人として、カメとして
「パンチラが見たい」
高校二年生の、春だった。
昼食後の昼休み、誰もいない校舎裏の草むらにコースケは寝転がり、青空を見上げながら唐突に魂の叫び、或いはただの欲求不満を呟いた。
「見てこいよ勝手に」俺は未だにモソモソと焼きそばパンを齧りながら応答した。
「梅が香に のっと日の出る 山路かな」
「パンチラ見たいって最低発言の後に、んな俳句を引用されたら芭蕉も浮かばれないな」
「あー、せめて横にいる、このショボクレたヨシムーが短髪美人だったらなー」
仰向けのコースケは、その姿勢のまま腸腰筋のトレーニングをし始めた。何のためのトレーニングだ。
「せめて、のハードル高いな?」
「ヨシムー、もしもよ、もしも俺が黒髪の乙女だったら、どーする?」
「ifの範囲が広すぎますが、え、普通に、どーもしなくない?」
「はぁ? ダッセ!」
「え、えー!?」ダサいって何だ、ダサいって。
「バカ、俺はな、お前が短髪美人だったらな、もうヤリまくるよ?」
「いやいやいやいやいやいや」
「ふっ、勝ったな」
「負けたの?! 俺? 何で?」
「お前が負けたのは、俺に、じゃない。そう、人生に、だ」
「負けでいいや」
ヒヨドリの声が虚空に響いた。
しばしの沈黙の後、やおらコースケは身を起こすと、やれやれ、と言うアメリカ人の様に肩をすくめると、脱ぎかけの上履きを片足でブラつかせ、ヒョイ、と足首の動きだけで放り上げた。「暇だなぁ」
「うん、暇だな」初めてまともに同意した。
「で、だね、俺が思うに、なんか、こう、ハングリーさが足りないと思うのよ、ヨシムーは」
「唐突なダメ出しっすね」
「もっと生活水準さげて。銀シャリとかでなく、毎日粟とかヒエを食べてですね」
「今やったら、ムシロ健康指向だよ、それ」
「だー、良いのよ別に。だっておかしいじゃん、俺ら、何も持ってないのに余裕があるフリ、みたいのしてさ」
「我々、銀の匙を咥えて生まれてきた世代っすから」
「もっと、こう、ぐわーっと」
「擬音で話さないでいただけますか」
「だから、こう、がつがつと求めないと。女とか女とか女とか女とかだよ」
その三日後、コースケは彼女を作ってきた。他校の女の子とゲームセンターで知り合い、そのまま付き合い始めたという。
なんで、そういう華のあるイベントには俺を誘わないのだ。うぐぐ。
コースケと俺の間にはベルリンの壁より高く厚い、しかも見えない壁がいつの間にか存在していた。それは声をかける勇気ではなく、断られても平気でいるメンタルの差か、分からない。
人生ってよく分からない。
本当に分からない。
「人生ってよく分からない」と言ってから、なにやらモテたりナルシスト的な発言をする奴がいたら、それは万死に値するスタンスだ。俺は断固否定する。飛び膝蹴りをお見舞いし、真空チョップと地獄ぐるまと十字固めと花束をプレゼントしてやる。
現在。
俺の家から二十メートルほどの曲がり角で再会し、目線が会うや、ニヘラ、とでも形容したくなる薄気味悪い笑みを顔に貼り付けたコースケは、立ち話もナンだから男二人、どっか呑みにでも行かないか、と開口一番、切り出した。
え、いや、そういう状況? 分からんけど。
けれども、小町と顔を合わせ辛い今の俺には渡りに船、安居酒屋なら付き合う、と答えると「いっやー奢るし、ちょっと折り入って話したい事あるし。な。ほら、行くぞ」と言うが早いか携帯電話でタクシーを呼んだ。
えー。
近所のチェーン居酒屋ダメっすか。
車で二十分も走ったろうか、どこをどう走ったのかあっという間に車でごった返した都心のビル街に出ると俺たちはタクシーを降り、巣穴に潜る蛇よろしく素早く、そのビル群のうちの一つ、エレベーターしか無い奇妙なビルの一階に潜り込んだ。壁にはやたら肉付きのよい天使が舞い踊っている絵画が飾ってあった。
え、ちょっと待って、え、え? などと、せいぜい繁華街の個人経営バー程度を行き先に想像していた俺が、めくるめく風景に疑問符、頭から巨大なクエスチョウンマークを出しているうちにエレベータは上昇、ワンフロアに案内されると、そこはツルツルと黒く輝く床と、ガラスと障子で仕切られた、どう足掻いても童貞フリーターには場違いなオサレ居酒屋だった。
えー。
店内に入ると、床は絨毯敷きに変わり、仕切りの隙間から見えるガラス窓の向こうにはやはりガラス張りの高層ビルが見えた。
えー。
ビルの中がガラス張りの絨毯敷きフロアって、これ、アレだ、映画「ソーシャルネットワーク」でみたやつだ。
何で東京はアメリカのマネをするわけ?
