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カメの恩返し  作者: ばけのかわ
18/19

おかえり。

  問二。更に前問の話題を全く笑ってもらえなかった時の登場人物の心境を表わせ。


 答えは「帰りたい」だが、現実では月光仮面のように風と共に去りゆくことなど出来ない。

 女の子が笑いながら俺の土手での失態をトシ子さんに話している最中、俺は顔面神経痛も止む無しというほど顔の筋肉を引きつらせていたが、トシ子さんは笑うどころか渋い顔、口の中で暴れる苦虫をゆっくりと噛み砕いて味わっているような渋い顔をしていた。


 最初はテンション高らかに語っていた女の子だが、自分の話がウケていないと分かると途端に覚めたようで、終いには飽きてしまい、「あーあ、疲れた。トシ子ちゃん、あたしお昼寝してくるね」と言い出した。

 俺を人生恥さらしタイムに突入させておいて、何たる好き勝手ガールズなんだ。君の気まぐれで俺の精神と脈拍数が無残な状況になっているというのに! この現代っ子が! と心の中でだけ罵詈雑言を疾風怒濤の勢いで吐いていたが、顔はのっぺりとした薄い笑顔で「今日は歩いたから仕方ないね」とか口に出している始末。俺の尊厳や如何に。

 しかしトシ子さんも合点がいったのか何なのか、「ほれ、ママが迎えに来るの今日も遅いから、二階でお昼寝しといで」と申し付けて、女の子は目を瞬かせながらスナックの奥へと消えていった。


 やばい、俺、トシ子さんとワンオンワンじゃん。

 激烈に逃げ出したいんだけど、隙を見せたら取られる。主に魂を。

 しかしこの面接とは別な気まずさ、どこかで味わったな、どこで味わったっけなと現実から逃避して上の空、思い出したのは小町が初めて人になった日の気まずさだった。


「どしたのタッ君」とトシ子さんに呼びかけられて慌てる。

「えっあっいや、何でもないです。どうしたって程の事は何にもないです」

「何かはあったんだろ。だって、泣きべそかいてるじゃない」

 うっそ、時間たっても消えないの? 泣きべそって。と焦って目を擦ると「ほれ、本当に泣いてたんじゃない」と苦笑いしている。

「ひでぇ、カマかけたんすか」

「いや、本当に少し腫れてるよ。あたしゃ、長い事水商売やってたからね、それなりに目は利くと思うよ。少なくともタッ君よか経験は上だ」

 上手くいなされた、と思いながらフト思い当たったのが、小町とカエサルが合わさったら、トシ子さんにピッタリくる。小町ほどの手酷さが無ければ、カエサル爺さんよりは無遠慮で、よく言えばお節介だ。

「そのスーツ姿、会社員ってんじゃないね。新卒ってよりは歳が行ってるし、中途採用にでも行ったか就職浪人か。そんなとこだろ。一人暮らしで心細いってんなら、ネットに晒すか、あたしみたいなオバサンに話せるんなら話してみたらどうだい。言葉にならないことを言葉にしようとするのは、それなりに役に立つこともあるよ」

「そういうもんですかね」

「袖振り合うも他生の縁っていうだろ」

「はぁ」

 生返事を出しながら、俺はこっそりトシ子さんの気質が嫌いじゃなかった。

 大声出されるのは好きじゃないけど、怒鳴るわけじゃないし、他人に説教をかますなんてよほど暇か、人と話慣れてるんだろうと思った。両方か。


 誰に聞いてもらえるわけでもない、誰にも信じてもらえない話を抱え込んでいる時は、確かに誰かに無性に話したくなる。誰でもいい、少しでもいい、信じられなくてもいい。そんな気分の時、酒を飲むのだろうがあいにく今は素面である。

 素面で言ったら本気でアブない奴に思われるところだが、向こうが話せ、というからには、そこまで拒否もされないだろう。

 せいぜいバナナで釘が打てる視線を浴びるくらいで。

 それくらいなら、今までの人生で何度でもあったわな。


 おずおずと片手を挙げながら「あの、全然信じられない話ですけど、してもいいですか」と聞いてみた。

「なんだい、自供なら交番でしな」

「さすがに違います」

「懺悔なら教会だよ」

「独白はここで良いですか」

「それなら良いさね。麦茶、飲むかい」

 

