第十三話「その夜(後編)」
死にたくない。
生きていたい。
ごく普通に、そんなことを願っている。
ただ、どう生きたいのかが人とは少し違っていて。
その違いが致命的なものだと、理屈では分かっていて。
今になってようやく、そのことを痛感した。
着信画面を確認して、零次は通話ボタンを押した。
「もしもし。こんな時間にどうした、高坂」
『……どうしたも何もあるか、この馬鹿!』
いきなり怒鳴りつけられて、零次は目を白黒させた。なぜ怒られるのか、咄嗟には理解出来なかったのだ。
「す、すまん。俺、何かしたか?」
『したか、じゃない。あんたら、揃いも揃って音信不通だったじゃないか。あんな大騒ぎだってのに連絡つかないから、沙耶や藤田の奴も心配してたんだぞ!?』
「ああ……そうだったのか」
現状、亨は出まい。美緒も出られる状態ではない。遥はよく分からないが――繋がらない状態なのだろう。零次自身も、今さっきまで気を失っていたのだ。
渦中にいるせいで、却って全体像を見失っている。
「町は……そんなに大騒ぎだったのか」
『何? あんた、まさかあの大地震に気づかなかったのかい?』
「そういうわけではないが、こっちもいろいろあってな。周囲に気を向けてるほど余裕がなかったんだ」
『ふうん』
雅は怪訝そうな声を上げる。しかし、それ以上追及はしてこなかった。
『藤田は町が違うからあれだけど、朝月町の人たちは皆、学校の校庭に避難したんだ。この町こんなに人いたのかって驚いたね』
そう言う雅の声に混じって、がやがやと人の声が聞こえる。
「まだ家には戻ってないのか?」
『うん。ほら、あの地震、ただ大きいだけじゃなくて妙に長かっただろ? ちょっと普通じゃないってことで、皆警戒してるんだ。それに……』
「それに?」
『……情けない話なんだけどさ。家、爺ちゃんの代に建てたからオンボロでね』
崩れた、ということか。
よくよく聞いていると、雅の声にもいつもほどの張りがない。こちらに連絡がついて気が抜けたのもあるだろうが、疲れきっているのだろう。
『なあ、久坂』
「なんだ?」
『あんたさっき、こっちもいろいろあった、って言ったよな。もしかして、誰か怪我でもしたのか?』
疲れていても、雅は雅だった。
いつも通りの気遣いが、今は妙に嬉しい。
「美緒が、怪我をしてな。今、亨が病院に連れて行ってる」
美緒のことは、遅かれ早かれ言わなければならない。雅の性格を考えると、下手に気を使って後々言うより、さっさと言ってしまった方が良いような気がした。
『病院か。地震で怪我人も大勢出たみたいだしな……。ああ、そうか。だから美緒と矢崎には繋がらなかったのか』
「……まあ、そんなところだ」
『んじゃ、倉凪も病院……で、遥も一緒ってことか。道理で繋がらないはずだ』
「――」
違う。
……そうじゃない。
言いかけて、零次は口をつぐんだ。
これ以上は言えない。言ってはいけないことだ。
「ああ、そんなところだ」
後ろめたさを覚えながら、零次はそう答えた。
『そっか。それじゃ、悪いがよろしく伝えておいてくれ。こっちも一段落ついたら見舞いに行くからさ』
「すまない。……ああ、一緒にいるなら藤田や水島にもよろしく伝えておいてくれ」
『分かった。じゃ、またね』
いつもと同じようなやり取りで、電話は切れた。
周囲を見渡す。
そこに広がっているのは、誰もおらず、暗いままの我が家だった。
砕けぬ盾はない。
あるのはせいぜい優れた盾。
優れた盾が砕けたら。
破片はどこへ行くのだろう。
「駄目だ」
例えるなら、中学生が数学者泣かせの難問に挑むようなものだ。
遥は何度目かの溜息をついて、ベッドの上に飛び込んだ。
飛鳥井冷夏の結界は、尋常ではない。
こちらが結界に対してアクションを起こす度に、形を変える。これでは、結界の全容や解き方を調査することすら出来ない。力技で壊せないかと試してもみたが、それも無理だった。
「駄目だ駄目だ駄目だ」
苛々して足をばたつかせる。そのせいで埃が舞い、むせた。
こんなことをしている場合ではないのに。
自分の中で張りつめていた何かが解けてしまいそうだった。そうなれば、しばらくの間は何をするのにも億劫になる。
梢は今頃どうしているのだろう。
美緒は無事病院へ着いたのだろうか。
零次はいったいどこへ行った。
そして自分は――何をしているのか。
はあ、と大きくため息をつくのと、部屋の扉が開いたのは、ほぼ同時だった。
あまりに呆気なく開いたため、遥はそこに誰が立っているのか、認識するのが遅れてしまった。
