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カメの恩返し  作者: ばけのかわ
19/19

なりたかった大人になれなかった大人

 黒い波が、灰色の砂浜に寄せては帰って行く。

 原初の地球はガスに覆われた渇いた地表がただただ広がっていて、やがて雨が降り海ができ、そこから生命が発生したという。

 雨、すげぇな?!

 雨だけで、この広い大海原、人間は宇宙にまで行ったけど海の一番深いところは未だに行くことはできない、深い深い海を作ったのかよ。

 俺はついさっき、水族館で得た情報に自然の凄まじさを感じて慄いた。

 隣に腰かけた小町は生まれて初めて見る海に驚いていたものの、俺に驚いたそぶりを見せるのは何でだか知らんがそうとう嫌なようで、「あー、もう日焼けしちゃう」と、笑いながら文句を言っている。

 白のシャツに花柄のミニ、ストローハットという出で立ちだけれど俺は小町が出がけに延々とSPF30もある日焼け止めを塗っていたのを知っているからスルーしている。

「ねー、乱暴で無計画なご主人のせいで、一生消えないシミが出来ちゃいますよー」などと楽しそうに騒ぐので

「じゃあ帰ろっか」と言うと

「嘘です、嫌です帰りません」貝のように頑なに拒否された。

「そうだね。あと、ご主人じゃなくて恋人じゃない?」と言うと、ストローハットで顔を隠しながら

「外で何急に言ってるんですか、誰か聞いてたらどうするんですか」と小突いてきた。

 恥ずかしがるところはもっと他にいくらでもあるだろ、と思えて笑った。



 夏が、終わりそうで終わらない、日差しが強く暑い日だった。


 小町が再び人の姿になってから一か月が経とうとしていた。


 どうやって人の姿にもう一度なったのか。

 小町曰く「カエルが行き先を通せんぼをしていた」という。

 なんじゃそりゃ。

 カメに戻ってから、ずっと夢を見ていたのだ、という。


 彼女は夢の中では当たり前だが亀の姿をしており、四足でどこかへ歩いていた。

 何処から来てどこへ行くのかも判然としなかったが、彼女の胸の中は不思議な満足感でいっぱいだった。

 自分の役割は終わったのだ、自分は「役目」を果たしたのだ、という満足感で。

 そうして目の前に続く眩い白い道を進んでいた。のんびりと、この旅路の終わりを目指そうと歩き続けていたところ、道が二手に分かれていた。

 右の道は緩やかな下り坂で、左の道は凸凹と険しく、急な斜面が続いていたという。どちらに進んだらよいか、彼女には判断がつかなかったが、どうせなら楽な方がいい、と思い右の道に進もうとしたところ、自分が来た道と同じ道から巨大なカエルがやって来て、右の道に割り込んできた。

 カエルは、道の上を浮遊しており、空中を泳いでやってきた。しかし鳥のように優雅にはばたくということは無く、懸命に水をかいて泳いでいる、と表現した方が正確だった。そしてカエルは彼女が進もうとした道の真ん中に陣取るとゆっくりと着地して、道を塞いでしまった。そして大きな二つの眼で、しげしげと彼女を見つめた。

 何をするのですか、と彼女は横暴なカエルに反感を覚えて文句を言おうとしたが、なぜだか声が出なかった。代わりにカエルの方が話しかけてきた。

「お前さんが、小町さんか」

 カエルが呼んだその名が自分のものだと彼女が思い出すまでに、しばらくの間があった。

 カメの歩みは遅いのだ。

 カエルは両手の水かきで自分の頭をぺたぺたと触った。

「すまんが、こっちの道を来るには、お前さんはまだ若い。それに、お前さんを必要としている人がおる。しかし、その人に会うにはそっちの上り坂を登って行かねばならん。その人は坂の途中におるのだ」

 なんでそんな面倒な真似をするやつがいるのか、と彼女は思ったが、カエルが先に答えた。

「今は忘れてしまっておるが、本来はお前さんが望んだことなんじゃ。面倒な道を歩むその人の傍にいること、支えになること。思い出せるかの、その人は、お前さんをかつて救った人なんじゃ」

