冬眠から覚めて来るもの
シュミレーション・その一。
目が覚めたとき、目の前に見知らぬ綺麗な女の人がいる。
そして、自分が童貞で、女人の何たるかを、ヴィデオやら雑誌でしか知らなかった場合。
更に、その綺麗な女の人が、多少言動に問題があるとはいえ、自分に好意的な態度で接してくれている。
以上のシュミレーションから導き出される解答
→舞いあがること凧の如し。疾きこと風の如し。
いや、舞い上がるでしょう?!
心拍数が先物取引相場よりも乱高下、もしくは高度経済成長のグラフ? あんな感じで、もうライジングだよ。
舞い上がる燃え上がる、フライ・ハイ。
だって俺、モテまくる御都合主義アニメの主人公じゃないし、異性からのアプローチに対して興味なさげな態度なんて取れないし、舞い上がるわ、そんなもの。
あ、そうか、舞い上がるからモテないのかも。
しかし、以上のシュミレートが、妄想エンジン全開の状況が現実に起こり得たら、俺だったら、完全に舞い上がり、燃え上りオーバーヒート、白目でヨーデルでも歌いながらアルプスに向かって孤独な逃避行を決め込んでしまう。
しまうでしょう?
俺だけ? 一人ぼっちのロンリーナイトか?
しかし、そんな逃げたがりの弱小チェリーマンでも、実際に異性の肌に触れてしまうと、その柔らかさ、温もりを感じてしまうと、如何にマグロ体質、一から十まで全部相手にヤッてもらいたい、被害者根性丸出しのアホウでも、行動に出せないまでも、心の中では童貞卒業へのシュプレヒコールが鳴り止まないこと請け合いだろう。
心の中、満員のオペラホールに押しかけた、一万人の自分が一斉に叫ぶ。
「いざ、童貞卒業! さあ、未知なる世界へ! 人類の無限の可能性へ! ブラボー!bravo!!」
……断じて、これは下賤な話などではない。
崇高なる人間の、未知なる世界への、無限の可能性を信じる、知的好奇心の問題だ。
ただし、その問題は、性欲に直結してるけど。
小町が微笑んでくれたり、膝枕をしてもらったり、二人で初詣に行った時、俺のファーストハグを奪った時などは、確かに俺の生ゴミみたいな心にも、希望という名の輝きが灯った。
童貞卒業という希望、今も燻り続けて俺を焦がす、というかローストする輝きが。
その輝きは今も俺の心に燻っているが、小町はどこまで行っても俺にとってはカメ、ペットとしてのコマチでもあり、俺が一人で病める時も健やかなる時も暗がりの部屋でティッシュ片手に自家発電をしていた際も、常に側にいた存在で、っていうか爬虫類なので、童貞卒業という夢、輝きに近づこうとすれば、「カメのヒモという人生」に進んでしまいそうで、太陽に届くと慢心したイカロスよろしく羽根を溶かされて自滅する。
しかし、フィッツジェラルドが看破したように、希望とは永遠に判断を保留することである。
夢や希望は、叶えなければ、呪いの様に、永遠に心に残る。
アルコールで上気した身体も、思わずマフラーが欲しくなるほど寒い夜だった。
故郷では、もう梅の香りがムンムンだと思うが、俺は居酒屋から引き上げ一人、都会のど真ん中、縦も横も馬鹿みたいにデカいビルの裏通りにポツネンといた。
フェンスで覆われたレンガ模様の壁に沿って、延々と備え付けられたエアコンの室外機が、低い響音をあげていた。鯨の群れが潮を吹いているようだった。
表通りは車道は両側で四車線、幅広くて街灯も華やかだったのが打って変わって、この裏通りはやや左に曲がりながら続く片側通行の道路しかない上に、路面はあちこちひび割れていて、もうずっと長いこと補修されていないようだった。
室外機の音が響くほどに、人気も車の排気音もせず、あるものと言えば、ただ業務的な街灯が建物の合間合間に立っている位で、ガムのカスやタバコの吸殻なども道端の雑草もなかった。
人の手で汚されているというわけでもないが、手入れが行き届いている、というのでもない。
ぼうっとしていたら周囲の変化に取り残されました、とでも言いたげな裏道だった。
なんだか、俺みたいだ。
居酒屋でのコースケは酔っていたのか素面なのか、超を超える、スーパートークっぷりというかハイパートークっぷりだった。
要するに小町と付き合いたい、ついては俺に、小町と会えるよう取り計らってくれ、と言うことなのだが、俺が曖昧にかわそうとしても、コースケの追求はタフなボクサーが放つボディブローの様にしつこく的確だった。
「何度も言うけど、つまるところはさ、関係性の問題なわけ」コースケは美味そうに喉を鳴らしてビールを飲んでいた。
「面倒な言い回ししないでもらえませんか」俺はちびりちびりと日本酒を舐めながら、借りてきた猫さながらに視線をキョロキョロさせていた。
何でご飯を食べる処なのに、床が白く光っているんだろう。何のために?
