緩い光の中で
なんだっけ。
何か、本当は、もっと考えなきゃいけない事がある気がするんだけど。
なんだろう。
午後の陽だまりが落ちた畳の上で、女の子に膝枕されていると、なんかすごい、どうでも良い気もする。
俺は小町の膝枕の上で、すっかり腑抜けていた。
小町の太腿、ふわっと柔らかいけど反発力ももちろんあって、フニフニしてるクセに張りがあって、先端が丸く削られた午後の日差しは暖かくて、光にも質量があるんじゃないかって錯覚を覚えるほどで、なんだこれ、アホか、って言いたくなるほど気持ちよくて、思考とか時間とかが、すっかりまどろみきっている。
もし、ずっとこのままなら。
……いや、たとえいつか、離れるんだとしても。
カメのコマチが人の姿になって、約一週間後。
俺の年内最後の休みだった。
師走の忙しさは、俺のアパート付近の住宅街にはあまり伝わってこない。
風もなく、時折どこかから子どもの笑い声が聞こえてくる以外、音もしない、穏やかな日だった。
日課だった炊事洗濯掃除は、もう小町が完全にやってくれるようになったので特にする事もなく、パジャマのまま朝食を済ませ、録画しておいた深夜アニメなど見て過ごしていた。
最初の頃こそ、小町は俺のだらけた姿に注意、意識を高く持て、など意識高いニート仲間が他のニートに厳しい様に注意してきたが、俺が「良いじゃん、外ではそれなりにキチッとしてるから、小町の前でくらいだらけさせてよ」と、本当は外でもだらけているから現在の体たらくなのに嘘八百を並べ立てたら、
「では、これは、私だけが見られる、タクミ様のだらけた姿……?」とか言い出してムシロ興奮しだしたので、もう放っておこうと思った。
ふはは、カメ頭脳め。
そう、ついでにあまりに棒読みだった「ご主人様」呼ばわりは止めてくれ、人格と呼び名の比率が取れず荷が重い、と懇願したら下の名前、「タクミ様」と呼びだした。
つい先日までカメだった奴に呼び捨てにされるのもシャクだったのでまぁええか、と思って止めなかった。
そんなわけで、読み終わった漫画雑誌を何度も読み返す様なユルッユルの姿勢で、俺の穴の空いた靴下を縫い直している、女性物カジュアル衣料品で上下を固めた小町の姿を眺めていたが、そのうちに何だか言い知れない哀れさを覚えた。
こいつ、何でこんなハイスペックな現代版小野小町みたいな奴が、よりにもよって同世代カースト制度圧倒的最下層な俺の靴下なんぞ直してるんだ?
猫に小判、豚に真珠、俺に恋人。
……恋人?
いや、小町はカメだろ、しかも外来種、日本固有種を傷つける類の。
しかし良いのか、こいつ、こんなんで幸せなのか、いや、ペットとしてなら俺はコマチを拾って飼い始めた、あの瞬間から世話をする義務、みたいなものをもちろん感じているが、なんだ、人として見なしたら俺が小町に与えているものの少なさに唖然とする。
「どうかされましたか、タクミ様?」俺の視線に気がついたのか、小町は針を操る手を止めて目線だけこちらに向けた。あ、はい、俺、ヨシムラタクミです。
「やはり糸を見ていると、私の緊縛姿などを思い浮かべて興奮するのですか?」
「全くしません」
「そうですか。ですが、私は既にタクミ様の性癖を知り尽くしていますし、カメの頃から何年も同じ屋根の下で暮らしておりますし、これはもう、ほぼ同衾なのでは?」
「ないから! 同衾とか、表現オブラートに包んで無いから! しかも『ほぼ』とか無いから! それは一か零かだから!」
「往生際が悪いですね」
「往生したらダメだろ!」
こいつと話していると脈拍とテンションが先物取引の相場より乱高下する。
「あら、お疲れですね、今日は干物のように寝てばかりなのに」
「誰のせいで……」どの口が言うんだ。
「うーん、少しお昼寝でもなさいます?」と言うと、しゅ、しゅ、すいっと流水の如き手つきで手早く残った針仕事を終え、口で糸をプツっと切って、あっという間に靴下とソーイングセットを片付け、陽の当たる窓際に正座した。
「ここなら、暖かいですよ?」折り曲げた自分の膝を指差しつつ、手招きしている。
……え?