 彼女は自分の身体に触れた指先を思い出した。暖かく、優しい指先だった。

 彼女は坂を上ってみようと思った。苦しいかも知れないが、何とかなるのではないかとも思えた。一人ではダメかもしれない。しかし、一人と一匹ならば、もしかしたら何とかなるかも知れない。そう思った。

「行ってあげてくれるかい」

 問いかけるカエルに返事をする代わりに、彼女は坂を上り始めた。背後で、カエルはなおも言っていた。

「ありがとうよ、お若いの。いつか、未来で待っておるぞ。道中、どこかで楽しんでおくれ」と。

 夢から覚めた時、彼女は人の姿になっていた。目の前には、見覚えのある頼りなさげな背中が見えた。


 ……と言うのが、私の覚えている全てです、と小町は言った。そして、唖然と聞いていた俺に「まぁだいぶ脚色しましたけど」と付け加えた。

「え、嘘、どの辺に」

「ご想像にお任せいたします」

「なにそれ気になる。っていうか今の話に脚色する必要性が見えないんだけど」

「ふふ、ほら、もっと私のことを想像してくださいね」

「やめようか」

「ちょっと!」

「まあ、割とどうでもいいのは本音」

「た、タクミ様、な、なんでですか、貴方の愛しい小町の話ですよ」

「愛しい君が戻ってきてくれた。もう一度君と話すことができる。それ以上、望むことはあまりないよ」

「ばか」小町は顔を伏せて、もう一度言った。「ほんと、ばかなんだから」


 俺は心の中でカエサル爺さんに深く感謝していた。そして半面、申し訳なく思っていた。

 爺さん、色々頑張りすぎだよ、と言って肩でも揉んであげたかった。でも、それは今ではない、とも思った。

 いつかまた会えたら、必ず。

 そう思った。


 今、波打ち際の俺の隣に座っている小町。

 この人は、ドラえもんだな、と俺は思った。

 自分の大切な人に頑張れ、しっかり生きろと言うけれど、相手が本当に頑張りだしたら役目を終えてしまい、いつか必ず別れの時が来る、人造の命。

 

 小町が俺を救いに来たのだとしたら、やはりまた、いつか本当にカメに戻るだろう。

 俺にしっかりしろといって厳しくしていたのは、自分自身が不安だったからなんだと思う。

 小町。

 君を好きになって、君を求めて、君の事を考えて、俺にも、ようやく分かりかけてきた。


 焦りと不安と、そして僅かばかりの期待とが、君の中でいつも渦巻いていて、だけど君は顔に出そうとしない。

 俺もそうしようと思う。

 君と、こうしてふざけあってじゃれ合って笑いあえている時は、全然永遠じゃないって分かったから。僅かでも多く、過ごしたいから。

 いつになるかは分からない。明日かも知れないし、ずっと先かもしれない。

 いつか、完全にカメに戻った君を見て、それまでの俺の人生を呆然と振り返る時が来るのかもしれない。


「恋人様?」

 帽子の縁を摘まみながら、小町が俺の眼を覗き込んでくる。

「や、恋人『様』はいらんでしょ、様は」

「やだ、私なりの愛情表現を無下にされるのですか」悪戯っぽく、笑って。

「じゃあ、俺も君のこと、『コータン』って呼ぼうか」

「コータン?」おみくじの大凶を引き当てたような顔をするなよ。「センス、どん底ですね」

 そういって君は笑う。

 だからもういい。

 それでも、良いと思う。

 毎日を薄めたりなんかしないよ。出来る限り、懸命に生きよう。人生がカンバスだとしたら、地の色、全体の色はきっと悲しみの色だけど、君との日々って絵具で、一つでも多くの楽しさで塗って行こう。

