第二十四話「次へ」
どうにかしないと。
そういう思いはとても大切だ。
何かを解決する。何かを成し遂げる。そういう意思があって、人間は発展し続けてきたのだから。
冬塚涼子は、幼い頃からそういう考えを持っていた。
自分でなんとかしなきゃ。涼子はその思いが人より強い子どもだった。
特にきっかけはない。ただ、両親はよく忙しそうにしていたから、なるべく身の回りのことは自分でやるようにしていた。そうすると母はよく褒めてくれた。学校でも先生に褒められたし、周りの皆からは頼りにされた。
それが嬉しくて、いつしか『私がやらなきゃ』という思いばかりが強くなった。
しっかりした自分でいなくちゃ。
ずっとそうしてきた。
心の底から人を頼ったことはない。
心の底から甘えたこともない。
迷惑をかけまいと、しっかりしようと、どこかで遠慮していた。
「ねえ、零次」
「ん?」
だから――こう言うのは勇気がいる。
我侭を言う勇気が。
「我侭言ってもいい……かな」
零次は少し怪訝そうな顔をした。だがすぐに頷いてくれた。
「なんだ?」
「ちょっと、こっち来て」
並行して飛んでいた零次が距離を詰めてくる。
顔が近い。こんなに間近で彼の顔を見たのは初めてだ。
ずきりと胸が痛む。
もう少し近づけば、触れ合うことができる。
だが、その距離を縮めることは――できなかった。
「零次、死にたくない?」
「……ああ。まあ、死にたくはないな」
涼子の表情から何か読み取ったのか、零次は険しい表情を浮かべて言った。
「そっか。良かった。私も……零次や姉さん、皆には生きてて欲しい」
「うん、そうだな。そのために……この事件、きちんと終わらせないと――」
言いかけた零次の言葉を遮るように、涼子は言う。
「ごめん」
その言葉と共に涼子は黒剣を振るい、零次の手にした剣を弾き飛ばした。
零次は剣が発する風を操ることで、空を飛んでいた。その剣は夜の闇に吸い込まれるように、放物線を描きながら落ちていく。
「――」
零次が呆然とこちらを見ている。涼子は哀しげな笑みでそれに応えた。
「本当に、ごめん」
零次の身体が落下していく。必死にこちらへ手を伸ばそうとするが、それは虚しく空を切った。
「涼子……!」
それが最後だった。
涼子は踵を返し、一人で土門荒野が待つ山中に向かう。
零次が何か叫ぶのが聞こえたが、もうそれは明確な言葉としては届かなかった。
それは、ほんの何日か前。
涼子は一人きりで森の中に佇んでいた。
正確には、涼子ではなく無現である。無現が表に出ている間、涼子は映画を見るような感覚で現実を捉えていた。
見ることが出来るスクリーンは二つある。一つは今ある現実。もう一つは、やがて訪れるであろう予測された未来。
その予測された未来に映っているのは、息絶えた倉凪梢の姿。まだその予測に、現実は追いついていなかった。
涼子は気を塞いでいた。
当然である。梢に手を下すのは自分なのである。涼子ではなく無現だとしても――それはやはり自分なのだと思う。
梢とは長い付き合いだった。
零次が突然失踪した後、少しして美緒と知り合い、ほぼ同時期に出会った。
年相応に馬鹿をやる反面、どこか人とは違う価値観を持ちながら、自分だけの生き方を貫いていた。そういうところに憧れたこともある。
自分は、これからそんな相手を殺す。
大義名分はある。彼をこのまま放っておけば、町が滅び、多くの命が失われる。
だが、大義名分の影には『死にたくない』という個人的な願望が見え隠れしている。
それが、より涼子の苦悩を深くしていた。
そもそも、土門荒野の一件とは関係ない涼子がなぜ絶対に『死』を迎えるのか。
一言で言ってしまえば、それは自業自得なのだ。
最初、無現が出てきて間もない頃、涼子はこのまま逃げてしまえば無現は消えるのではないか、と考えたことがある。しかしそれは無現の一言で否定された。
『君にそれはできない。絶対に』
涼子の中に無現がいようがいまいが、梢や土門荒野の問題が解決するわけではない。それを放り出して一人安全地帯に逃げ込むことは、とてもできなかった。
