第7話 どうしましょう
バタンと、遠くで扉の閉まる音がして、ティーナは目を覚ました。目をこしこしと擦って、ふあぁとあくびをしながら起き上がる。きょときょとと部屋を見回すがレオンはいない。
すぐ隣のくしゃりと乱れたシーツを擦ってみたが、既にそこに温もりは無く、求めた人はもうとっくに起きて部屋を出て行ったのだと教えていた。
はあと物憂いため息をつき、彼が出ていった扉に目をやると、そのすぐ近くにクマのグスタフが転がっているのを見つけた。
「レオン様……」
ティーナはベッドから降り、グスタフに駆け寄った。ぬいぐるみをキュッと抱きしめて頬ずりし、よしよしと頭をなでてやる。
昨日のようにレオンが床で寝た様子がないのは良いが、代わりにグスタフが放り投げられて転がっている。ということは、やはりまだ彼は怒っているのかと不安になるのだった。
子どもっぽい真似をしてはいけないと、両親にもマルゴにも言われていたのに、グスタフを手放せない自分がいけないのだと思うとじんわり涙が滲んてきた。
「ごめんね、グスタフ……やっぱりあなたとはお別れしないと……」
くすんと鼻をすすり、ティーナは呟く。
「私、レオン様に相応しい奥さんになれるように頑張るからね。応援してね」
ティーナが寝室から出ると、思案げにマルゴが部屋を歩き回っていた。そして、主人の顔を見るなり、彼女はにっこり微笑む。
「おはようございます、ティーナ様。ゆっくりお休みになられましたか?」
「ええ、おはようマルゴ……レオン様はどちらへ?」
レオンの名を聞くと、マルゴの笑みは途端に固くなり、すっと目を扉にへ滑らせた。
「お出かけの準備をなされにいかれましたわ」
「そう……」
――おはようの挨拶もして下さらないのね……。
ティーナはしゅんと目を伏せる。あまり気に入られていないような気がしていたが、やはり昨日のことで嫌われてしまったのかと思うと、悲しくてならない。
近寄ってきたマルゴに優しく髪を撫でられ、ティーナはぎこちなく笑みを浮かべる。彼女に誘われてソファに腰掛けると、すがるように見上げた。
マルゴに、レオンは自分を嫌ってはいないと、言ってもらいたかった。自分ではレオンの心の内がよく分からないのだ。彼女なら教えてくれるのではないかと期待していた。
「ねえ、マルゴ。レオン様は私を嫌いになったり……しないわよね?」
「もちろんですわ。こんなに愛らしいティーナ様に、心を動かされないはずありませんもの。嫌うなどとそのようなこと、私が許しません」
マルゴがきっぱり言うと、ティーナの緊張が少し和らいだ。彼女にそう言ってもらえるだけで安心できる。
「ねえ、マルゴ。教えてもらったように、昨夜はもっとレオン様に引っ付いてみたのよ?」
グスタフのことでは失敗してしまったが、それ以外に言われたことは、ちゃんと守ったと報告しておきたかった。
結婚式の時、レオンは誓いのキスをしてくれなかった。参列者からはキスしたように見えたかもしれないが、実際には唇に触れるか触れないかまで近づいただけだった。ドキドキしながら目を閉じていたティーナは、唇にレオンの吐息を感じただけだったのだ。
どうしてキスしなかったのか、ティーナには分からない。そしてとても悲しい気持ちになった。彼女は、姉の結婚式で見た誓いのキスに憧れを抱いていた。バラ色に頬を染めた姉はとても幸せそうで、美しかったから。
しかし、その夢は儚く破れてしまったのだ。それにキスが無ければ、本当の夫婦とは言えないのではないかと不安にもなる。
式の後、ティーナはどうすればキスしてもらえるかと、こっそりマルゴに相談した。そこで、二人きりになったらできるだけレオンに近づきなさいと言われたのだ。身体が触れ合うくらい近く、見つめられたら優しく見つめ返し、手を握られたらそっと握り返す。引き寄せられたら後は任せておきなさいと。
ティーナは言われた通りにした。とても恥ずかしかったが、レオンが手に触れて来た時、ちゃんと握り返した。彼と手を繋ぐのはとても嬉しかったし、なんだかいい匂いがして心地よかった。この時は引き寄せられることも、キスもされなかったが、満ち足りた思いになれたのだ。
