻った方がよさそうだった。


「あ、零次やっと来た」

 戻ってみると、既に涼子が来ていた。電話やメールのやり取りはよくするが、顔を見るのは少し久し振りかもしれない。冷えた心と身体が、不思議と温かくなった気がした。

「すまない、飲み物選びに時間がかかった」

「そういうとこで悩むの、零次の癖みたいなものだからね」

 呆れ半分おかしさ半分の表情を浮かべる涼子。そんな彼女を見ていると、にわかに日常の中に戻って来た気分になる。

 周囲にさり気なく視線を向けると、遥がにっこりと笑った。零次の希望通り、涼子には何も言っていないらしい。

 買ってきた飲み物を配りながら席につくと、横にいた亨が脇腹を突いてきた。

「何か、あったんですか?」

「少しな。まあ、後で話す。それほど急を要することでもない」

 あの郁奈という少女のことをどう話せばいいのか、零次もまだよく分かっていなかった。それに、涼子がいるところで話すことではない。

「しかし良かったのか? 最近は忙しいんだろう、休みが取れたならゆっくりしていた方が……」

「体調管理は出来てるから大丈夫よ。それに、家で一人ぐだぐだしてるより、皆と会ってる方が楽しいもの」

 そう言う涼子は、確かに元気そうに見えた。身体はそんなに強い方でもないが、涼子は風邪などは滅多に引かない。自己管理がしっかり出来ているからだろう。

「最近は正直、会える時間も減ってきて寂しかったからね。あっちにはあっちの友達もいるけど、こっちの皆は身内みたいなものだから。……本当、皆元気そうでほっとしたわ」

「実際遥さんは身内ですしね」

「ううん、私だけじゃないよ」

 亨の言葉を、やんわりと遥が訂正した。

 遥と涼子は生後間もなく生き別れた姉妹だ。再会したのは二年前で、それからは失った時間を取り戻そうと、家族になろうと頑張ってきた。別々に暮らしてはいるが、今の二人はもう立派な家族だ。

 けれど、二人だけではない。榊原家で暮らす皆が、涼子のことを家族同然に思っている。遥はそう言っているのだ。

「今日はこの後予定入ってるから行けないけど、そのうちそっちの家にも顔出すわ。先輩の誕生会にも行けなかったし」

「あはは、梢君きっと喜ぶよ。照れ屋さんだから、表には出さないだろうけど」

「誕生会のときは凄かったもんね。あの駄目兄っぷり、涼子にも見せてあげたかったよ」

 遥と美緒が揃って笑い、涼子がその話について聞きたがる。

 いつも通りの日常だった。この二年間、彼が過ごしてきた場所がここにはある。

 昨日にわかにそれが崩されてしまった。しかし、失ったわけではない。この風景を守りたい。強くそう思う。

 ……二年前のあいつも、こういう思いで戦っていたのだろうか。

 そうやって梢のことを考えた――その瞬間。

「……う」

 急に、激しい頭痛に襲われた。

「あれ、どうかした?」

 異変に気付いた涼子が、こちらに心配そうな眼差しを向けてくる。

 いや、なんでもない――そう答えようとしたが、上手く言葉が出てこない。

 痛みはすぐに和らいだが、今度は平衡感覚が失われつつあった。目に見えるものが混濁していく。まるで現実という泉が、何かの力で掻き乱されるような感覚である。

 その中で、ノイズ交じりの光景が見えた。

 どこか森のようなところに、一人の男が立っている。顔はモザイクがかけられたようになっていて、よく分からない。

 男は獣のように低い姿勢で、こちらに飛びかかろうとしていた。よく見ると、周囲は台風が直撃したような、凄まじい惨状になっている。これも、この男がやったのか。

 そして、男がこちらに跳躍し――――そこで零次の意識は、元に戻った。

「……大丈夫?」

 目の前にいるのは、顔の見えない男などではない。心配そうにこちらを覗きこんでいる、涼子の顔だ。

「ああ……すまん。ゲームのやり過ぎで寝不足なんだ」

 咄嗟の言い逃れ。それで誤魔化せるとは思わなかったが、とりあえず涼子は身を引いた。

 不思議なことに、先ほどまでの感覚はほとんど残っていなかった。意識にも不調はなく、頭痛の名残もない。

 ……なんだったんだ、今のは。

 おそろしく生々しい感覚だった。零次は白昼夢を見たことはないが、そんなものとは違うような気がする。

「なんだったら、保健室に行く?」

 遥たちも心配そうにこちらを見ている。零次は頭を振って、努めて明るく言った。

「大丈夫だ。馬鹿は風邪を引かないと言うだろう?」


 涼子と別れて、零次たちは家に向かっていた。

 道すがら、郁奈と会ったこと、彼女の予言じみた言葉などのことを伝えた。

 先ほど見た謎の光景については、さすがに触れなかった。郁奈のこと以上に意味が分からない。言ったところで、皆を混乱させるだけだと判断したのである。

「結局、手がかりと言えるほどのものはありませんね」

 亨が落胆の声を上げる。遥も肩を落としていた。

「少なくとも、その子の言葉を信じるなら……事態の解決方法は、飛鳥井さんたちも知らないってことになるよね」

「古賀里の連中の解決方法は、俺たちにとって認められるものではないしな」

 つまり、土門荒野を巡る問題の解決方法の発見は、絶望的ということだ。

 涼子がいたときのような楽しい雰囲気が一転、重苦しいものへと変わってしまう。

「でも……絶対、諦められないよ」

 遥は拳を握り締めて、小さく気合いを入れた。

 そう。まだ、諦めるには早い。

「倉凪は今この瞬間に生きている。生きているなら、まだどうとでもなる」

「うん。絶対、どうにかしなきゃ」

 彼らにとって、梢は恩人であり仲間であり友であり、そして家族だった。

 いつも支えてくれた大切な家族を、見捨てることなど出来ない。

 それは、この場にいる全員が抱いている思いだった。

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