カメの恩返し
ふとした瞬間に、考えてしまう事がある。
どうでも良い事を真剣に考えてしまう。
人生って、本当に楽しい?
分からない。「楽しいよ、毎日」って笑いながら答えられた方がモテそうな気がするけど、俺には分からない。伊達に大学を中退してない。
けど、「目が覚めたら飼っていた亀が人間になって包丁をブン投げてきた」っていう状況は、傍から見たら少し楽しい気がする。
けれども俺は傍になど立てず、むしろ当事者として亀、小町がハミングしながら朝食を作っている後ろ姿を現在進行形で眺めているので、全然楽しくない。
ぜーんぜん、楽しくない。
むしろ帰りたい。私を家に帰して下さいという気分が満載、けれども此処が俺の家である。
どないせぇっつうねん。
どこ、どこに帰るの、迷子の子猫ちゃん、あなたのおうちは多次元空間? もう一つの地球? 目が覚めてから俺の頭は稼働限界を超えてて、もはや泣きたい。けれど泣いてもどうにもならないから生きる。
「ご主人様」小町はハミングを止め、顔だけ、両手で頭を抱えている俺の方に向けた。「どうしたんですか、辛気臭い顔をなさって。こんなに良い御日和なのに、そんな有様だから、人生が万年二軍暮らしなんですよ、ご主人様」
「辛辣すぎて言葉も出ないよ」
「出てるじゃありませんか。朝食の前に、御顔を洗って来て下さい、うらなり君みたいな顔してないで」
亀のくせに、いちいちトゲのある物言いだ。
仕方なしに立ち上がってトイレ、バスルーム兼用の洗面台に向かいながら、俺は腹を立てつつも女人と会話できた嬉しさで混乱していた。
落ち着け俺、あいつは果たして女人なのか? 一夜明けたら何故か大和撫子の風貌に変身していたけど、中身はへの字の口したミシシッピアカミミガメだろ? 台所でもお湯を使っているから、バスルームのお湯の出が悪い。チョ、と舌打ちしながらシンクにお湯を溜め、手で湯をすくっては顔にかける。
色々とおかしくないか、生き物が人間に恩返しをしに来る際、なんか美人になってる、ってとこまでは一緒だけど、あいつ、全っ然つつましくない、っていうか多分に狂気を孕んでいるじゃねぇか。
泡になって出て来る洗顔料で顔を洗い、タオルで拭いてから化粧水を顔に塗る。髪を濡らし、ドライヤーをかける。
ったく、どこの世界に飼い主に刃物を突きつけるペットがおるのだ。あっしまった、この世界だ。目の前にいるのだ。などと阿呆な疑問にドアホウな答えを見出してしまい、唖然としている合間にドライヤーの熱気で軽く火傷をした。
ションボリしてバスルームから出て来ると小町が折り畳み式座卓を組み立て、その上に小皿、椀などを並べていた。
「ああ、さっぱりしましたね」などと言って両手を顔の前で可愛く合わせているが、騙されんぞ、このミュータントタートルめ。
「あの、小町さぁ」
「冷蔵庫の野菜、悪くなりかけてたから全部スープに入れちゃいましたよ。コンソメ仕立てです。あと、オムレツとトーストです。ジャムとマーガリン、あ、マーマレード、しまってありましたけど、ジャムとどちらにいたしますか」
「え、あ、ジャムでお願いします」
「良かった」声を弾ませた。「私も、ジャムが食べたかったんです。気が合いますね、人間の私達」そう言って、冷蔵庫に向かった。「あ、お先に召し上がってくださって構いませんから」
おい、何だ、なんかシャキシャキ仕切られてしまっているんですけど。え、ご主人様って言う割には俺に主導権、無くないっすか?
無くないっすかって言うか無い、丸っきり無いよな?
「あ、あの、小町さぁ」
「え、ああ、この服ですか? すみません、私、気がついたら人間の姿になっていたのですけど、その時何も着てなかったので、夜の間に箪笥に入っていたご主人様のお洋服、お借りして、ここから左手に進んだパチンコ屋の向かいのコンビニエンスストアで私のお洋服、買おうと思ったんですけど、女性物が下着しか売っていなくて、すみません、上着、ご主人様の物をお借りしております」とツラツラ言いながらエプロンを脱ぎ、畳んで脇に置くと、座卓におれと向かい合うように座った。
ち、ちょっと待って。
エプロンを脱いだ時、おっぱいが少し揺れた。
違う、そこじゃなくて。
何、人間になった時は素っ裸だったの?