小さな女の子だ。
いかにもつまらなさそうな、どこか不貞腐れたような表情を浮かべている。
「……誰?」
我ながら間抜けな質問だと思いながらも、聞かずにはいられなかった。
こういう場所にいる以上、そしてこの部屋に入ってきた以上、見た目通りの少女ではないのだろう。しかし一方で、遥にはこの少女がただの子供のようにも見えるのだった。
「はじめまして、遥。私は郁奈」
「……ああ、うん。はじめまして」
「ここから出たい?」
挨拶もそこそこに、郁奈と名乗った少女が尋ねてくる。
それは出たいに決まっている。だが、少女の真意が見えてこない。見えてこない以上、迂闊に頷く気にもなれなかった。
「そんな、どこか遊びに行こう、みたいに言われてもね」
「遊びじゃないわ」
郁奈は唇を尖らせて、ぷいっとそっぽを向いた。仕草も見た目通り子供っぽい。
だからこそ、こんな時間、こんな場所にいるのが妙に思えてくるのだが。
「観客は映画の中身を変えられない。でも、出来があまりに酷ければ文句も言いたくなるでしょう?」
「言ってる意味がよく分からない」
「私の心境を例えただけよ。今から私は、スクリーンに向かって文句を言うのよ」
「……?」
「だから、こんなの遊びにもならない」
少女の戯言――とは思えなかった。
意味はまったく分からない。それでも、語っているときの郁奈は、冗談を言っているようには見えなかった。そのときだけ、年に似合わぬ雰囲気が滲み出ていたように思う。
「期待するだけ無駄なのに。あんなに足掻いてるお兄ちゃん見てると、こっちも何かしなきゃな、とか思うのよ」
「はあ」
「すべて諦めちゃえば、傷も少なくて済むのにね」
それで郁奈の語りは終わりのようだった。彼女は改めてこちらに顔を向けてくる。
「それで、ここから出たい?」
「よく分からないけど、出られるなら出たいね」
「そう」
郁奈はこくりと頷いて、こちらに手を差し出した。
「急ぎましょう。そろそろ冷夏にバレちゃうわ」
あれはいつのことだったか。
誰かと喧嘩して、相手をこっ酷く傷つけてしまったことがあった。
そのときは、親父と二人で相手の家まで出向き、ひたすら謝った。
帰り道、怒られると思い込んでびくびくしていた俺に、親父は何も言わなかった。
何を考えているのか、幼い俺には見当もつかなかった。
ただ、暗くなる道で置いていかれないよう、その背中を追うのに必死だった。
暗い部屋に一人きりでいると、昔のことを思い出す。
生まれついての異能のせいで周囲に迫害され、逃げ込んだ雪山の中で母と妹を亡くし、それから零次は人間不信になった。
それからは、よくこんな風に、一人で暗い部屋に篭っていた。
すべての人間が疎ましい。ずっと部屋にいる方が楽だ。そんなことばかり考えていた。
例外は涼子だけだった。彼女を前にしたときだけ、零次は年相応の人間らしく振舞うことが出来た。
今は違う。守りたいものが増えた。
こんな暗い部屋が、居心地良いとは思わない。
ただ、昔のことを思い返して、涼子のことが脳裏に浮かんだ。
……無事だろうか。
雅は家が損傷したという。町がどんな様子か気になってニュースで確認すると、結構な騒ぎになっていた。
そうなると、涼子の安否が気にかかる。
だが、いくら電話をしても繋がる気配はない。
嫌な予感が募っていく。
そういえば、昨日もなかなか連絡がつかなかった。夜遅くになって、ようやくメールで無事を知らせる返信があったのだ。
まだ気だるさは残っているが、零次は身体を起こして家を出た。
自転車に乗って真っ直ぐ涼子の家に向かう。急げば十分とかからない。
……少し様子を見るだけだ。
無事が確認出来たらそれで良い。悪いことが続いてばかりいるから、少し弱気になっているだけだ。そんな零次を見て、涼子は呆れ顔を浮かべながら笑って減らず口を叩くのだろう。そうやって、この不安を吹き飛ばして欲しかった。
涼子が暮らしているマンションが見えた。遠目からだと、特に壊れているようにも見えないし、騒ぎが起きているようにも見えない。
そのことにほっとしながら、マンションの駐輪場に自転車を置く。
「……ん?」
玄関口から入った途端、違和感を覚えた。
その正体はすぐに分かった。涼子の郵便入れだ。郵便物がはみ出している。何日分もの郵便物を、無理矢理入れているようだった。
涼子は几帳面な性格だ。こんなに溜まった郵便物をそのままにしているのは、明らかにおかしい。
……どういうことだ?