 すみません、と言いお代わりをもらいながら、俺は話してみた。

 小町が俺の家に来て、そして人の姿になって、一緒に暮らして、最後には好きになっていた経緯。カエサル爺さんの話を話せるだけ。話しながら気が付いたが、普通の人に二人(もしくは二匹)の事を話すのは、初めてだった。

 といっても、語ろうとしてみたら重要な個所のようなものが俺には分からなかったし(小町もカエサル爺さんも俺とは違う価値観で生きていたはずだから俺が勝手に推測するしかない)、情景はぼやけているし思い出の色は思い出すたびに違う色合いを見せるし、同じ話を繰り返してしまうことだってあったけれど、トシ子さんは「あ、女の子の前でこういう振る舞いを俺もできれば立派な年長者だったんだろう」という辛抱強さで付き合ってくれた。時々は補足するかのように質問もしてくれた。(で、彼女とは寝たんでしょ、と五回は聞かれた。もちろん全部ノーと答えたがトシ子さんは蛇のようにしつこかった)


 話しながら、今の俺は、二人がいない俺は、驚くほど孤独だと思った。そして自由だとも思った。だけど、自らの意思なしで与えられるその二つは、たぶん人間を底なしの不安にするだろうし、逆に意志をもって得た場合は、無限大の自由を感じることもできるだろう。そう思った。


 結局、話せる限りのことを全部話してしまったら、夏の夕暮れにまで近づいていた。

 幸い、二階で寝ているはずの女の子、タクミちゃんは一度も起きてこなかった。

 しかし、話し終えると楽になるどころか、奇妙な罪悪感と、心の滓というか「おり」のようなものが段々溜まっていくような感じがあった。もちろん幾分すっきりはした。けれど整理整頓と同じで、場所を変えただけでモノは減っていない、そんな奇妙な感覚だった。

 トシ子さんは、聞いている最中はほぼ絶え間なく相槌や返事、質問をくれたが話し終えると黙して語らず、岩のようになってしまった。

 筋肉質で坊主頭のトシ子さんが黙っていると、本当に岩のように見えた。辛抱強い岩だな、と。

 辛抱強い岩ってなんだ?

 俺もどうすることもできずに黙って手の指のしわを眺めたり時計を眺めたりしていた。時計の針が進んでいなかったら時間が止まっていると思うほど長い重い沈黙だった。


「ねえ、タッ君、見ず知らずのあたしがこんなことを言うのも変な話だけどさ。年寄りの冷や水だと思って聞いてくれるかい」

 永遠にも思えた沈黙の後、トシ子さんは口を開いた。判決を下される罪人のような気分でうなだれていた俺が目を上げると、トシ子さんの血色の良い唇は動いた。


「アンタ、あたしがその小町ちゃんだとしたら抱けるかい」

 冷や水かけられると思ったら溶岩かけられたよ!

 何言ってんの急に?!

 国立二次試験より難しい仮定問題きましたねー出した大学燃えるぞこれ。

「え、いや、あの、そっれはーどうっかなーっていうか、え、答えなきゃダメなんですかそれ」

「ダメ」沈黙の岩である。

「いやいやいやいやいや、って俺、物凄い高速回転の首ふり人形みたいになってますけど、何でですか、無茶ぶりにも程がありますよ」

「アンタ、さては童貞だね」


 預言者か!

 しかも当たってる! 性質が悪い!