何で贅を尽くすと、結局は万国共通似た者同士になるわけ?
分からん。分からんよ、コースケ。
お前、さっきから手際とか態度とかを見てると、こういう店、凄い……慣れてるんだな。
何を求めて、何だろう。俺には分からないもの、なのかもな。
席に着いて、コースケが頼んだ大吟醸、クリスタルカットのグラスに注がれた酒が、個室の壁につけられた間接照明の光を集めて、輝きを燻らせている。
何だここは。そして何なんだ、お前は。
小町と行ったオープンカフェ同様、俺は激烈に居心地が悪いぞ。知らない家に預けられた猫よろしくストレスマッハ、帰巣本能で暴れ出しそうなのを精神力でカバーしているぞ。
俺は、それこそいつも住んでる周辺の商店街なんて、一本裏道に入ったらシャッターを下ろした街並みが並び、あちこちに枯れた植木鉢が放置されていて、おまけに壁やシャッターにはスプレーで落書きされ、その落書きの内容も「ロケンロール!」とか「しぶ団参上」とか、本人はお洒落、或いはアートのつもりで書いたのだろうけれど、自己完結の自己満足で終わっていて見た人に不快感しか伝わらない、まるでオナニーをしていると人の脳みそは退化して行くんじゃないかと疑いたくなる、そんな落書きがビッシリ、更にその上は埃とチリに一面まみれて、彼方此方に錆びが目立って、風が吹けば破れかけのビニール袋が頼りなく地面を転がって砂ぼこりも舞いあがり、目が痛くなる、住みたい町ランキングからは未来永劫名誉除隊、かつて人が生きていた痕が放置されて廃れゆく哀れさと滑稽さが滲み出ている街、いや、町だ。
俺はそこで毎日を過ごしている。
なんなんだろうな。
今も、俺とお前の間にはマリアナ海溝より深い溝があるな? ナニユエだ?
二人とも元気だから、別に良いのかもな。
けれど、なんなんだろうな。
「なんなんだ、小町ちゃんって、お前にとって?」
「へ」俺が軽く脳内トリップしているうちに、コースケは酒をチョイチョイ舐めつつ、真剣な目つきになってこっちを見ていた。
「だーからさ、あの子、従兄妹っつってもさ、結婚は出来る訳じゃん。けどお前無職じゃん。どう思ってんの? みたいな」
「いやいやいやいやいや」
結婚ってなんだ。なんだその急激な変化球。そもそもカメと結婚ってなんだ。ようこそ日本昔話の世界へ。
だいたいなんだって小町をそんなに女人として意識するかね。あいつ、顔身体は美女だけど人格は阿修羅だし中身はカメだぞ。良いのか。外側だけ美女ならば中身は何でもいいのか。思考停止で良いのか。ていうかサラッと無職でいる事を責められてますね、俺。
「コースケ、お前こそどうなんだよ、俺、なんか凄いあっさりこんなオサレ居酒屋に来ちゃったけど、彼女」
コースケは彼女、という言葉を耳にした途端、口をつぐんでビードロ製の猪口に酒をついだり突き出しを無闇に箸でつっついたりしている。
なんだこいつ。
心優しい熊が、身をすくめてるみたいだぞ。
あ、そうか、こいつ、結婚式を挙げるってことを俺に言おうとしてきたんじゃないか? 俺を呼ぼうとして、そしたら人前に出なきゃならないから、無職だってことを気にしてるんじゃないか? だから、俺の家の前で、声をかけようにも少し逡巡していたんじゃないか?
