第8話 たぶん、妖精に恋してた
素早く身支度を整えると、レオンは食事も摂らずに屋敷を出た。一刻も早く、煩わしい女たちから遠ざかりたかったのだ。
従者が馬を引いてきた時に、背後に「いってらっしゃいませ。ご無事でお帰り下さいましぃ」という、ティーナのかすかな声が聞こえたような気がしたが、振り向くことなく騎乗し屋敷を後にしたのだった。
こんなはずじゃなかった。そんな思いが湧いてくる。では、どんなはずだったのかと考えてみれば、それもまたよく分からない。
結婚したという事実が、レオンはまるで受け入れられないのだった。
いつか誰かと恋をして交際して愛を深めてそれから結婚する、そういう当たり前の恋愛や結婚を、漠然とではあるが自分もするような気がしていたのに、現実は全くもって違う。全部すっ飛ばして、いきなりの結婚だ。
ため息がでた。まったく、なんでこうなったと思わずにはいられない。女の子が嫌いなわけではないし、独身主義なわけでもない。だが、何かが違うのだ。大きく違うのだ。
マルゴの「やはり、まだ……」発言や、図解だの実演だのという、生々しい話に、思い切り引きまくっていたレオンだった。
彼女が醸し出す、ごちゃごちゃ言ってねぇでさっさとヤッてしまえ、というあの恐ろしい空気感を、とにかくなんとかして欲しいと思っている。このままでは、気分は下がる一方だ。
――なんていうか、こう、甘い感じ? ときめきとか? ちょっとくらい、そういうのもやってからでも遅くねぇんじゃないのか。ちょっとくらいさ……。普通はそういうところから始まるんじゃねえの? 俺はもう、そういう甘酸っぱい体験ってできないってことなんすかねえ……。
ハハハと淀んだ目で笑いながら、ゆっくりと馬を進める。眠りから覚めたばかりの町を、レオンは静かに当てもなく進んでいくのだった。
勢いよく屋敷を飛び出したものの、行く先は決めていなかった。集合時間にはまだ早いのだ。ため息をして、空を見上げる。
そして、レオンは古い記憶と夢を懐かしく思い出すのだった。
それは、騎士になることに情熱を傾けてきたレオンの、精一杯、甘酸っぱい思い出だった。その思い出が、人生最後の甘い体験にならないことを、切に祈るレオンだった。
「あのね、ぼく妖精を見たんだよ」
そう言うと母は微笑んで、頭を撫でてくれた。
どんな妖精だったのとたずねる声がとても優しくて、髪を撫でる手が暖かくて、頬に落ちるキスが柔らかくて、またふわふわと眠りの中に引き返しそうになった。
頭がぼんやりとして、身体がとても熱い。母が額のおしぼりを取り替えると、ひんやりと心地良くなって、飛びそうになっていた意識が戻ってきた。
「女の子なんだ……お花の精だよ……」
「そう、きっと可愛らしい妖精さんだったのね」
「うん……可愛くて優しいの。おかさまみたいに……僕を抱きしめてくれたよ」
「良かったわ、その妖精さんがあなたを守ってくれたのね。さあ、もうお休みなさい。大丈夫よ、もう何も怖いことなんてないわ」
「うん。……おかさま、ここに居てね」
「ええ、ずっと側にいますからね」
母の微笑みに絶大な信頼を寄せ、また眠りに落ちていった。
そして夢の中で、妖精から黄色い花冠を貰い抱きしめられて、とても幸せな気持ちになったのだった。
レオンの一番古い記憶は、高熱を出して寝込んでいる時のものだ。三つくらいの頃だろう。熱のせいか、怖い夢を繰り返し見ては泣き叫ぶ彼を、母が抱きしめて宥めてくれたのだ。
夢の内容は全く覚えていないのだが、とても恐ろしい夢だったと記憶している。何がどう怖いのかも分からないのに、とにかく怖くてたまらないのだ。だが、夢の最後に妖精が出てきて、レオンを助けてくれる。
その妖精の微笑みと、抱きしめてくれる母の温もりが無ければ、幼いレオンにはとても耐えられない恐怖をもたらす夢だった。
レオンは、母と背が並ぶ程に成長した今でも、時たま訳の分からない恐怖に取りつかれて夜中に目覚めることがある。
だが、同時にその夢は胸に甘い感傷を湧かせるのだ。それは幼い頃に抱いた妖精への思慕を思い出すせいだろう。レオンにとって、悪夢と妖精はまるで対のように、分かちがたいものになっているのだ。
あの頃は、妖精は確かにいて、自分は彼女と話したのだと彼は信じていた。自分より少し年上の、六つ七つくらいの少女の姿で、髪に花を飾りドレスにもたくさんの花を咲かせていた。
残念なことに、顔はまったく覚えていない。覚えていないくせに、都合の良くとても可愛いと思い込んでいるのだ。
もちろん今となれば、あれは熱がもたらした幻だと分かる。だが何故だか、本当にいるような気がしてならないのだ。バカバカしいことに、もしかしたらいつか成長した彼女が夢に出てくるのではないかとさえ思っているのだ。
そして彼女会いたさに、またあの悪夢を見たいなどと思ってしまう自分がいることに、レオンは身悶える程の羞恥を覚える。
もう小さな子どもでもないのに、夢の中の妖精を慕うなんて、決して人前では言えない。恥ずかしくて死ねるくらいに、絶対に言えない。
だが、あれは初恋だったのではないかとレオンは思うのだ。
夢か現か定かでないものに、自分は恋をしていたのかもしれないと。
野に咲く黄色い花を見るたびに、レオンはあの花の妖精が現れはしないかと埒もないことを夢想するのだった。
プルプルと頭を振り、恥ずかしい物思いを振り払う。
――さあ、どこへ行こうか……時間まで、どっか昼寝できる場所でもあればいいんだがな。そうだ……
よしっとつぶやいて、レオンは馬首を返し腹を蹴って走れと合図する。良い寝床を思いついたのだった。