「言っとくけどね、本番行為なんてね、本当は男が女にサーヴィスするものだからね」

「凄い聞きたくない話されてる気がしますけど、それと俺がトシ子さんを小町だと思えるか否かの接点が暗黒星雲覗いてるくらい見えないですよ」

「だから、小町ちゃんが亀だとして、アンタより年を取るのが早かったとしたら、次に会う時はアンタそのまま、小町ちゃんがあたしみたいになってるかも知れないだろに」

「えっだっまっあっ、そぉ、れはそうかも知れない……ですね……」

 いかん。小町の見た目がどうであれ、もう俺は小町が好きだけど、トシ子さんっぽい姿は想定していない。再会の涙の味が少ししょっぱいかも知れない。

「だから、アンタ、仮にだけど、あたしみたいなのにサーヴィスできるのかって話よ。言っとくけどね、付き合うまでは良いけど、結婚なんかしたらしなきゃなんないからね。残業代が一切つかない残業を一生しなきゃなんないのよ。しかも相手は段々ばばあになっていく保証付き」

「若者の夢と希望をゴシゴシ削り取って行かないでくださいよ」

「はん。若い時はね、はっきりした夢も希望も無くてもまだ動けるもんなの。年取るとキツイよ、身体も心も動かなくなってくるんだから。今のうちに鍛えておきな」

「追撃戦がこれまたキツイ……」

「で、どーなのアンタ」トシ子さんは挑発的な顔をして、ぐいっとカウンターに身を乗り出してきた。蛇に睨まれた蛙というよりメドゥーサに睨まれた蛙の心境。助けてカエサル爺さん。「できんだろうね。でないと簡単に好きだの愛だの言わせないよ」

 小町の顔が、優しくて厳しくて面倒なかまってちゃんが、俺の頭の中で霧消していく。

「なに、まさか、できないの? そんなものなの、アンタの言う『好き』は。それじゃ単なる性欲じゃない。いるわ、いるわ、好き好き好き好きって、本当に好きな相手には何も言えないのに、どーでもいい相手には簡単に好きって言えちゃう小心者が」

「ちっが」

 蔑みの色を瞳に浮かべたトシ子さんが、周りの壁が、遠心力でどんどんと離れていくような感覚があった。

「違うの? アンタ、結局は相手に好きだって言い寄られて初めて自分も好きになれるフラフラ男でしょ。酷いね、愛されたがりなのに相手の愛情を信じないんだから」

「それは」

 どんどん遠くなる。そのうち遠くなっているのはトシ子さんや周りではなく、俺がどんどん一人で遠ざかっていくようだった。

「自分がつまらないから、自分に自信がないから。誰よりも自分を好いてくれる相手にしか心を開けない。今がそうだろうに、無理無理だよそのスーツ姿」


 遠く、遠くまで行って宇宙の果て、そこにいるのは俺と、中身が小町のトシ子さん。

 あ、いけるわ。宇宙の叡智の瞬きを見たよ。

 首を左右に振ったらゴキゴキ鳴った。

「わーった! 分かりましたよ、抱けますよ、つか抱けるに決まってるでしょそんなん」

「おろ、言ったね」

「言わせたのトシ子さんでしょうが! いや、現実的には俺はトシ子さんを抱くわけじゃないけど、抱きますよ、相手が小町なら、坊主頭のおばさんだろうと幾らだって!」何だか勢いに任せて席を立っていた。「俺は愛されたかったですよ、あいつと出会った最初の日は。そりゃそうですよ、今と同じで物凄い弱ってましたもん。弱りますよ、いけませんか、人間ですもん、独りで立ってるのがシンドい時だってありますよ。でも俺は教わったんです、嫌っちゅー程あいつが教えてくれましたよ、俺はそれなりに愛されていたんだって。気づかなかっただけで。相手の気持ちを変えるのは難しいしできやしないかも知れないけど、自分の気持ちは変えようがある。だから俺は愛したいんです。俺に恩を返したいって思って人間にまでなってくれた相手を愛さないでどうすんだってんです。アイラビューですよ、その為なら外見なんざどーだっていいです、坊主上等おばさん上等ですよ、抱きましょう、いーやむしろ抱かせてくださいっかー!」と息を切らして聞くに堪えないことを叫び喚き散らした。

 理性が切れた、というより繋がって、脳みそと身体が一致して見事に歯車が回っている感覚、それに任せて一機怒涛に捲くし立てながら俺が思ったのは、世界中にいる、俺みたいに男をこじらせた面倒な童貞が一斉に立ち上がって、独り暮らしのお婆ちゃんを愛するようになったら性犯罪とかロリコンとか減るんじゃないか、などと言うことで、やばい、俺、今の感覚だと出家すらできる。煩悩が溜まりに溜まり切ったら最後に残ったのは無償の愛かも知れない。あらゆるものに感謝できる今ならたぶん空も飛べるし深海にも潜れる。

