第6話 恐ろしい女
最悪の朝だった。
レオンは、ガバリと起き上がると、傍らのティーナを苦々しく見下ろした。
ギンギンに目が冴えて、明け方まで起きていた記憶はあるのだか、ついには睡魔に負け少し眠っていたらしい。そのわずかな睡眠の間に非常に不愉快な夢を見てしまったのだ。
まだスヤスヤ眠っているティーナの顔を見ていると、ついさっきみた夢がまざまざと蘇り、ムラムラとしてくる。
――おのれ、グスタフ!
サッとベッドを降りると、部屋の隅で転がっているグスタフを、ボフボフと踏みにじった。
――貴様、ぬいぐるみの分際でティーナにのしかかり、あまつさえ腰を振るとはぁー!! このケダモノめぇ!
完全なる濡れ衣であり、言いがかりであると承知しながら、哀れなグスタフをボスボスと踏みつけるのだった。
そして、ええい我慢ならんと、グスタフを投げつけると扉にボンとあたり、ブホンと落ちた。
そしてギギっと木の軋む音がして、扉が開いた。
「……失礼いたします。どうかなさいましたか?」
マルゴだった。
レオンと違って、既にきっちりと身なりを整えている。
飾り気は無いが髪を結い上げ、キリっとレオンを見つめるマルゴにはクールビューティーという言葉が似合う。甘ったれたティーナとは対象的だ。年の頃は二十歳前といったところか。
ティーナと並べば、侍女と令嬢いうよりも、素敵なお姉さまと、それを慕う親戚の子どもといった構図の方がしっくり来そうだ。
彼女は足元に転がるグスタフを見、そしてムッスリと不機嫌なレオンを薄目で見つめて、大きなため息をついた。
「……やはり、まだ、ですか」
――やかましいわ! やはりとか、まだとか言うなぁ!
レオンはつかつかとマルゴに歩み寄り、ちょっと来いとあごをしゃくって寝室を出た。
続き部屋のソファに乱暴に腰掛け、マルゴをにらむ。
そんなに、自分とティーナを結びつけたいなら、侍女である彼女にはするべき仕事があるはずだと思うのだ、
「なぜ、ティーナを前もって教育しておかなかった」
「恐れながらレオンハルト様、ちゃんとお教えしております」
マルゴは臆することなく、胸を張って答える。
レオンは露骨に顔を歪めた。教育して、あれだというのが納得いかない。
「おい、俺が言っているのは、男女の閨の話だぞ」
「はい、その閨でのことは、ちゃんとお教えしております」
再びマルゴは胸を張る。
だが、レオンは舌を打つばかりだ。
「……どうせ、ぼかして曖昧なことを言った程度だろ」
鼻で笑うレオンに、マルゴは心外ですとばかりに反論してきた。
「いいえ! はっきりきっちり、お教えしました。ティーナ様は、曖昧な説明では色々と誤解をなさってしまうお方なので、図解入りで丁寧にお教えしたのです!」
「…………」
――ず、図解ぃぃ?! ど、どんな?! そんなものどこから調達してくるっ?! まさかお前が描いたのか?
サラリと言うマルゴを、レオンは恐ろしいものを見る目で見上げた。
彼女はあごに手をやり、小首をかしげる。
「それでも、理解なさっているか不安なのですが……」
「り、理解してないのではないか?」
「……やはり、使用人に実演させて見学して頂くべきでしたか……」
マルゴは口惜しそうに言った。
――お、おい! 実演って……実演って……本番? ……ってそうじゃなくて、いくら使用人だからって、命令だからって……
アホ面よろしく、レオンは目を見開き口をぽかんと開けているのだか、それに気がつく余裕などなかった。
他家での教育法などレオンに知る由もないが、彼の家としては全くのノータッチだった。男なら勝手に外で勉強してこいということらしい。
だが、女はそうもいくまい。もしも自分が女だったら、図解や実演を見せられていたりしたのだろうかと思うと、嬉しいような怖いような複雑な気分だ。
そして、それを男の前で、平然とさらりと言ってのけるマルゴは……
――お、恐ろしい女だ……。
こいつは、敵にまわすととんでもない相手ではないのかと、レオンは言葉を失うのだった。
マルゴは大きなため息をついた。
「何にせよ、ティーナ様はレオンハルト様は紳士だと信じてらして、そのような行為は絶対しないと思いこんでいらっしゃるのですわ。紳士でもいたしますと申し上げていますのに……」
――いたすのに、紳士も下衆もないのは確かだが、いたし方に差はあるかもしれん……って、そんなことどうでもいいわ!
