第4話 だかしかし! だがしかしだ!
「おのれ半魚人め……お前らのせいで俺は!」
王弟殿下の執務室を辞し、レオンは恨めしげにつぶやいた。
自分があのクリストフに、口であろうと腕であろうと敵うことは到底ない。だから半ば八つ当たり気味に半魚人に、結婚させられた恨みをぶつけるのだった。
その後町に出たレオンは、半魚人の情報を集めがてら、酒場でやけ酒を一杯やっていた。収集した情報は既知のものが殆どだったが、中には初耳のものもあった。
ちびちびと酒を飲みながら、店の女将にも尋ねる。
「で、本当に実物を見たのか?」
「ほんの少しだけね」
女将は、レオンのグラスに酒を注ぎ話を続けた。
「岩の上に座ってたんだよ。目が合ったと思ったら、そいつピシャンってね、大きな飛沫を上げて海に飛び込んだんだ。満月の光に鱗がギラギラと光っててね、なんだか薄気味悪かったよ」
まず誰もが知っているのは、半魚人は美しい女ばかりだということだ。金髪碧眼の美女たちが、グラマラスなナイスボディを惜しげもなく晒しているらしい。これはじっくりと見てみたいものだ。
そして、月の明るい夜によく出没する。満月の日は特に。
――明日は満月だからな……一番出やすい日ってことか。
歌で人間を誘い惑わし、彼女らは海へ引きずりこんでゆく。大抵は一人で歌っているが、ときおり数人一緒に現れることもあるようだ。
だが、この数日の間に被害にあった商船の場合は、数えきれない程大量の半魚人が現れたのだという。歌に魅せられた船乗りたちが次々と海に飛び込み、それを待ち構えていた女たちが海に沈めていったらしい。こんなことは今までには無かった。
そしてつい先日、戦船も同じ被害にあったのだ。
年に数人程度の被害であったものが、ほんの数日で何十人もの男が海に消えてしまったのだ。半魚人討伐に出ることになったのはこの為だった。
レオンが商船の生き残りから聞いた話では、歌っていたのは一人の半魚人だけだったという。てっきり大合唱になったのだと思っていたが、違っていた。
彼女たちの中には、歌を歌う者とそうでない者がいるというのは、新情報だった。
女将の目撃談には特に目新しい情報はなく、聞いているうちにレオンはうとうととし始めた。夜はこれからといった時間だったが、昨夜一睡もしていないという状態で酒を飲むと、急速に眠気が襲ってくる。
「……でさ、お兄さん。半魚人ってのは女しかいないじゃない? 一体どうやって子どもを…………お兄さん?」
女将に肩をゆすられて、はっと我に返った。
「ああ、申し訳ない」
「かまやしないけど、お酒はもうやめた方がいいみたいだね」
そう言って、水を差し出してくれた。ほんの数十分と思っていたが、かなり時間が過ぎていたようだ。店に入った時はまばらだった客が、随分と増えていた。
女将がニッと笑った。
「もう帰んなよ。待ってる人がいるんじゃないのかい?」
「え? なんで……」
「クリスティーナ、なあんて彼女の名前呼んじゃって」
と、バチンとウインクしてきた。
んあ、と椅子から落ちそうになる。
――それ、二人分の名前がくっついてるぞ……
レオンをムッと口角を下げ、ぼりぼりと頭を掻いた。考えまいとしたところで、クリストフやティーナのことを頭からおいだすなんて無理なことなのだ。
さっと金を置き店を後にした。
*
自室の扉に手をかけたとき、中から女の声が聞こえてきた。
――なんだ、まだ起きてたのか。
レオンはため息をつく。ティーナが眠っていたら、さっと着替えだけして自分は客間で寝ようと思っていたのだ。
昨夜のような、手を繋ぐだけの生き地獄はごめんだった。それとも、クリストフの言うように、今夜こそと意気込めば良いのだろうか。
いや、もう面倒だった。口説くのに時間が掛かりそうなのは読めている。というか、口説ける気がしない。
――童貞が危ないなんてあり得ないし、無理に契る必要もないよな。夫婦ったって形だけのもんだろう。政治的にも無難だとか言ってたし、なんか裏取引でもあったってことだ。まったく、上手く利用されたもんだ……
しかし、ティーナが起きているとなれば、この部屋で寝ない理由を上手いこと捻り出さなければならない。
レオンは手を離し、扉の前で考える。明日は半魚人狩りで朝が早いとでも話せば大丈夫だろうか。
「ねえマルゴ、お願いよ」
「いけませんわ、ティーナ様」
「だってレオン様はおられないのよ。いいでしょう?」
「ティーナ様は、グライツ夫人になられたのですよ。もっとご自覚を持ってくださらないと」
なにやら、ティーナと侍女が揉めているようだ。レオンは思わず耳をそばだてて、二人の会話に聞き入った。
「でも……グスタフに会いたいのよ……」
「なりません!」
――グスタフ?