そうして涼子は考える。どうせなら無現の力を使って、事態を解決できないか、と。
その結果、冬塚涼子は死ぬ。
『君の死は、その正義感……というより責任感ゆえだ』
無現はあえて優しくそう言った。だが、要は自業自得である。分かっていながら身の程知らずな無茶をして死に至る。それは涼子が涼子である以上避けられない流れだった。運命とはよくぞ言ったものだと、涼子は妙に嫌な気分になった。
町を守ろうとすると死ぬ。そんな自分の死を否定するために、梢を殺す。
二つの目的は一致しているはずなのに、絶対に相容れないものがあった。
『……来る』
無現の呟きとともに、近くに何かが墜落する音がした。
……違う、何か、なんかじゃない。
涼子の躊躇いを振り切るかのように、無現は急ぎ足で歩を進める。
梢はすぐに見つかった。
墜落の勢いで薙ぎ倒されたのだろう。森の中で不自然なほどに開かれた道。その終着点に、彼は倒れていた。
既に満身創痍。放っておいても、その命はじきに尽きるだろう。
ここが彼の終わり。もう、ここからどこかに行くことはできない。
無現が――自分が梢の前に立つ。彼は不思議そうにこちらを見上げてきた。
「……誰だ」
全身に包帯をまいていたから、彼はこちらの正体に気付かなかった。いや、そうでなくとも、こんなところに涼子が来るなどとは思ってないだろう。
『……斬る』
わざわざ胸中で無現が呟いたのは、彼自身、なかなか覚悟ができなかったからだ。無現――彼と梢は決して仲が良かったわけではない。それでも、涼子には理解できないところで、何かしら繋がっているものがある。そんな関係に見えた。
無現が手にした剣を振り上げようとしたとき、梢は掠れ声で言った。
「お前じゃ、ない……」
手が止まった。
「あいつは、どこだ」
何を――。
何を、言っているのだろう。
こんな状況で。泣き叫びたいくらい辛くて苦しいはずなのに。
梢は何を探しているのだろう。
決まっている。樵だ。
彼を倒して土門荒野を一つにし、自分の始末をつける。
そんな悲しい目的のために、彼は残り僅かな命を費やそうとしている。
ずっとそうだった。
いつも人のために何かしてやろうと、そんなことばかり考えてそうな人だった。
そういうところに憧れもしたが、反発もした。そこまで他人のためにするのか。なぜそんなに他人のために頑張れるのか。理解できない部分もあった。
……もう、いいよ。
「……もう、いいだろう」
これまで言いたくても言えなかった、梢の生き方に対する否定の言葉。こんなときに言うのは残酷すぎるかもしれない。それでも、言葉は溢れ出てくる。
……先輩、あとは、私に任せて。
「倉凪梢。あとは、俺に任せろ」
……もう、一人で何でも抱え込まないで。一人で何でも背負おうとしないで。
「もう、一人で抱え込むな。自分一人で、なんとかしようとするな」
それは、ある意味自分に向けた言葉だったのかもしれない。
誰にも相談しようとせず、土門荒野という怪物に対し、素人同然のくせに一人で戦おうとした自分自身。
このぎりぎりの局面で、そんな自分に耐え切れなくなって。
否定したかった。そして、否定して欲しかった。
梢は何も言わない。かすかに開かれた双眸が、虚しくこちらを見つめている。
「……あとは俺がやる」
それは、涼子ではなく無現の言葉だった。
「必ず皆を助ける。土門荒野などに、皆を殺させはしない」
それまで、無現は涼子一人を助けられればいい、と言っていた。俺の目的は、俺が存在する意味はただそこにだけあるのだと。
だが、梢と涼子の二人を見て――彼もまた、諦めきれなくなったのかもしれない。
「……駄目、だ」
今にも消えそうな声で、梢が言った。
「顔も見せないような……奴に……任せられるか」
この期に及んで、つまらないことにこだわる。だが、自分が同じ立場だったら――やはりこんな怪しい風貌の奴に、後事は託せないだろう。
『……涼子。見せるか』
……。
『最期の手向けだ。安心して眠らせてやりたい』
…………うん。
