幽霊は存在するか1
覚えている限りでの、一番最初の疑問。
「頭を振って、音がしないのは何故か」
頭の中には脳みそがあると教えられ、幼かった私は「みそ」という部分に注目して、どんなものか想像していた。
みそと言えば、みそ汁。
いつも食卓に出てくるみそ汁。
みそ汁は液体だ。
みそ汁は熱い。
熱い液体。
お風呂のお湯もそうだ。
お風呂のお湯。
湯船に入っている。
湯船のお湯をかき混ぜると、ちゃぽちゃぽと音がする。
プールの水も同じ音がする。
液体は、動くと、ちゃぽちゃぽと音がする。
じゃあ、脳みそは?
頭の中に「みそ汁」が入っているのならば、何故、頭を振っても音がしないのだろう。
高校三年生になってから、「選択」という授業が追加された。
科目を選択できるといったものだ。
数学、現代文、歴史――様々な科目がある中で、私が選んだのは「倫理」だった。
哲学や道徳などのイメージが強く、この科目を選択する者は、物好きだったり、他の科目からあふれた奴らだったりする。
私はその物好きにあたる。
特別、哲学やら道徳などに関心があるわけではない。
その授業の内容に魅力を感じたのだった。
教室には6つの席が円卓状に並べられている。
1つは先生の席で、残りは生徒のものだ。
つまり、生徒は5人しかいない。
他の科目は15人以上が普通だ。
倫理に人気がないのがはっきりと分かる。
生徒の顔ぶれも、倫理の不人気さを表している。
学年トップの成績を持つ、金田。
ズタズタなズボンに踵の無い上履きを履く不良、田神。
蚊の鳴いたような小さい声でしゃべる内気で暗い男、黒崎。
同じクラスで私の親友である、嵯峨山。
私、雨守。
教師は社会科の伊藤先生。
そんなたった6人でする、倫理の授業内容。
それは――。
「さて、今回のお題は誰が決める番だったかな?」
我々が生きる社会で言われる「真実」とは、人間のテーゼによってもたらされたものである。
故に、超自然的な真実などというものは一生理解できないし、それに遭遇したとしても、我々の言う「真実」へと変えてしまう。
どんな事柄に遭遇しようが、何をされようが。
それが人間。
超自然的な真実からしたら、我々人間はアンチテーゼとなるのだ。
つまるところ、人間は解釈から外に逃げ出すことは出来ない。
極めて閉鎖的な生き物なのだ。
にも関わらず、自然を操り、進化し続けている。
小さな器から飛び出し、宇宙へと向かっている。
超自然的な事実と異なるものだとしても、それを超えて進化する、あり得ない存在。
まるで、妖怪。
テーゼをアンチテーゼに変える妖怪。
アンチテーゼの妖怪。
「今日のお題は、嵯峨山の「幽霊は存在するか」だ。じゃあ、出題者の嵯峨山からどうぞ」
「はい。俺の考えは――」
嵯峨山に皆の視線が集まる。
先生は嵯峨山の言葉をノートに記入していた。
この授業の面白いところは、先生が何も教えないというところだ。
基本的に、生徒同士での議論が主であり、それぞれがお題を出し合い、それぞれの答えをレポートとして提出する。
先生がそれを評価し、成績をつけるのだ。
「ちょっと待ってください。まず、幽霊とは何かについて議論しませんか? 大前提が決まらないことには、議論は進まないと思います」
そう発したのは金田だった。
流石、優等生だ。
そう、まずは、ここで言う「幽霊」とは何なのかについて理解しなければならない。
議論をするうえで大切なのは、大前提がある事であり、その大前提を全員が理解しているところにある。
例えば、「牛は可愛いか?」という議論があったとすると、その「牛」にはいろいろな種類がいる事が分かる。
牧場にいるような、白黒模様の牛。
闘牛のような、暗めの色を持つ牛。
牛と聞いて、牛肉を想像する者もいるだろう。
つまり、ここで言う「牛」と言うものが、どんな姿をしているかが分からない限り、それぞれが想像する「牛」について議論してしまうため、かみ合わなくなってしまうのだ。