 壊れそうな日々を、君と生きよう。

 いつか終わる、その日まで。



 小町は立ち上がって俺に手を貸して立たせた。それからお尻の砂を払って「まだ、お昼過ぎですね」と言った。

「そうだね、水族館、たっぷり見たつもりだけど、思ったより時間、短く済んじゃったなぁ」

「でも、楽しかったですよ。海が近い水族館って、良いですね」

「うん、俺も楽しかった。なんか、エビとか見てたらお腹すいたけど」

「即物的ですねータクミ様は」

「水生生物に言われたくないなー」

「で、今日、どうします、これから」俺の手を取ると、駅の方を指さした。「お次は、どこにエスコートして下さるのですか」

「うーん、一応、俺なりに考えはあるけど、君は? 何かある?」尋ねながら、俺たちは歩き出す。

「私は、まだちゃんとできてないですから、お祝いしたいです。タクミ様の就職のお祝い」

「っつっても派遣だけどね」

「あ、ネガティブモード入りましたね」

「ダメ?」

「ダメです。初デート、初デートですよ。私たちの」

「あの、俺、確かに君がもっかい来てくれた嬉しさで『初』強調したけど、前にオープンカフェ行ったじゃん。あれと、初詣、あれ初デートになるんでない」

 小町は素早くストローハットを取って俺の口に押しつけてきた。「窒息させますよ」

「刑罰、重めですね」

「記念を軽んじることは重罪です、タクミ様。初詣もテラスカフェに行ったのも、あれはあれ、これはこれです」

「あれはあれ、これはこれ」兵隊のように復唱した。

「そうです。って言うか、あれはデート以前、行事と必要事項だったじゃないですか」

「むぅ、言われてみればそうかも知れぬ」

「だから初デートです。もっとはしゃいでください、タクミ様」

「いや、俺、今朝から心臓バクバクでアバラ痛いですけど」

「本当に? ドキドキしてます? 嘘だったら脊髄にドロップキックですよ」

「高度な技使いますね。本当だよ。俺、今気合入れて無表情保ってるけど内心ニヤけが止まんない」

「それで、でき損ないのデスマスクみたいな顔なんですね」

「うん。って何が『うん』じゃ。誰がデスマスクじゃコラ」

「迫真の演技ですね。それも一人二役で」眩しい笑顔で、彼女は言う。

「バカにしてるでしょ」

「愛してますよ」

「俺も愛してるよ」

 繋いだ手をねじられた。

「痛い痛い痛い痛い! なに、間違ってるの、俺?」

「間違ってはいないです」小町はストローハットを深めにかぶり、表情を隠した。「間違ってはいないですけど、急に言わないでください。私の心拍数、返してください」

「返し方わかんないよ」

「利子は十分で一回です」

「しかも違法金利か」

「もしくは、あの」

 小町は、不意に立ち止まった。

 繋ぎ合った手に引かれて、俺も立ち止まる。

「何、どした」

「お祝い、したいんですけど」

「ありがたく受けますよ、派遣だけど」

「贈り物、したくて」

「嬉しいなぁ。え、あ、もしかして、買ったけど無くしちゃったパターンとか、ですか」

「いえ、まだ買っていません。その、差し上げたいのは」珍しく彼女が言いよどむ。

 俺は待つ。「うん」

「あの、指輪、お贈り、できたらな、って、その、思うんですけど」深緑色の瞳が、不安げに動いている。「め、迷惑、でしょうか」

 懐かしくて、俺は思わず笑ってしまう。そんなこと、あったっけなぁ、と。しかし、彼女が戸惑いの表情を浮かべたのを見て笑いを止める。

「ごめんごめん、急に笑ったりして。うんにゃ、何にもメーワクじゃない。けど、俺にも買わせてくれる?」

「え」

「指輪。君の。なんの役に立つってわけでもないけど、何かの証には、なるんじゃないかと思って」



 どうなるのか分からないままだし、思い描いていたことは何一つ叶わないかも知れない。

 それはそれで、良いって言いたい。

 どうにかやって行けると思う。

 どうにかやって行こうと思う。


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