「だからさ、それなりの収入と立場があると、女がいないってのは問題になるんだよ」
「ぜんっぜんわからねぇ」
「『えー、ヒシムラさん、彼女さんいらっしゃらないんですかー? だったら私とかー、立候補しちゃおっかなー』とかよ、ブッサイクな女にホザかれてみ? 水平チョップとか繰り出したくなるぜ」
「似てない女声、キモいでーす」あと、俺はお前にチョップを繰り出したいでーす。
「もうそろそろ、結婚前提のつもりで来るわけよ、同年代のヤツとか」
「知らないよ! 何のアピールだよ! 今更モテる宣言かよ!」
「まぁ、お前には縁の無い話だけどさ、好きでもない女を抱いた後の虚無感とか半端ないわけ。もう無性に泣きたくなるぜ」
「じゃあ抱くなよ! 俺が泣きたいよ!」
「だーかーらー」大仰に手を振りながらコースケは言う。「お前には分かんない悩みとか、あるわけ」
「俺に分かんない悩みとか言うなら、言わなくていいじゃん! 面と向かって、お前にそんな事言われた後の虚無感とか半端無いよ?」
「お前には分かんないから、小町ちゃんと話したいわけ。あの子なら分かってくれる。スゲー美人だし。真剣に付き合いたいのよ。つか、できれば結婚を前提で」
……はい?
ケッ、ケケッケケッケ、けっこん?!
ハイテンションなニワトリの鳴き声よろしく「ケッコン」というワードが俺の脳内に響いた。
つい十分ほど前に、二年付き合っていた彼女と別れたって話から、どんなカットバックドロップターン決めたら小町と結婚したいって話が繰り出せるのよ。
マジで何なんだコイツ。
普通、久しぶりの再会で飲みの席、つったら思い出話に花を咲かせる、花さか爺さん二人組になるはずなのに、何、このノーサンキューにも程があるボーイ・ミーツ・ボーイは。
そして、こちらの話した意図を相手は汲もうとせず、全く関係の無い発言、こちらに伝えることを目的としていない、己の主張のみを手を替え品を替え、繰り返される。
会話をしていて、これほど虚しい事は無い。
「だって、小町ちゃん、お前の事好きかも知んないけどさ、無理じゃん、お前プーじゃん、将来性皆無じゃん、幸せにできないじゃん?」
人目が無かったら、この言葉を聞いた瞬間に、俺はコースケに殴りかかっていたかもしれない。
しかし、コースケの言ったことは腹立たしいし無遠慮で無思慮だけど、確かに当たっている気がして、俺は胃袋に金属円錐でも投げ込まれて、それが躍り狂っている様な、息苦しくて腹の底が重く感じられて、脳内審判がギブアップ判定を下した。
俺は「ごめん、悪いんだけど時間だし、この話は聞かなかった事にする」と早口で言うと、引き止めようとするコースケをかえりみずに、堰を切ったよう様に席を立って、って別にダジャレではないんだけど、卓の上に千円札を数枚、投げ出すようにして店を出た。
いや、逃げ出した。
俺が店を出たタイミングを見計らったようにエレベーターが来てくれたのは幸いだった。
勘定、たぶん足りてないけど。
最初、奢る、とか言ってたから良いやな。
武士に二言は無い。
コースケは武士。野武士。
そういう事で。よろしくお願いします。
そんな具合で、後先考えずにひたすらお洒落で豪奢な街並みから遁走してしまった。ここはどこだ?