もちろん、可愛い可愛くないというものについても大前提が必要なのだろうが、まあ、例え話なので気にしないでもらいたい。
とにかく、今回のケースにおいても、「幽霊」がどんな姿をしているか分からないと、議論は色んな所に話が飛んでしまい、破たんしてしまうのだ。
「幽霊は何か、によって、答えが出るかもしれませんし」
「じゃあ、幽霊とは何かからな」
嵯峨山が一呼吸おいて話し始めた。
「俺の思う幽霊とは、足が無くて、触れなくて、死んだ者がなるもの、だ」
「なるほどね。じゃあ、金田はどう思うんだ?」
先生はノートを書いているだけではなく、議論の進行役も務めてくれる。
ただ、本題には踏み込んでこない。
あくまでも、生徒が議論をすることが大切だと、先生は言う。
「僕も大まかに言うと同じ意見です。ただ、心霊写真があるように、触れることは出来ないけれど、人間が認識しているという部分を付け足したい」
一見すると、金田の言う「人間が認識している」というのは特別大切には感じないし、そりゃそうだと思うが、そう言った基本的な部分にもヒントが隠されている場合があるから侮れない。
金田はそれをよく分かっている。
本当、頭のキレる奴だ。
「いいねぇ。じゃあ、田神、お前はどうだ?」
「幽霊なんているわけねーだろ。心霊写真だって、ねつ造に決まってる」
田神。
おそらく、どこかの科目から溢れてきたのだろう。
大前提とか、そう言った事はお構いなしに、ズバズバとモノをいう奴だ。
格好や発言は不真面目に感じるが、割と考えているようで、授業をさぼったりすることもなく、ちゃんとレポートを提出している。
なによりも――。
「そもそも、死んだ者がなるんだったら、この世界は幽霊だらけになるじゃねーか。しかも、見えるし、心霊写真に写るなら、写真には幽霊がわんさかいるはずだろ。俺はそんなのおかしいと思うぜ」
割と鋭い刃を入れてくるのだ。
田神の発言は、ミーハーな感じはするが、考え過ぎている我々にとっては、別の切り口と言う意味でも参考になる。
案外、この中では一番現実的に物事を捉えることが出来る奴かもしれない。
「相変わらず鋭いねぇ。じゃあ次、黒崎」
「僕は……その……えと……」
「おい、はっきり喋れよ!」
「う……」
「こらこら田神。黒崎、時間かかってもいいから、大きな声でしゃべってみような」
「はい……」
このやり取りを何回見たことか。
何度顔を合わせても、黒崎がこの場に馴染めたことはない。
そんなうじうじした態度を見て、田神はイライラしているようだった。
しかし、黒崎は黒崎で、全く新しい切り口を持ってくる。
「た、田神君の言う……幽霊がたくさんいないとおかしいと言うのは……幽霊にも寿命があるからじゃないかな……」
「あ? どういう意味だよ? 死んでんだぞ? 寿命も糞もあるかよ」
「例えば……幽霊は成仏するって……一般的には言うでしょう……? それって……幽霊になった後にもステージがあるってことなんじゃないのかな……って……」
「う……確かに……言われてみりゃそうかもしれねぇな……」
「つまり、黒崎君の言う寿命と言うのは、その事なんですね?」
「うん……」
「じゃあ、黒崎の言った通りならば、俺が最初に言った、死んだ者がなるものって言うのは正解なのかな?」
「そう言うことになりますね。今の嵯峨山君の前提に対して、田神君はどうですか?」
「……幽霊がいるなら、って話だろ? そうなら、俺はいうことねえよ。俺はいないと思ってるんだからよ……」
田神はつまらなそうな顔をした。
「黒崎は以上かな? じゃあ最後、雨守」
私の番は絶対、一番最後になっている。
嵯峨山のように基本をつくることは出来ないし、金田のように場をまとめる事も出来ない。
田神のように鋭い刃を入れる事も無ければ、黒崎のように新しい切り口をつくる事もない。