 『羅生門』で老婆の言い訳を聞く手前の下人はきっとこんな感覚。どんな奴でも善人に転ぶ瞬間ってあるんだなぁなんて妙に達観していた。


「だったら平気でしょ」

 出し抜けにトシ子さんが言った。海賊船の船長フェイスから、今は挑発の色は消えて穏やかな坊主頭、観音様のような穏やかな顔になっていた。

「なんか、タッ君キレちゃったけど、キレながら言ったにしては、ちょっといいこと言ったよアンタ」

「えっそうですか」

「まさか適当に言った? だとしたら迫真の演技だけど」

「いやー今のは演技ないです、演技でできたら色々上手くできてる、就職もとっくにできてる気がしますし」

「じゃあ良いじゃないの。愛したいです、なんて良いよ、グッドよグッド」歯を見せながら笑って親指を立てた。「愛されたい愛されたいっていうマグロ気質から脱皮できてたんじゃない、あたしに言われるまでもなく、本当は」

「あ、一度はマグロ気質なんですか俺」

「そりゃ、最初からグイグイ行けるタイプじゃないでしょアンタ」トシ子さんは、まるっきり断言した。「でも、だから後悔してなさい」

「厳しいお告げですね」

「なはは、せいぜいね、うんと後悔しな」トシ子ママは笑みを浮かべながら酷い事を続ける。「小町ちゃんが万が一、帰って来た時にしっかり愛せるように、今は後悔してな」


 ビッグママは手厳しいお告げを残すと、「さて、そろそろ開店準備を始めなきゃなんない」と言うとギラリと光る鋭利な刃物を取り出した。

 え、トシ子さん山姥だったんすか。これまでのは罠で、結局は俺をぶつ切りにして今夜の鍋ですか。日本妖怪話ですか。さっきのグラサンとかタクミちゃんとかも勢ぞろいで宴でも開くんですか。俺、スジばっかで食べるところ少ないと思いますけど。

 などと思うと走馬灯が頭の中でクルクルと回るが、小町の笑顔、太もも、おっぱい、常識を疑うマズい飯、ディスプレイの虜になってた髪を結わえた後ろ姿、洗い物をしてくれている時のエプロンを着た後姿、Φの形をした目、いつも不機嫌に見えるへの字口、初めて拾った時の小さな子亀のシルエット。

 ってあれ、これだと俺の走馬灯というか小町のプロモーションビデオじゃねぇか。嫌だねぇしょっぱいねぇと思っているとトシ子さんはカウンター奥の巨大な冷凍庫からこれまた巨大な氷塊を取り出し、アイスピックでガインガイン削ってグラスに入れる氷を作り始めた。凄まじい速度で氷塊がちょうどいい大きさに砕かれていく。

 鋭利な刃物、ってアイスピックじゃん。

 またしても俺が大間抜けな妄想をたくましくしていると、トシ子さんは「何だい油売ってるなら手伝っておくれよ」と口を曲げて言ってきた。

「あっあっすみません、えっと何すれば」と背広を脱ぎかけると

「冗談だよ。済まないけど、帰ってくれるかい。忙しくなっちまうからね。タクミを届けてくれたこと、本当に感謝してるよ。あんがとね」と目線は手元のピックに注ぎながら、でも丁寧に、はっきりと言ってくれた。

「とんでもないです。いや、ホント、なんか、説教されて礼を言うのっておかしいかも知れないけど、ホント、ある意味目が覚めました。俺こそありがとうございました」

「良いさね、気にしないで。かえって申し訳ないね、商売柄、聞いてばっかでこっちは口を挟めないストレスを、初対面のタッ君をはけ口にしちまって」あっ、ちょっとその本音は聞かない方がよかった。「本当ならね、せっかくだから晩御飯でもどうだいって言いたいけど、アンタは帰った方がいい。カメに戻っても小町ちゃんは小町ちゃんなんだろ。ホレ、これで帰りに何か材料を買って、家でご飯作りな」と、外見の鬼婆度合からは想像もつかない人懐っこい笑顔をして懐の巾着袋から五千円札を取り出した。