ティーナの切なげな声に、男の名に、レオンの眉がピクリとつり上がった。
――グスタフってのは誰だ。どこのどいつだ、あああ?! 俺がいないからいいじゃないか……って、どういう意味だ!
「ずっと、グスタフと一緒だったのよ、別れられないわ」
「お忘れください」
「お願い、彼を連れてきて」
「ティーナ様、それはなりませんと何度も申しております!」
――別れられないわ、だと? 彼を連れてきて、だと? ベッドルームにか!
一瞬にして、カッと頭に血が上り、レオンはバンと扉を押し開けた。
その音に驚いて、ティーナと侍女がさっと振り返る。
レオンはつかつかとティーナに歩み寄り、にらみつけた。
「過去の関係をとやかく言う気はない! だがな、それを引きずるとなると話は別だ! いいか、アルベルティーナ、形ばかりだとしても我々は夫婦だ。貞節を守れぬというなら、俺はお前を許さない!」
レオンは激した感情を、ティーナにぶつけた。
結婚二日目にして、妻に裏切られるなど、決して我慢できるものでは無かった。
これは嫉妬ではない。断じて違うとレオンは思う。愛がないのだから嫉妬しようもないのだ。
――だかしかし! だがしかしだ! 既に男がいながら、俺にはやらせないとはどういうことだぁ!
嫉妬でないなら、なぜこんなに頭にきているのか自分でもよく分からない。何がこんなに悔しいのか。
昨夜、結ばれることが無かったからだろうか。だが、結ばれていたとしても、いやそうだとしたら尚更に、グスタフという存在を絶対に許せないことだけは分かる。
レオンの剣幕に怯えたティーナの前に、侍女のマルゴが立ちはだかった。あの王宮のテラスでも、ティーナの傍らに控えていた。
彼女は端正な顔を驚きに青ざめさせたが、主人を庇おうとすぐにキリリと頬を引き締めたのだった。
「お許しくださいませ! レオンハルト様!」
「どけ! お前はグスタフとやらを、今すぐここへ連れてこい!」
「は、はい……」
少し淀みながらもマルゴが答えると、レオンは頬を引きつらせて笑った。
――ほう、すぐに連れてくることができるってのか! 既に屋敷内に潜んでいるんだな……クソッタレめ! 俺をコケにしたらどうなるか思い知らせてやる! 聖竜騎士を舐めるな!
レオンは腰の剣に手をやった。
「しかしレオンハルト様、グスタフは……」
「黙れ! 早くしろ!」
レオンは乱暴にマルゴを部屋の外へと追いやった。そして、またティーナに向かい合う。
「アルベルティーナ、俺に何か言うことはあるか」
ティーナはガタガタと震えている。頭をぶんぶんと振り、両腕で我が身を抱きしめて、目には涙をいっぱいにためていた。
――この、ガキっぽい容姿にまんまと騙された! 既に男がいたとは……もうとっくに、あれやこれや全部やっていたのか?! クソ! 昨日のあれも芝居で、グスタフと一緒に俺を笑ってたってのかぁ?!