ちょう見たい。女の人のおっぱい。じゃなくって。
「手を合わせて下さい、ご主人様。はい、いただきます」
「え、ちょっと待って」手ぶりして制しようとする俺の手を摑むと、小首をかしげながら笑顔で、いや、目は全く笑っていない笑顔で「はい、イ、タ、ダ、キ、マー、ス」と英語教師の様にリピートアフターミー、強制復唱を迫ってくる。
「い、いただき、ます」
「はぁい、よく出来ました~」俺を制していない方の手で頭を撫でられた。何このアメとムチ。いや罰と鞭。
「あ、そうだ、お返ししますね、お財布」着ていたパーカーのポケットから俺の財布を取り出し、窺うような上目づかいでちらちらと見ながらこちらへ差し出した。
「え、これ、俺の財布」
「耳、大丈夫ですか? 言ったじゃないですか、下着を買いました、って」
「そうじゃなくって」
「まさか、私にノーパンノーブラで過ごせと仰るのですか」
「そうじゃなくって」
「分かりました、小町、ご主人様が望むなら仕方ありません」言うが早いかパーカーの裾に手をかけ引っ張り上げようとした。
「そうじゃねぇって!」
座卓に覆いかぶさるように手を伸ばして小町の手を制した。「いや、良いよ、そら下着つけてないと風邪ひくし。このオンボロアパート、家ん中いても寒いし。そうじゃなくって、財布、勝手に取らないでって事」
顔が近すぎるので身体を離した。あー、良い匂いしたわ。何で女の子って良い香りするかな。
「すみません、とてもよくお休みになっていらしたので」
「や、わかる、分かるよ、気を使ってくれてたんでしょ。けどね、それ、犯罪だからね?」コーヒーカップに注がれていたスープに口をつけ、少し余裕を取り戻した俺は続きを振る。「その時にさ、上に何か羽織って、俺の服なんか着るのヤだったらバスタオル巻いてても良いし、そんで起こしてくれれば良かったの。なのに、目が覚めたら朝になってて、なんか全部終わってるんだもん。途中報告みたいなの、一切なし。で、財布も取られて、いや盗まれてはいないけど取り上げられて。考えてごらんなさいな。怖いよー、ソレ」
思っていたよりずっとスープが上手かったので、気分が良くなりペラペラ喋っていたら、小町は淑やかに気落ちした様子で目を伏せ、食事にも手をつけず、うな垂れている。おお、よっしゃよっしゃ。
これだよこれ。これでこそ主人とペットであろう。ぬはは。
しかし、黙ってるとこいつ、本当美人だな。すっごい慇懃無礼な態度を取られた上に、元々がカメのコマチだからって俺、普通でいるけど、マズイな、これ、街中で普通に見かけて二人きりで話すことになったら俺、完全に舞いあがって踊り狂って虚しいピエロになる美しさだな。
外見上での歳の頃は二十一、二、くらい。
たおやかな、とか言えば良いのか、少し華奢な細い体躯、だけど出るとこはしっかり出っ張っている、つうか俺の服がサイズ合わなくてダボダボしているけれどもはっきり乳のありどころが分かるし、炊事をしていたからパーカーを手首の所まで捲りあげていて、そこに覗く二の腕の白さと肌のきめ細かさとか、はっきり言って何なんだこいつ。
何のストレスにもさらされずに育ったらこうなるのかよ、ツルツルでスベスベな肌。
顔には出来物一つなく、少し太めのくっきりとした眉毛の下に、長い睫毛と僅かに翠色を帯びた瞳。カメモード時の「Φ」形のオメメ、どこにいった。
唇は小さめで、(亀の時はへの字だろお前!)たぶん何も塗っていないだろうけど潤っていて、艶、というか、はっきし言ってエロいっす。あんまり見つめると危険。
目元は涼しげ、居住まいが涼しげで、寒々しさならば俺も負けていないが、こいつの涼しげは寒々しさとは全く違う方向で、爽やかさが全身から溢れている。
全身くまなく眺めていたが、アレ、これって思いっきりセクハラじゃん俺、って思ったけど、あれ? そう言えば、こいつは亀じゃん。