だからこそ、色んな意見をまとめて、答えを出すしかない。
先生もそれを分かってくれてるから、私を最後にするのだろう。
何もないからこそ、固着した考えはないし、どこかに偏る事もない。
全ての素材から、かみ合うものを見つけて、口に出す。
それが私。
「色んな意見を聞く中で、自分が思った幽霊の共通点は、幽霊は幽霊がいたという証拠を残さない事だと思う」
「心霊写真があります」
「うん。金田の言うように、心霊写真はある。でも、田神の言うように、ねつ造かもしれない」
「ぜってぇねつ造だ!」
「心霊写真以外だと、物質的な証拠は挙がってない。この場ではね」
「見たという人は……いるよ……」
「確かにそうだ。つまり、幽霊は、確定した証拠を残さないことと、人間の目の前にしか現れない存在なんだと思う。幽霊が「いる」という事があっても、幽霊が「いた」は、心霊写真の信ぴょう性が確定的でない限り、あり得る事ではないと言い切っていいんじゃないかな」
数秒の沈黙。
「つまり、「幽霊」とは、触れなくて、見えると言う人が多くいて、人間の目の前にしか現れなくて、見える数から考えて寿命があり、物質的な証拠を残さない存在である……と、いう事でいいんじゃないかなって」
「なるほど。一ついいですか? 心霊写真の信ぴょう性が確定的でないという点に関しては、皆さん納得していますか?」
「ったりめーだろ!」
「僕も……いいよ……。寿命があるという事が認められれば……」
「俺も雨守の意見に賛成かな」
「僕も、確定的なという部分では納得しています。見た人がいるという部分も引っかかりますが、そもそも、見た人がいなければ、幽霊なんて言葉は出てこなかったのかなと思いますので、そこは納得しておきます」
「じゃあ、雨守君のまとめた大前提で、皆納得したという事で、議論を進めましょう」
その時、チャイムが鳴った。
選択は二時間授業だ。
最初の一時間が、大前提を決める事で終わってしまった。
それほどに、大前提を決める事は難しい。
皆が皆、納得しないといけないものであるから。
「よーし、皆いい感じだな。んじゃ、10分休憩だ」
「ふー、なんかもう疲れたな」
「だね」
10分の休憩時間の大体は嵯峨山と話している。
お互いにどう思っているかを話し合うのだ。
休憩中なのに議論しているなんて、お互いに物好きなんだろうなぁと思う。
「しかし、やっぱ面白いよな。皆、似ているようでイメージが違うんだな」
「同じものでも、見ている人間が違うからね。やっぱり、人間は自分という存在から外には出れないんだね」
「思想を統一するために、法律や規則と言ったものはある。俺らが集団で生活を始めた頃から、こうなる事は決まっていたんだろうな」
「でも、なんで集団で生活をしようと思ったんだろうね」
「やめろよ、今は休憩時間だぜ。それはまた授業中にお題として出せよ」
「だね」
人間の疑問は尽きない。
そう言った「疑問」というもの自体、集団生活によって生み出されたものなのだろう。
孤独であれば、「何故?」とは思わない。
他人を理解する必要がないからだ。
「まぁ、どちらにせよ、人類はそういう生き方を選んだんだからさ、そうやって生きていくしかないんだよな」
「そうじゃないと生き残れないしね」
生きるために、他人と関わらないといけない。
それには、他人と共通した大前提が必要であり、それに従わなければならない。
人は従うために、それらに「真実」と名付け、絶対的なものとして扱ってきた。
例えそれが、間違ったことだとしても、我々は「真実」には抗えない。
だから、議論するのだ。
「そろそろ戻るか」
「そうだね」
一番重要な大前提が決まったのなら、答えが決まるのは早いだろう。
間違っていても構わない。
我々は、アンチテーゼの妖怪なのだから。
――「幽霊は存在するか2」に続く