ニヤリと笑う熊のようにいかつい男を想像して、レオンの怒りはメラメラと燃え上がった。
これは嫉妬ではない、とレオンはもう一度繰り返す。公に誓いを立てておきながら、堂々と不貞を働こうとしていることが許せないのだと。童貞を捨てるチャンスを踏みにじられた恨みもちょっとばかりあるのだが、それは今は関係ないことにして憤るレオンだった。
グッと柄を握る。腕に自信はある。一刀のもとに叩き切ってやる、と目をギラつかせた。
「……レ、オン様……」
「いい訳があるなら聞いてやる。言ってみろ」
レオンは激しい呼吸を、怒りを抑えようと懸命に、ゆっくりと息を吐こうとするが中々ままならない。
言えと言ってみたが、もしもグスタフなど知らぬとが見え透いた事を言ったなら、俺はどうするのだろうと、頭の片隅で考える。右手が剣を引き抜こうとしていることに気づき、自分は彼女ごと切ってしまう気かとゾッとした。
ティーナは震えるばかりで何も言わない。そして、遂に涙で頬を濡らした。
「俺よりもグスタフがいいか。それも分からないではない。突然無理やり娶せられたのだからな!」
「…………」
何も答えず震える彼女の涙が、レオンの怒りをにまた火を注ぐ。
「しおらしい振りはやめろ!」
どんと、ベッドに突き倒していた。
幾つも年下の何も知らぬ処女だと思っていたのにと、口惜しくてならない。早くマルゴでも誰でもいいから止めてくれないと、彼女に手を上げてしまいそうだった。
「レオンハルト様!」
良いタイミングでマルゴの声がした。
レオンはハァと大きく息を吐いた。これで乱暴せずにすむかと、ホッとした。
と、転がっていたティーナが跳ね起きて、マルゴに向かって走っていった。
「だ、だめよ、マルゴ。グスタフが……」
「こうなったら正直にお話ししたほうが良いのです!」
「で、でも剣を持ってらっしゃるのよ……怖い」
「だからこそです! ティーナ様おどき下さい!」
二人の会話を背中で聞いて、レオンはまた怒りにぶるぶると震える。
――この期に及んで、グスタフの命乞いかぁ!
グルンとレオンは振り返る。
「どけ! アルベルティーナ!」
剣を抜き払っていた。
同時に、マルゴはティーナを押しのけ、グスタフを突き出した。
「レオンハルト様! グスタフでございますっ!」
「いやー! グスタフゥ!!」
ティーナの甲高い悲鳴。
構わず、斬りつけるつもりだった。
が、振りかぶったレオンの動きが、ここでピタリと止まる。
――モフモフ……
「グ、グスタフでございますっ!」
真っ青な顔で、マルゴが繰り返した。
――茶色のモフモフ……
「グスタフ……か?」
「グスタフ、です」
「たばかりなくグスタフか?」
「正真正銘、グスタフでございます」
――おのれ、グスタフッ! 貴様、ぬいぐるみではないかぁぁ!!
「グ、グスタフゥ、ふぇぇ……、グスタフを切らないで下さいましぃ」
ティーナは、床にしゃがみこんて泣きじゃくっていた。
振り上げた剣が、鉛のように重かった。どっと力が抜け、レオンはうなだれる。
「お、お許しくださいませ、レオンハルト様。これは、ティーナ様がご幼少の頃より大切にしていらっしゃるクマのグスタフでございます。レオンハルト様がお疑いの不義など、一切ございません! 天地に誓って申し上げます。ですから、どうぞお怒りを沈めて下さるよう……」
「……ク、クマの……グスタフ……」
レオンはよろよろと剣を鞘に収める。
――この、モフモフ……め
クマのグスタフを見つめるレオンの目は、まるで死んだ魚のようだった。