「ここって」思わず宙を指差してしまう。
「此処ですよ」困ったように笑って、もう一度自分の膝を指差した。「大丈夫です、そんなに硬くありませんから」
お前カメじゃん!
姿変わってもカメじゃん! 俺のペットじゃん! 爬虫類じゃん!
どういう世界なんだよカメに膝枕されるって!
頭の中の白い俺が必死の叫びを上げていたが、陽だまりの中でこちらに笑顔を投げかけている黒髪の乙女を見ていたら、脳内の黒い俺と灰色の俺が白い方をテキパキと押さえ込みにかかった。
フォール!
ワン。
トゥー。
スリー。
三秒経過。
女の子の膝枕やわっけえ。
良い匂いする。
欲望に勝てませんでした。ダメだよー砂漠で干からびかけた童貞に瑞々しい果実を持った美女とか与えたら。これを断れる勇者が世にいるだろうかいや反語系。
たとえ中身カメでももう良いじゃん。キツネに化かされて泥沼に身を横たえて良いじゃん一瞬幸せだし。
招かれるままに小町の膝に身を横たえると、もう白い俺も目は虚ろで「ポカポカする」とだけ繰り返すポンコツになっていた。
小町の顔を見ようと首を傾げると、薄手のセーターに包まれた胸が目に入った。脊髄反射で凝視する。せずにいられようか、いや反語。
乳の向こう、長髪の乙女が笑みを浮かべて、陽の光を受け、さながら後光を帯びた様相で、俺の頭を撫でてきた。
かっはー。
これかー。
彼女がいるってこういうことかー。
宇宙の真理に一つ近づいたわ、俺。
何か色々考えなきゃいけないはずなんだけど。
「そうだ、小町、年、明けたらさ、初詣とか、行く?」
しばらく、自分の人生未踏の地の味を加味してた後、ふと、思い出したように、もう一度顔を上げて聞いてみた。
病気のナスみたいな顔をした小町が、少し身体を引きつらせながら口元を押さえていた。
「え、なに、どうしたどうした?」慌てて身を起こす。俺みたいなのを膝枕するってそんなにストレスか?!
「……み」
「巳? 来年は申年だぞ小町、どうしたんだおい」
俺の頭という重しが取れた小町はヘナヘナと後ろに倒れ込んでしまった。
え、これかなりマズイやつだろ? 救急車か、ん、待て、人体への治療が、果たしてこいつに効くのか? そこらへんどうなんだ? しっかりしてくれ、急に一人にしないでくれ。俺を、一人にしないで。
「み……ず……」
息を切らしながら、弱弱しく、小町は言った。
み、水? あ、ウォーターか!
と合点した俺は「うぉぉたぁぁ」と、かの偉人ヘレンケラーのように絶叫しつつ跳びはねてホップ、戸棚からグラスを取り出しステップ、蛇口を捻り水を注いでジャンプ、萎れた小町を片手で抱きかかえ、もう片方の手でグラスを口元に差し出した。
眼を固く閉じてンク、ンク、ンクと水を飲み干した小町は、潮が引く様に顔色を元の健康色に戻した。
増えるワカメか、お前は。
「どした、大丈夫か、具合悪いか?」
ポンコツドロイドのように慌てふためいた俺の胸に手を添えて小町は口を開いた。
「御心配、ありがとうございます。大丈夫です、タクミ様」
「え、大丈夫? 何があったん?」
「いえ、もう大丈夫です。日なたにいたものですから、乾燥してしまって」
そこカメ要素かー。
そこに残ってたのかカメ要素。
むしろ魚クラスに陽に弱いじゃん。
陽に弱いとか、ヴァンパイアなんでないの?
「お申し出、ありがたく思います。ぜひ、御一緒したく思います、初詣」
それには二リットルのボトルが数本は必要だと思った。