第1話
人生とは選択の積み重ねである。
有名すぎるほどに有名なこの言葉を残したのは、英文学史上最も優れた作家としても名高いウィリアム・シェイクスピアだ。
私はこの言葉が好きだった。些細なものからその後を左右する重要なものまで、我々は日々、何かを選び取って生きている。そしてその、ひとつひとつの選択の根底にはさまざまな人間的感情、あるいは意思が植わっている。けっして生理的欲求だけではない。そのことに一個の人としての自負を持ち、生の実感を見いだしていた。
一方で「マクトゥーブ」というアラビア語の言葉がある。直訳するなら「それは書かれている」という意味だ。
非イスラム教徒である私にとって、この言葉の本質までを理解することは難しい。それでも、あえて試みてみるならば……「我々の運命はすでに〈大いなる手〉によって書かれており、人間にそれをどうこうすることなどできはしない」とでもいったところだろうか。極端な解釈かもしれないが、とにかく、そんな言葉がある。
今の私は、果たしてどちらの言葉に即しているのだろう。私自身の選択によるものなのか、あるいは決められた運命のレール上にいただけなのか?
せめて前者であってほしいと願う私は、滑稽な道化なのだろうか。
それでも、私は。
◆ ◆
「人は毎日、何回『選択』していると思う?」
イツァークの問いかけに、生徒らは一瞬目を丸くして黙り込んだ。
予想通りの反応だった。日々積み重ねている『選択』のほとんどは、意識にすらのぼらないほど小さなものだ。まだ歳若い彼らが、すぐその問いにピンとこないのも仕方のない話だった。
笑みを浮かべたイツァークは、白いチョークを取り上げると黒板に――そこにはいくつもの物理公式や図式が並んでいたので、その隙間に――「9」と書いた。
その数字の長い尾を書き終えないうちに、生徒の一人が「900回?」と声をあげた。途端、あちこちから控えめな笑い声が湧き水のように染み出てくる。まさか、という声も聞こえる。この反応も予想通りだった。イツァークは首だけで生徒らに向き直り、その笑みをいっそう深めてみせた。
「残念ながら、それでもまだまだ少ないんだ。正解は……」
イツァークの左手がカンマを打つ。察しのいい生徒が驚きの吐息を洩らす。そのままゼロを三つ書き並べると、今度こそ教室中がざわめきに満ちた。
「9,000回。君たちは毎日、休むことなく、これだけの数の『選択』を繰り返している。意識的に、あるいは無意識のうちにね。今この瞬間だってそうだ。君たちは選び取っている。発言すべきか、しないべきか。素直に驚いてみせるか、それとも、どうでもいいさとばかりに携帯電話を盗み見するか」
最後の言葉は、机の下で携帯電話を操作していた生徒の肩に手を置きながら言う。咎められた生徒は反抗的に眉を持ち上げてみせたが、しかし大半の生徒はイツァークの話にすっかり引き込まれているようだった。
教室をぐるりと一回りしてから、イツァークは再び教壇に立った。教卓に両手をつき、生徒らに向かって身を乗り出す。
「もうすぐ冬季休暇だ。君たちが進級して初めての長期休暇。9,000回の『選択』も、より自由度が広がることだろう。すべてに全力で臨めなどとは言わないが、ぜひ、より良い『選択』を重ね、有意義な時間を過ごしてほしい。僕からは以上だ」
その言葉が終わると同時に授業終了のベルが鳴り、生徒らがガタガタと椅子を引く。彼らのなかには、終業ベルをスターターピストルかなにかと勘違いしている者すらいるのではないだろうか。
慌ただしく教科書を鞄に突っ込み次の授業へと向かう者。これで今日のコマは終了なのか、のんびりと帰り支度をしつつ談笑を始める者。馴染みの光景を見守るイツァークの脇を、もつれ合うようにして通りすぎながら生徒らが声をかけていく。
「先生、さよなら」
「さよなら」
「ああ、さようなら。気をつけて」
イツァークが、ここネバダ州ユーレカにある『ザ・ハリス・スクール』に着任してから四年が経つ。
当時、生徒らはこの新任教師を実に無遠慮な奇異の目で見た。それは、彼が田舎町ではまず滅多に見ない「皺のないシャツを着る人種」だったことと、その顔の中央に、いかにもユダヤ人らしい見事な鉤鼻をぶら下げていたためだ。
道路脇に鹿の角が無造作に積み重ねられているようなこの片田舎の町おいて、異端者が好奇の目に晒されることは避けられない。その視線は時にイツァークを苛みもしたが、しかし彼は生来の美徳である忍耐と微笑みをもってそれを乗り越えた。その甲斐あって、今や彼はザ・ハリス・スクールにおける一番の人気教師である。