梢の意地に応えよう。今は、そうすることしかできない。
「……そうか。なら、見せよう」
そう言った無現に、梢は微笑んでみせた。それはもう動けない彼なりの、精一杯の感謝の印だった――と思うのは、自己満足に過ぎないのだろうか。
そんなことを考えているうちに、無現は包帯を解いた。
無現が表に出ている間、声や身体能力は彼がベースになる。しかし外見は涼子のままだった。
梢の眼差しが揺れる。
穏やかだった表情が――悲痛なものに変わった。
「なんだ……それ」
涼子は少し驚いた。梢の声が少しだけ力強くなり、そこに怒りが込められていたからである。
「なんで、お前」
何か言いかけて、言葉に詰まったようだった。小さな咳。荒くなる呼吸。見ているこちらが不安になってくる。
「駄目だ」
梢は小さくそう言って――腕を振り上げた。
呆然としていた無現は完全に不覚を取った。樵との戦いで不自然なほどに伸びていた梢の腕は、彼の手から黒剣を奪い取った。
こんな映像は、見ていない。
ほぼ完璧を誇る無現の未来予測。そこに、梢のこんな行動はなかった。
ただ彼は穏やかに、その生命を終わらせる。
それだけのはずだったのに。
無現が剣を奪い返そうと手を伸ばしたとき。
時間にして、何秒もなかっただろう短い間に、涼子は聞いた。
「お前は、こんなもん背負うな」
梢は奪った剣を内側に向けて、
「先がある。お前には。……行け」
――――思い切り、振り下ろした。
あれは、おそらく一秒にも満たなかったろう。
そんな短い時の中で、あんな言葉があったのかどうかは分からない。
それでも涼子は確信していた。
言ったかどうかは別にして――あれは梢から自分に託された、精一杯のメッセージだったのだろう。
先がある。それは梢にとっての先ではない。涼子の先だ。そこに梢はいない。
だが、梢から受け継いだものを伝えていくことはできる。上手く言葉にはできないが、あのとき自分は、確かに彼から何かを受け継いだ。
彼の死に顔は穏やかで、どこか満足げなものだった。
あのときの涼子には、その意味を汲み取る余裕はなかった。
だが、今になってようやく分かった気がする。
……心の中で生き続ける、なんて言葉があるけど。
それは少し違うと思う。
死は死だ。ただ、死んだということは、それまでは生きていたということだ。
生きるということは、自分なりの方法で何かを伝えていくことだと思う。
その伝えた何かが途絶えない限り――その人の生きた証は、その生涯の意味は消えないと思う。
梢はそのことを知っていて、そこに生きる意味を見出していたのだろう。
死んだのではなく、生を全うした。
その結末は悲しいものだったが、その生き様は『悲しい』などという言葉でくくっていいものではない。
未来が見えた。
あのまま零次と一緒に行けば、涼子は死なずに済む。
無現の出現条件が涼子の死ということもあり、その副産物として見える未来は、これまですべて涼子の死に繋がるものだった。見える未来と言えば、自分がいかにして死ぬかという経過のみだった。
自分が死なない結末は初めてだった。
ただし――その場合、ほぼ確実に零次が死ぬ。土門荒野の最後の足掻きから涼子を守ろうとして、命を落とす。涼子が死ななくて済むのは、その犠牲があってのもの。
だから、彼女は迷わなかった。
一人で行けばどうなるのか。正直、見える未来がぶれていてよく分からない。
……生きるも死ぬも、半々ってとこかしらね。
そんな状況にあって、涼子は安堵していた。一人で行けば、零次が死ぬことはまずないのだ。今はそれが嬉しい。
死に対する恐怖が消えたわけではない。死ぬかもしれない状況は、やはり恐い。
けれど、もし自分が死んでしまったとしても、生きた意味はあったはずだ。零次や遥、美緒や亨。他の皆にも、きっと何かしら伝わっていると思う。
だから覚悟を決められる。この安堵は、覚悟をした者だけが感じることのできるものだと涼子は考えている。
山が近づいてくる。そこから五秒後に飛び出してくる樵に向けて、涼子は剣を構えた。 ……来た!