逸る気持ちを抑えながら、零次は階段で涼子の部屋がある階まで駆け上った。
部屋の前に立ち、ノックをしたり、イヤホンを押したりするが、反応はない。
「……」
単に留守なのかもしれない。近頃は学校も忙しいようだったし、本当に夜遅くにならないと戻れない日もあると言っていた。
あるいは昨日みたいに寝ている可能性もある。涼子はあれで結構無茶をするのだ。ギリギリのところまで抱え込むタイプなのである。だから、日頃頑張り過ぎて倒れているのかもしれなかった。
「……それならそれで、様子を見ておいた方が」
何か言い訳をするようにして、零次は合い鍵を取り出した。今年になって涼子に貰ったものだ。
「涼子、邪魔するぞ」
一応声をかけて中に入る。
だが、中は閑散としていた。冬の寒さも相まって、部屋の中が廃墟のように寂れて見えてしまう。
人の気配はない。
食器の類は奇麗にまとめられているし、部屋も不審なところは見当たらない。きちんとし過ぎていて、モデルルームのようだ。
「いない……」
あちこちを覗いてみたが、涼子の姿はない。
部屋を探していて気付いたのだが、電話に一件留守録があるようだった。留守録の日付は昨日の夜を指している。
勝手に聞くのは気が引ける。だが、妙な焦燥感に駆られて、零次は電話のボタンを押した。
『もしもし、涼子?』
電話をかけてきたのは、涼子の伯母のようだった。冬塚夫妻の繋がりだから、涼子と血の繋がりはない。それでも、あれこれと気を利かせてくれる良い人たちだ。
『そっちで大きな地震があったみたいだけど、大丈夫? 最近いろいろと忙しいみたいだけど、あまり無理しちゃ駄目よ。また畑で獲れたもの、送っておいたから。もう届いたかしら。あったかくして食べてね。それから――』
零次はそこで留守録を打ち切った。
身内同士の会話に割り込んだようで、少し罪悪感がある。
だが、違和感もあった。
地震で心配だというのであれば、普通は携帯の方に連絡を入れるのではないか。そういうのは人それぞれだから、別に皆が皆そうするというわけではないのだろうが。
「いや、それもそうだが」
零次はもう一度部屋を見渡した。不躾だと思いつつ、冷蔵庫の中も見た。だが、涼子の伯母が送ったという野菜類らしきものは見当たらない。
ドアのところを確認すると、不在表が挟まっていた。日付は昨日。それが示すのは、
「涼子は……昨日から部屋に戻ってない?」
最後に涼子の姿を見たのは、昨日、大学で会ったときだ。確か別れ際、涼子は用事があると言っていたような気がする。それは、遠出を必要とする用事なのだろうか。
状況が状況なだけに、嫌な予感が拭えない。
もう一度携帯にかけてみるが、相変わらず繋がる気配はなかった。
涼子の伯母に連絡してみるか。いや、いたずらに不安にさせてしまうかもしれない。
手掛かりになりそうなものもなく、零次は途方に暮れた。
思い出した。
あのとき自分は、仲の良かった友達に酷いことをしたのだ。
子供の頃。異法人として目覚めつつあった頃のことだ。
その力の意味も考えず、ただ友達より自分の方が優れていることが嬉しくて、優越感に浸りたくて、衝動的に力を入れ過ぎて。
友達は両腕の骨を折った。町内の大事件だった。
相手方の親から猛抗議があったのだろう。親父は俺を連れて相手の家まで行き、頭を下げた。俺も雰囲気に逆らえず頭を下げていた。
その帰り道。親父は無言のまま先を歩いていたが、家の近くにある公園まで来ると、ベンチに腰を下ろした。
「梢。反省はしたか」
「うん」
子供というのは、調子に乗ると恐ろしく残酷になるが、過ちに気付いたあとは他愛もないものだった。自分の行いがもたらすものに対し、無知なのである。
そんな息子を、父親は黙って見つめていた。当時はその表情が恐ろしげに見えた。今となっては、もうよく思い出せない。
「薄々感づいてるかもしれないが」
そう前置きして、父親は息子に語った。息子が普通の人間ではないこと。優れた力を持つこと。そして、それが必ずしも、息子に幸せをもたらすものではないこと。
「普通の子でも、友達に酷いことをすることはある。けどお前の場合、普通の子よりずっと酷いことが簡単に出来てしまう。そのうち、普通の人を殺すことさえ簡単に出来るようになるだろう」