そこだよ。問題は今の小町の容姿とかじゃなくって、亀がなんで人になってるの? とかそう言う根源的なところじゃないっすか。
「あのー、小町ぃ」あ、いかん、女性と認識したら、また声が前のめりと言うか上ずっている。
「はい……ご主人様」
「いや、なんだ、ごめん、俺、そんな怒ったわけじゃないから気にしないで、いや、気にしないでも違うか、今後気をつけて下さいって話で。そうじゃなくて、小町、え、今って人間、の姿、だよね」
「はい、お気に召していただけましたか」
「気に召すも何もないけど、あの、えーと、どうやって」心を鎮めようとトーストに口をつけた。あ、しまった、何も塗ってない。素材の味。これを楽しめるようになったら俺はいっぱしの大人か。
「気がついたら、なんですよ」
トーストがサクッと音を立てた。外はカリっと、中はもちっと。「ぬな」
「昨夜、ご主人様、泣きごとをウダウダ言いながらお休みになってしまわれた後、私は寝てたのに起こしやがって使えねぇなぁこのダメ主人は、とか思ったんですよ。まぁ結局、私も寝ちゃったんですけど。そしたら、何か耳元でご主人様、延々とうなされてて、うっさいなー、これじゃあ私、寝れないじゃない、飼い主としてダメ、人としてダメ、この人、どうするのよホントに、とか目をつぶったまま思ってたら、何か寒いな、渇くな、って思って、あれ、渇くのは変じゃない? って目を開けたら、人間の姿になっていたんです。驚きましたよ、だって、ご主人様の横で、一糸まとわぬ姿で私、横になってて。寒かったのは甲羅が無くなっていたからだったんですね、驚きましたよ、本当に」
五年履いたパンツのゴムのごとく緩みまくった僕キャラ、もうその体裁やめてくれよ、こっちが居た堪れないよって叫びたくなる、そんなペットの告白を味のしないトーストを齧りながら聞いているうちに、あれ、こいつ、肝心な事は知らない、と思ったので、また婉曲な罵詈雑言を言われる前に話を遮り、率直に聞いた。
「つまり、小町自身も自分が人間になった理由みたいなことは、分からない、ってことかな」
「当たり前じゃないですか」
「胸を張って言うなよぉ」何だか目まいがしてきた。
「結局、胸ですか。如何にもオスってリアクションですね」
「そうじゃねぇって!」
「ご主人様ご存じのように、私、オスの身体など一切触れた事もない、初々しい生娘のままですので、初夜から飛ばし過ぎた倒錯行為などはご遠慮の方、願いたいのですが」
「無理だから! 何か全然無理だから! あと『御遠慮の方』とか言わないから!」
「ご主人様、恐縮ながら申し上げますと私、亀の時分からご主人様の生活は逐一、一切合財の一部始終、性癖も愚痴も裸体も、何もかも余すところなく、拝見していましたから、っていうか嫌でも視界に入っていましたので、承知しております。ですから、今更、何も恥ずかしがる事はないと思うのですが」
「何にも恐縮してないよ! 伸び伸び言い放題だよ!」
「しかし大切な事ですから。特にですね、器具を使った行為などは実際、女性側にリスクが高く、」
「もうやめて! 分かったから許して! もう何でもするから勘弁して!」
「何でも、ですか?」
煌めく小町の瞳が俺を鋭く射抜いた。やめて、その無駄な眼力。
「え、あの、できる範囲内で、前向きに検討と言うか」
「では、指輪を買っていただけますか」小町は手を顔の前でクルリと回し、ありもしない指輪を眼前に浮かべているようだった。「ご主人様と私、お揃いの記念指輪を」
「初手から重すぎる……あとご主人様ってやめて……俺のガラじゃないし、無理してる感がハンパじゃない……」
「それは、一生ついてこい、というオトコ前な宣言と捉えてよろしいですね」
「どの角度から捉えたら!?」
一人と一匹の共同生活は、こんな、少し奇妙な形で始まった。