そのことは、年に一度、生徒から教師に贈られる成績表にも明示されている。このハイスクールでは、生徒がレターグレードを受け取る年度末に、教師もまた生徒らから成績――清潔さ、親密さ、ファッションセンスなど、その項目はゾッとするほど細かい――を通告されるという、一風変わった風習があるのだ。イツァークは昨年度、そのほとんどの項目を"A"でパスし、ついにナンバーワン教師の栄誉に浴することとなった……
「いい訓示だったわね」
その声に、長い腕を振るって黒板を消していたイツァークが振り向く。開かれたままのドアのところに、同僚のドリス・エマーソンが立っていた。手にした分厚い冊子を軽く振りながら、ドリスが教室に入ってくる。
「前に借りた、過去十年間のAP試験(※1)の事例集。参考になったわ」
「そう。それはなによりだ」
今年四二歳を迎えるドリスは、いかにも教師然とした風貌をしている。撫で付けた髪はのっぺりと頭全体にまとわりつき、鼻の上には銀縁の眼鏡。レンズの下半分は最近老眼鏡になった。たるんだ皮が皺を寄せる二の腕は大きなフリルに覆われ、一転してタイトなスカートからは枯れ枝のような脚が覗く。
彼女はイツァークが取って代わるまで不動の『ナンバーワン』であったが、さらにその陰ではこうも呼ばれている。『ジャッジ・ジュディ(※2)』と。
「9,000回の選択、ね。子供たちにはいい刺激になったんじゃないかしら。さすが、現『ナンバーワン』は言うことが違うわ」
容赦ない口撃に、イツァークは垂れがちの眉をいっそう深く垂れ下げた。
「そういじめないで、ドリス。昨年度のことなら、君は肺炎で一ヶ月半も生徒たちから離れていたんだし」
「二ヶ月よ、イツァーク」
イツァークは返す言葉もなく両手を挙げる。
尖った顎を見せつけるように持ち上げて、ドリスはヒールの音を響かせながら教室を出て行った。イツァークの黒い眉は力なく垂れ下がったまま、指でしっかり揉みほぐしてやらないと元に戻りそうもなかった。
ドリスは、本校において特進クラスを教えられる唯一の教師だった。四年前にイツァークが着任するまでは。
修士課程までをきっちり修めて教師となったイツァークを、ザ・ハリス・スクールの校長は諸手を挙げて歓迎した。修士クラスの教師がわざわざ田舎町に腰を据えてくれる機会など滅多にないため、その喜びようも当然だろう。ドリスはそれが気に食わないのだ。
五〇分間フルで生徒らと向き合っている時ですら感じなかった疲労を覚え、イツァークは労わるように首筋をさすった。
その日最後の授業を終えて外に出ると、冷たい秋の風がイツァークの頬を撫でた。今のシーズンは屋外クラブの活動が少ないためだろうか、広いグラウンドがいっそう物寂しく感じられる。トレンチコートの襟を立て、イツァークは足早に車へと向かった。
鍵穴にキーを差し込みながらふと空を見上げる。そのうち、木々の梢が色づき、ご婦人のショッピングバッグから毛糸が顔を覗かせる頃になれば、夜空にははと座α星・ファクトがきらめくことだろう。
イツァークははと座が好きだ。それもまた変わり者扱いされる所以ではあったが、名の知れた星々の間で小さく輝く鳩の形を愛していた。雑踏のなかから親しい顔を見いだそうとするかのように、ささやかな光を放つ星を寒空に探す、その神聖な儀式を愛していた。
「先生、さよなら」
愛車のニュービートルに乗り込もうとするイツァークに、少し控えめな声が投げかけられた。エマだ。イツァークが受け持つAP物理の授業を、二年続けて履修している女生徒だ。やや内向的な性格の彼女はディスカッション形式の授業となるとひどく弱いが、根は真面目ないい生徒だとイツァークは思う。
「さようなら、エマ」
軽く手を振り、イツァークは運転席に滑り込んだ。静かにエンジンを回転させ、車用出入り口へと向かう。
左折待ちの際、バックミラーに目をやると、先程と同じ場所に立ったままイツァークを見送るエマの姿が写って見えた。鏡越しにもう一度手を振ってから、イツァークは軽快にハンドルを回した。
※1:AP試験
APとはAdvanced Placementの略。この試験で一定以上の成績を修めると、大学の教養学部の単位として認められる(大学により例外もあり)。
※2:ジャッジ・ジュディ
アメリカの女性裁判官、現弁護士。彼女が出演する法廷番組は、その高圧的な物言いが人気となって高視聴率を記録していた。