「いや受け取れませんってそんなお金。しかも大金」

「良いから取っときな」と俺の手に押し込む。やはりトシ子さんは俺の手がもげちゃうかと思うほどの怪力だった。「別にあげるつもりじゃないよ。返しとくれ。就職が決まって、石油王にでもなったら返しに来な」

「生まれ変わりでもしないとできないじゃないですか」

「そういうこと。石油王になるよりは簡単だろ、就職なんて。良いかい」ピタ、とアイスピックを動かすのをやめ、それまで砕いた氷をガラガラとカウンターの手元にある小さな冷凍庫に落として、トシ子さんは俺を真っ直ぐ見つめた。

 夜の酒場で見つめあう二人。

 いかん、恋が芽生えてしまうと危惧したが杞憂であった。

「これまで幾つも落とされて、これからもまた、幾つも採用試験で落とされたって気になんかしちゃいけないよ。そう言うのは、アンタが足りないんでも、相手が悪いんでもない。たまたま、巡り合わせが悪かっただけさね。タッ君がさっき切った啖呵、ありゃあなかなかのモンだったよ。足と頭さえ動かし続けられれば、どこかで拾ってくれるところはある。そういう風に社会はできてるもんだからね」

 熱っぽく語ったトシ子さんは、語り終えるや正気に戻ったようで「やだよ歳をとると説教臭くなって」と今更も今更な後悔を口にした。出会って五分で説教しといて何ですか今更。

 若干微妙な心持にはなったが、ここまで他人に熱心に接してくれる人など、俺の二十数年間の人生でもほとんど見たことがない。

 そう思った途端、身体が宙に浮くような感覚があった。

 面接を受けに行くときはいつも怖くて、落とされることが、自分が否定されるのが嫌で家を出るのが億劫で、いつもビクビクしていたけれど、会社だって、何も俺を落としたくて落としているわけじゃないんだ、と思った。

 それは、トシ子さんが俺を見たら説教せずにはいられなかったのとある意味では同じで、やりたくてやったんじゃなく、仕事で仕方なく落としたのだと思い当たった。

 人間は、出来ることなら、人に嫌われたくない。

 誰からも好かれる人間にはなれないけれど、少なくとも嫌われたいとは思わないだろう。

 俺は俺が落ちて落ち込んでいたけど、俺を落とした人もやっぱりどこかで落ち込んだりしていたんじゃないだろうか。出来ることなら俺と顔を合わせたくない状況を、好き好んでやる人はそんなにいないだろう。

 今、トシ子さんが言ってくれたことを俺なりに解釈したら、そんな風になる。

 何だか嬉しくて、少し笑ってしまった。

「なんだい、急に笑い出して」

「すみません、俺、相手が言う言葉を素直に聞けたの久々で、何かそれがすっごい嬉しくて」

「タッ君、大丈夫かい、頭痛いなら氷で冷やそうか」

 いや今、俺わりと良い方向の言葉言いましたよね?

「大丈夫です、いや、大丈夫に見えないかもなんですけど、俺の中で何だか勝手に納得できてるんで、大丈夫です」


 トシ子さんは割と本気で心配そうな顔をして俺にお店の飴やら乾き物やらを幾つかビニール袋に入れて持たせてくれた。緊張する時は飴を舐めるんだよ、と繰り返し言いながら、メモ用紙に駅までの地図を描いて渡してくれた。

 携帯で地図見れるし、や、俺って信用無いんだなぁ、と心で苦笑いしながら口では礼を言い、タクミちゃんによろしくです、と言って店を出た。

 帰りの電車は家路を急ぐ人で混み合っていた。誰しもが疲れた顔をしていた。幸せそうな顔は一人もいなかった。


 幾つか電車を乗り継いで、最寄り駅で降りると、駅に近いスーパーマーケットで安かったマイタケのパックとごぼうを買った。タケノコと昆布を買って、家にある人参とで、炊き込みご飯を作ろう。