昨夜は激怒したレオンだったが、ティーナが泣きべそをかきながら、彼の腕に頰を寄せると腕枕をしてくれた。一人で寝ろと言われたくらいだから、ベッドから追い出されるかと心細く思っていたのだが、レオンはずっと側にいてくれた。
ティーナは、前の夜、手を繋いで寝た時よりももっとドキドキして、もっと安心して、夜を怖がらずに眠ることができた。
こんなに近くに男性の体温を感じるなんて初めてで、その相手がレオンだったことがとても嬉しいのだ。彼も同じように思ってくれていればよいのにと思う。
「腕枕をしてくださったのよ! グスタフよりも大きくて温かくて優しくて頼もしくて安心できて、私、とっても感動したの。やっぱりレオン様は素敵な方で……」
「…………そ、そうでございますか。よ、よろしゅうございました」
ティーナは頰を染めながら報告するのだが、マルゴの顔はなんだか引きつっているように見える。首をかしげるティーナだったが、そのまま話し続けた。
「ねえ、マルゴ。いつかキスしてもらえるかしら」
「もちろんですわ。そんな遠い日でありませんわ、きっと。でも、グスタフと比べるのはお止めになった方がよいです。レオンハルト様は、少々繊細な所がおありのようですから」
ティーナはなるほどと、ブンブンと勢い良く頷く。
「ところでティーナ様。本当に腕枕だけでしたの? その前は手をお繋ぎなっただけでしたし、その先のことは……」
「先のこと? …………まあ、マルゴ! まだそんなこと言ってるの? レオン様は紳士なのよ!」
もうっと、唇を尖らせるティーナだった。
マルゴから、結婚した男女がする事を一通り教えられたのだが、ティーナには何故何のためにそんな事をするのかさっぱり分からなかった。
――マルゴの言うことは変だわ。そんな事をしたい人がいるなんて信じられない! レオン様をそんなヘンタイさんのように言うのも止めて欲しいわ。
「ですからティーナ様、紳士であろうとも閨でする事は同じなのです」
「……ヘンタイさんだけです!」
「ティーナ様、それでは世の夫婦や恋人たちは皆変態になってしまうではありませんか。愛し合う二人には必要なことですのよ?」
「……でも、マルゴが言うようなことを、なさるご様子はありませんでした!」
「それはレオンハルト様がヘタレ……いえ、童……いえ……」
マルゴが言い澱んでいると、ティーナがはっと何かに気付いたような目を見開いて、両手で口を押さえた。
「愛し合う二人に必要なこと……それは本当に?」
「そうですわ」
「ああ、なんてこと……レオン様は、私を愛してらっしゃらないから……」
ティーナの声が沈んでゆく。嫌われていないとしても、愛されているとはとても思えない、そしてそれを自分で口にすることはとても辛かった。
レオンは何もしようとはしなかった。もしも、彼がもっと身体に触れてきたり服を脱がせようとしたなら、マルゴの言うように彼に全て任せておこうと心に決めていたのだ。でも、レオンは全く何もしなかった。
それはきっと、彼が変態では無く真に紳士だからなのだと、ティーナは結論づけていた。変態ではないから、変態行為をしない、至極当然のことだ。ティーナが愛するレオンが変態な訳がないのだ。当たり前だ。
しかし、愛していないから変態行為をしなかったのかと思うと、胸が張り裂けそうになる。愛=変態などとは、今まで思いもしなかったし、知らなかったのだ。
大好きな彼が変態になってもいいから、愛されたいとティーナは思う。どんなにとんでもない変態だろうとも、それがレオンならばきっと愛せると思うのだ。
――いいえ、いっそ今すぐヘンタイさんになって下さいまし。私はヘンタイさんのレオン様をお慕いいたしますから。だから、どうか私のことを好きになって……
祈るように両手を胸の前で組み、今にも泣き出しそうになるティーナを見て、マルゴはおろおろと首を振る。ティーナを悲しませてしまったことを後悔しているようだった。
懸命にティーナの背をさすり、優しく言い聞かせるのだった。
「ティーナ様……大丈夫ですわ。きっとすぐに真にご夫婦になれますから」
「どうしましょう……レオン様は私を愛してらっしゃらない……」
マルゴにギュッと抱きしめられると、こらえきれずポロポロと涙が溢れた。
「どうしましょう……私、前よりもっともっと、レオン様を好きになってしまったのに……」