この、気にしぃ野郎が。
なら、俺から話を振るしかないじゃないか。
「お前さ、身内に厳しいの、身を固める前にはやめた方がいいんじゃないの? 別に俺、今更一対二で飲んでも引け目とか感じないし。どっちかっつったら一回はさ、会っておきたいしさ、なぁ」
「そら無理だ」コースケは手を煽ぐように上下に振った。
「無理ってなんだよ。嫌なら良いけど無理って酷いなお前」言い訳するように俺はグラスを口にした。にがしょっぱい。
「だって一昨日別れたんだもん」
ぶぎゅ、と酒が口から噴き出た。「別れた?」
「そ」軽く言うと、コースケは俺におしぼりを放り、自分の空のグラスに酒を注いだ。「まあ、一昨日でなくても、いつかは別れた。分かるか? 今でなくても、いつかは同じことがどこかで起こったんだよ」
何を文学っぽく言ってるのか、このドテカボチャ。
鼻毛、燃やすぞ。
「だ、だって、お前、正月は、なんか惚気てたじゃないか。小町に言ってたろ、なんか」
「そういう事とは全然違う事なんだよ。お前には分からないことなんだよ」
なんじゃそりゃ。ライター探すぞオイ。
あの、恋愛云々だと「そういうのは人それぞれだから」みたいな文言で説明終了するの、やめにしてくれないっすか。個別の問題だけど人に話した段階で、自分から個別の話じゃなくしているのに、なんで途中でインターセプトするかね。
理解は永遠に不可能かもしれないけれど、発信を止めたら誤解しか生まれないよ。
不言実行だとか背中で語るだとか、語れて無いからね、語れてるって言う発信側の願望だからね。
エッチな漫画とかでえっちぃ部分が極端に描かれてるくらい不自然。
で。不機嫌になった俺、いや不機嫌どころか見知らぬ居酒屋で「らー! らーらー! らーらーらーらー!」と歌い出したくなるほどイライラしていた俺を尻目にコースケは何やら一席ぶった。
「どうしてこうなったのかは俺にも説明できない」だとか「重要な事は、これはいつかは起こったってことなんだ」とか、なんだか鼻毛を燃やしてやりたくなるような言葉がたくさん並んだ。
もう燃やして良いんじゃないっすかね。
最終的に、二言でまとめたら「彼女と別れたから小町と付き合わせてくれ」という、己の願望をストライクど真ん中に投げ込んだよーな事を真顔でのたまったコースケを、俺は皮肉を込めて散々笑ったのだが、コースケは真顔のままで、えーーーー! 何この鉄面皮?! 言いたい事言い放題?! 自信に満ちた顔で言えば無茶も道理になるの!? ていうか、ロクに会話もしてない、一目見ただけの女の子と付き合うの?! しかも前の彼女と別れて舌の根も乾かぬうちに?! などとと思ったがコースケの真顔は真顔で、え、こんなアホな事を本気で考えなくちゃならんのか俺?
えらやっちゃえらやっちゃーヨイヨイヨイヨイ。
どうすんの、俺。
って言うか、そんなん言われても、俺にどうしろと。
あれ、でも俺は小町の保護者っていうか主人なんじゃないの、でもコースケは「人としての小町」にしか用はないわけで。
あ、そうか、人として思っているのか、カメとして思っているのか、俺は、そこをずっと決めかねていたんだ。
そこから眼を逸らしたかったんだ。
えっ小町が人としてなら、どーすんの俺?
この話、どーする?