「愛したい、か」スーパーマーケットから徒歩の帰り道、夕飯の匂い、家族のだんらんで忙しく外には注意を向けない住宅街で一人、空を見上げて、トシ子さんの前で思わず言った言葉をもう一度、ポツリと口に出してみた。

 口にしてみたらなんと愚かしく、行動するにはなんと難しいことか。


「ンナーゴ」

 古い街灯の弱い明かりだけの暗がりから、低い鳴き声が聞こえた。「ンナーゴ」もう一度、今度は俺のすぐ近く、アスファルトの道路から聞こえた。

「ねこ?」

「ふにぃ」

 鳴き声は、俺の足元にすり寄ってきた。

 猫だった。たぶん野良猫で、首輪はしてないし跡も無い。頭を俺のすねにこすりつけて、足の間を八の字を描くように動いて回っている。

「え、あれ、なんだい君は」訝しく思いつつも、猫は俺の買った食料品が目当てでもないようで、ふふん、俺だって懐かれて悪い気はしない。身をかがめて野良猫の身体に触れると、つやつやと潤って柔らかい毛並みの感触が心地よかった。

「うわ、温かいな、君。すごい健康体。分けて欲しいくらいだ」

 しかし、誰だ、猫の知り合いは俺、いないんだけど。

 撫でているうちに、思い当たる事があった。「まさか、君は」

 場所としては、そんなに離れていない。が、野良猫というのは決まった縄張りから出ていかないものなのだろうか。思い当たる節が良いことほど、認めようとしない癖が抜けない。

 やっぱり、出ていかないんじゃないか? 昔読んだ『ルドルフとイッパイアッテナ』という猫が主人公の絵本でも、猫は自分から縄張りを動こうとはしなかった。それに、ほかに思い当たる節も無い。

「君、正月に出会った、あの病気の子猫か?」


 返事がある筈のない間抜けな問いをした、と俺が思った瞬間、猫は撫でていた俺の手を潜り抜けて、サッとコンクリートの塀に登った。

「ナーゴ!」

「だよね!? そうだよね?!」

 勝手に合点すると、思わず手で頭を押さえた。ビニール袋を落としてしまった。猫は塀を越え、どこかへ消えた。再び、夜の住宅街に俺は一人きりになった。それでも、どうしようにもないくらい、笑いがこみ上げてくる。

 生きていてくれたのか。そうだよね。

 誰の手を借りることも無く、独りきりで。

 生き物って、凄いな。俺の手なんか、借りる必要もなかったんだろう。

 だのに、義理堅いね、わざわざ挨拶にでも来てくれたのかい。

 こんなに嬉しいことはないよ。

 見上げた空は、見事な曇天だったが、俺の心は勝手に晴れていた。


 やっぱり、と思った。

 愛したいんだ。どんなにみっともなくても。報われることなくとも。

 愚かな言葉だと感じるならば、いつか、それを誇れるようになりたい。


 家の扉を開けた。

 ひどく懐かしい気持ちがした。電灯のスイッチを入れる。

 水槽の底、水の中でミドリガメは、電球の明かりに反応して目を開けた。


「ただいま、小町」


 まず手を洗い、電気釜にお米を二合入れて水を少なめに入れて少しつける。

 それから背広を脱いでハンガーにかけ、ズボンはスプレーをして半分に畳んでから同様に吊るす。パジャマのズボンを履いて、上だけワイシャツの珍妙スタイルにエプロンをつけて、ご飯の支度をする。

 戸棚から乾燥昆布を出して電気釜に放り込む。味付けにお酒と醤油を足して、今度は冷蔵庫から鳥のささ身と、レンジスチーマーで火を通した刻み人参を取り出して、釜の中に入れる。ささ身は使い切らないで、少し残して細切れに刻む。