殺すなどと言われても、正直よく分からなかった。生死の重さを知らない幼児なのだから仕方ない。ただ、父親は真剣だった。一言一句に真情を込めて語っていることは、幼い身にも理解出来た。
「だから、普通の子は何度も何度も注意されてそういうことをしなくなるものだけど、お前はそうもいかない。……いいかい、梢。もしお前が理由なく誰かを傷つけたら、僕はお前を殺すかもしれない」
このときの父親の顔だけは、遠い記憶にありながら鮮明に思い出せる。
いつになく優しい顔をしていた。
それがたまらなく怖かった。
殺される、ということの意味も分からず、実感もなかったけれど、そのときは父親が本当に怖かった。
それが顔に出たのだろう。
父親は申し訳なさそうな顔をして、こちらの頭をぽんぽんと軽く叩きながら言った。
「そんな顔をしないでくれ。僕だって、こんなこと言いたくはないんだ。普通の親みたいに、普通の子に向けるような言葉を、お前に送ってやりたいんだよ――」
そのときは、父親の心など分かるはずもなかった。
後々になって、物騒な親父だったと思うようになった。
今になって、ようやくあの日の父親の心境が理解できるようになった。
「すまんな。こんな言葉しかお前に送れない父さんでごめんな」
「良いよ、親父」
今の俺が言葉を返す。
しかし、目の前にいる父は記憶の中のものだ。返事などあるはずもない。
幼い自分の頭に手を置きながら、父はこう続けた。
「心配するな。そのときは、お前を殺したあとで父さんも一緒に死んでやる。はは、無茶苦茶な親父だと思うなよ? いや、思ってくれてもいい。なんでもいい。ただ父さんは、お前を決して一人にするつもりはないんだ」
無茶苦茶だった。
そのときは、意味が分からなかった。
「お前が罪を犯したら僕も一緒にその罪を背負う」
今なら分かる。倉凪司郎にとって、倉凪梢は自身の罪悪の現れだったのだ。
愛すべき息子。
自らの手で爆弾に仕立てた息子。
己の手で殺した友人と、同じ末路を辿るかもしれない息子。
それを前にして、父はどんな気持ちだっただろう。
「父さん」
そんな父に、幼い自分が口を開いた。
「俺、悪いことしないよ」
何を思って言ったのかは、もう思い出せない。
ただ、その口約束こそが、倉凪梢の原点だった。
「俺が悪いことしなきゃ、皆嫌な気持ちにならくていいんだよね」
「ああ」
「俺、父さんに殺されるの嫌だもん。それに、母さんだって美緒だって、父さんがいなくなったら泣くに決まってるんだ」
「そうだな」
「だから、俺は悪いことしないよ。いいこといっぱいするんだ! 父さんは、俺がひどいこと簡単に出来るって言ったけど、それっていいことも簡単に出来るってことだよね」
「……そう、だな」
父は俯いている。表情は、よく見えない。
幼い自分は、まるで世紀の大発見をしたかのようなはしゃぎっぷりだ。
「だったら、ひどいことしないでいいことすればいいんだ! 悪いやついたらぶっとばしてやる! あ、でもあんまりひどくはやっつけないよ」
「はは、梢は優しいな」
「へへっ、そうかな」
「ああ。優しいな、お前は……」
夕暮れどきの公園での、親子の語らい。
そこから、倉凪梢は歩き出した。
父と一緒に。
途中から、父はいなくなってしまったけれど、代わりにいろいろな人たちを一緒に歩いてきた。
父同様、いなくなってしまった人たちもいる。
置き捨てて来てしまった人もいる。
それでも、梢はまだ歩いている。
生きている。
既にゴールは見えてきているけれど。
自ら歩くことを止めたりはしない。道を踏み外すこともしない。
ただ、こう生きようと決めた。
そうして、いろいろな人たちと出会った。
いろいろな笑顔を見ることが出来た。
この道を歩いていて、楽しかった。
だから歩こう。最後の最後まで生き抜こう。
結果として待ち受けているのは『死』なのかもしれない。
それでも、死にに行くわけではなかった。
倉凪梢として生きるために。
……ああ、休憩はもう十分だ。そろそろ起きないと。
目が覚める。
温かな感傷はもう終わり。
あとは、走りきるだけだ。
十二月八日が始まる。