もはや原型を留めていない。手足の区別すらつかない怪物の姿で、樵はこちら目掛けて飛びかかってきた。
速度はほぼ互角。
力尽きる寸前の樵と、消滅寸前の無現の力。
二つの点が宙で激突し、涼子は腹部に強い衝撃を感じた。樵の手足のうち三本が、腹部を貫いている。
その代わり、涼子の剣もまた、樵の首を貫いていた。しかし樵はまだ動く。その口を肉食恐竜のように開けて、こちらに噛みついてこようとする。
「っ……まだ!」
痛みで全身が焼けつくようだ。足は痺れて力が入らない。ただ、剣に宿った力はまだ消えていない。そこから風が広がっていく。
「う、あぁぁぁぁっ!」
見えない翼が背中に広がるイメージ。そこから、風に乗って突き進む。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
涼子が押し切る。山腹目掛けて、樵を完全に叩き潰そうと飛翔する。
樵が広げた口を閉じるのとほぼ同時に、二人は山に衝突した。
どこに落ちたか分からない剣を探している暇などない。
零次は着地すると、迷わずその足で涼子を追いかけ始めた。いつのまにか冷夏が追いつき、並走している。
「久坂零次! 冬塚涼子は……!?」
「一人で行ったっ! くそ、くそっ……!」
なぜ彼女が一人で行ったのか。決まってる。一緒に行けば零次が死ぬ。そういう未来を見たのだろう。
だが、そんな状況において一人で行くのは自殺行為に等しい。
涼子もそんなことは分かっているはずなのに。
奥歯を噛み締めた零次は、彼方の空で涼子と樵の衝突を見た。
千里眼で捉えたその光景は、到底許容できるものではなかった。
「――」
もはや言葉を発する余裕もなく、思考をかなぐり捨てて、零次は力一杯走った。
……ようやく、ようやく好きだと言えたのに!
その矢先に、なんなんだこれは。
……涼子……!
はじめての友達。
一緒にこの町の商店街なんかを駆け回った。それまで世界は陰鬱なものにしか見えなかったのに、彼女と一緒にいると、何もかもが新鮮で楽しかった。
七年越しの再会。最初はぎこちなかったが、いつしか打ち解けた。他の皆と一緒に、この町だけではなく、いろいろなところに行った。どの思い出の中にも、彼女の姿が少なからずあった。
呆れながら世話を焼いてくれた。
照れながらも一緒にいてくれた。
どんなに怒っても、こちらがちゃんと謝れば許してくれた。
その笑顔に、何度も救われた。
山の入口に達したとき、零次は視線を上げた。
激突の余塵が、まだ中腹の辺りに残っている。
すぐさま駆け上がろうと一歩を踏み出す。
だが。
そのとき、町が大きく揺れた。
ここ数日で、一番大きな揺れ。零次の不安をかきたてるような、嫌な揺れだった。
どくんと、心臓が暴れ出す。
泣きそうな顔のまま駆け出そうとする零次の腕を、冷夏が掴んだ。
「行けません! そのまま突っ込むのは無謀すぎる……!」
「離せ! 俺は、俺は涼子を……」
パァンと、渇いた音がした。
冷夏に、頬を思い切り叩かれたのだ。
揺れが激しさを増す。まともに立っていることもできず、零次は膝をついた。
大地が裂けそうなほど激しい揺れ。それが何を意味しているのか。
……涼子。
涙が次々と流れ出る。それを止める気力すら、今は湧かなかった。