レオンはここで、ふと疑問に思った。自分のことを紳士と思うのはティーナの勝手だが、そう思うに至った理由が見当たらないのだ。
あの見合いもどきの場で顔を合わせた次はもう教会で、ろくに会話もしないままにベッドルームに直行だ。しかも昨夜は剣を振り回す大騒ぎまでした。
紳士と判断する要素がない。むしろ、軽蔑、警戒すべき相手と断じる方が妥当だと思う。
そこで、はたと気付いた。
「……もしかして、俺のことを前から知っているのか?」
「まあ………」
マルゴが呆れかえった声を上げる。そして、わざとらしいほど肩を落とした。
「もしやとは思っていましたが、やはり覚えていらっしゃらなかったのですね」
恨みがましい言い方が癇に障る。だが、ここは敵に回さぬようにせねばと、レオンはごほんと咳払いをして、落ちつきを取り戻そうとするのだった。
「はっきりと言え」
「一年ほど前のことでございます。クリストフ殿下主催の狩りでのことです。どこぞの未熟者が獲物の鹿を射損じ、見物のご婦人方のところへその鹿が飛び込んだのを、覚えていらっしゃいますか?」
マルゴの言葉に首をかしげるレオンだったが、すぐにあの時か思い出した。そして頭の中に、その狩りの光景が蘇ってきた。
それはレオンすぐ側で起きたことだった。犬と勢子に追われた鹿が藪から飛びだしてきた。誰かは知らぬが、勢子の主が鹿を仕留めるのをレオンも見物するつもりだった。
だが、矢は鹿の尻をかすめただけだった。そしてパニックに陥った鹿は、途端に方向を変え婦人方へとむかったのだった。
レオンは咄嗟に馬を走らせた。怯える婦人方を守るべく、鹿の前に立ちふさがり剣を振るった。鹿はどっと地面に倒れ伏し、喝采がおこった。
レオンは馬を降り、鹿に止めをさした。と、直ぐ後ろに腰を抜かした子どもがいるのに気付いた。ガタガタと震える少女を、レオンは抱き上げて木陰につれていってやったのだった。
――あれがティーナだったというわけか……すっかり忘れてた……。顔なんかまるきり覚えてなかったぞ。
ティーナが自分を慕うのは、この出来事のためだとわかったが、たかが鹿を倒したくらいでなぜそうなるのかは、理解できなかった。
――そんなことで、慕うことができるのか? 鹿を倒すくらい誰にでもできることだ。あの射手が下手くそ過ぎただけだ。
レオンはムスッと立ち上がる。
「ティーナが俺をどう思っているかは、もうどうでも良い。対外的にグライツ夫人として振る舞えればそれでいでいい。できるのか?」
「もちろんでございます。ゆくゆくは侯爵家へ嫁ぐべく教育を受けて来られたのです。侯爵様をお支えし内助の功となるべく、侯爵様のお為にご勉学に励まれ、侯爵様の為にご教養深め、侯爵様の為に努力してこられたのですから」
――くそ、侯爵侯爵と皮肉か!
グライツ家とカレンベルク家では、同じ伯爵家といっても全く格が違う。
そもそも、グライツ家はレオンの両親が結婚する際に、男爵から伯爵へと爵位を引き上げられた家なのだ。王の妹である母の嫁ぎ先として、グライツ男爵では格好がつかなかったためだ。
激しい恋に落ちた二人はというか、恋に狂った母は、周囲の反対を押し切り無理を通して思いを叶えた訳だった。
対してカレンベルク家は由緒正しき家柄で、代々重臣として働いてきた王の覚えもめでたい家である。伯爵家の中でも一番格上の家なのだ。
マルゴにしてみれば、「うちの大事なお嬢様をこんなガキに嫁がせるなんて、キー!」というものかもしれない。
「……伯爵で悪かったな」
「グライツ伯爵が、代がわりされるのはまだまだ先の事だと思われますが」
――わかっとるわー! 俺はまだ伯爵ですらないわー! 人の言葉尻を、この女はぁ!
「ともかく! 俺は半魚人狩りがあるんだ。今夜は帰らん。ティーナにはぬいぐるみ部屋でもなんでも、好きな部屋を用意すればいい。家令に命じて、部屋を分けろ!」
半魚人狩りは騎士としての初仕事だ。気合を入れたい。これ以上マルゴやティーナに付き合ってはいられなかった。
「お部屋を別にしてお休みになるということですか。ティーナ様を遠ざけると……」
「そうだ! 俺は子守をするつもりはない!」
レオンは立ち上がり部屋をでてゆく。背中に付き刺さる視線が、なかなかに鋭くゾクリとする。
「チッ」
扉が閉まる瞬間に聞こえた舌打ちには、心底寒けがした。
――コイツ……俺に敵意もってないか? なんか恨みでもあるのかよ……