携帯のナビマップを開いても、通りの名前すら俺には見覚えがなく、あ、これ、完全に道に迷った。
万が一、後を追ってこられた事を考えてビルの裏通りに入って、幾つも知らない曲がり角を曲がったのが裏目に出た。
……お金と地位、か。
金網のフェンスで覆われた室外機が、低い音ともに、外気よりは生温い風を吹きつけてくる。
慣れない街の慣れない居酒屋で慣れない酒を飲んで、酔ってもいないのに吐き気を催すほど気分は悪かった。
ああ、もう良い加減、帰らないと。
電源を切っていた携帯をつけると、鬼のように小町からの着信履歴と「お帰りはいつですか?」という内容のメールが「99+」と表示されるまで積もり積もっていた。
えーーー。
なにこれ怖い。
いつもより1時間くらい、帰るの遅れただけだよ?
愛が重い、っていうかサイコパスだよ。
メールだけで相手を殺せるよ。
悪いのは連絡してない俺だけど、いやコレはコレで怖いよ。
帰らないと行けないのに、答えなんか何一つ出せていないもんだから、というよりムシロ新しい問題が多発して、帰る足が異様に重い。
競馬で、凄いハンディ負ってる馬みたいだ。
ヒヒーン!
「……これから、どうしよう」思わず天を仰いで呟いた。すると、暗がりから低い声がした。
「神にでも、祈りなされ」
え、返事来ちゃったよ、と思って俺が声のした方に振り向くと、暗闇が喋っているのではないかと一瞬勘違いしたほど、不気味なまでに暗闇が似合う老爺が立っていた。
影があるとか、孤独が似合うとかの類じゃなくて、日差しの下に晒したら気の毒に思えるという意味で暗闇が似合う。
俺が思わずウワッ、何だアンタ、と心でだけ叫んで凝視すると、よれよれのニット帽を被って、その下から野放図に伸びた白髪交じりの髪がはみ出し、手入れの後も見えない髭も髪同様白髪が混じった、頬の角張った顔をしていた。
服は派手なオレンジ色のセーターを着ているが、ダブダブで毛玉が浮き放題、しかも下は、あちこちに様々な色の染みがついた白いスカートを穿いている。
スカートって。ネタでなく、この格好となると、これは……ちょっとフォローのしようが無いくらい気の毒な風貌だ。
髭のせいか、時代を先取りしすぎた格好のせいか、五十代にも六十代にも見える。
関わり合いになると、とりあえず面倒な事になりそうな匂いしかしない。さて、逃げ出すか、と、凝視してしまってからエヘラ、と妙な笑顔を浮かべると、老爺は意外な事を言った。「ほほう、お前さん、知り合いに『人じゃない人』がおるんじゃないかね」
外見の珍妙さに反して、落ち着いて芯の通った声色、有無を言わさず人を納得させる、亀の甲より歳の功、とでも言った声だった。更に老爺は、その言葉で俺が目を見開いたのを見て、得心が言った、という顔をして(髭に隠れてるんだけど、たぶんそんな顔だ)こちらに近づいてくると、続けた。
「さて、そんなお前さんは、ワシも去年まで人間ではなく、カエルだったと言ったら、やはり頭がおかしい人間と思うかね?」
お前もか、ブルータス。パート2。
てか、小町と随分……差がある容姿でいらっしゃる……。