 更に買ってきたごぼうを丁寧に洗って、ささがきに切って、これも窯に入れる。最後にまいたけをほぐして入れて、炊飯スイッチを入れた。


 ご飯が炊けるまでの間、さっき細切れにしたささ身を持ってコマチに食べさせた。冷蔵庫からビールを取り出して、コマチが手と口で器用にささ身をちぎって食べるところを眺めながら飲んだ。

 カメは噛む力は強いけれど、飲み込む力は強くないし大きなものは飲み込めない。だから食べるのには結構、時間がかかる。


 俺が、小町やカエサル爺さんがいなくなって、自棄になっていたのは、二人に答えを求めていたからだ。俺が俺を信じられる答え、自信を人に求めていたんだ。何というバルバロイ、ちんぷんかんぷんであろうか。

 自分に自信がないから、その不安を相手に埋めて欲しくて、だけどもう、欲しい相手から欲しい返事が返ってこないって事実を認められなくて投げやりになっていた。

 何をたわけていたのだ、俺は。

 何という甘ちゃん、甘党が過ぎてコーヒー飲めない奴か。ナンセンス。

 自信は、自分を信じるって書くじゃないか。自分の誇りは、思いは、自分一人で作るしかないじゃないか。自分の身体を痛めて、自分の心を苦しめて、人から見たら、どんなにみっともないものであっても、関係ない。自分の自信は自分だけのものだ。誰かに褒めたり認めてもらう必要なんてない。今なら、そう思う。


 コマチはささ身を食べ終え、俺の方に突進しようとアクリル板に鼻をぐいぐい押しつけ、爪で引っ掻いた。


 なあ、小町。気づいていたかい。

 君は俺を好きだ、愛している、抱いてくれ、ってさんざん言ったけど、その度に俺が、どんだけ気合入れて我慢してたかって事を。

 コマチは突進をやめ、水上に顔だけ出して呼吸し、辺りを伺っている。

 君の笑顔が見たいがために、意識が遠のくほどマズい飯を美味い美味いって食べてたことを。

 コマチは目をパチクリさせ、もう一度首を引っ込めた。

 君の顔を、唇を、細い指先を、白い二の腕を見ただけで、触れたくて頭ン中グチャグチャになってた事を。

「顔が好きなのですか」

 声が聞こえた気がして、はっと顔を上げた。

 もちろん部屋には一人と一匹だけで、静まり返っている。はは、と笑う。

「顔も、好きだよ。もちろん」

 

 君の遠慮のなさが俺を楽にしてくれた。

 君と同じ部屋で寝ていて俺は幸せだったよ。

 面倒だとか居心地が悪いとか、心で悪態をついたつもりでも、本音は幸せだった。君は俺がいつか離れて行くんじゃないかって思ってたけど、君みたいな難儀な女の子を置いて一人、どこかに行けるわけがないだろ。

 コマチは前足の爪をアクリル板に引っ掻けて、懸命に後ろ脚だけで立っている。

 ピー、と電気釜が音を立て、俺はゆっくりと立ち上がる。

 君の辛辣な言葉が、冷たい目が、暴力的な態度が、どれほど俺を暖めて満たしてくれたか、君にはわからないだろう。

 ボチャ。

 コマチが倒れたのだろう、背後から水の跳ねる音とゴトゴトという何かを動かす音が聞こえる。

 少し蒸らすためには、まだ釜を開けてはダメだ。しゃもじとお椀だけ、戸棚から取り出した。一人暮らしだけど、俺のお椀の横にはもう一つ、俺のより小さめの、ごく薄い水色に青い花の模様が描かれたお椀がある。

 小町が、自分のために買ってきたものだ。

 言えば、俺が買ってきたのに、あいつは、自分の事は自分でしていた。

「俺、君の気持ちに応えられてたかな」

「ぜんっぜんダメでしたよ」

 また、声が聞こえた気がした。参ったな、疲れてるわ、と思いながら振り返ると、一糸まとわぬ姿の小町が箪笥を引っ掻きまわしていた。


「はぁ?! はぁ!?」

「あっちょ危ないです」

 俺の視線に気づいた小町が慌てて、俺の視界に白い裸体が入って、混乱した俺はお椀を落としてしまい、割れた破片が盛大に散らかった。

「あっ! もう、危ないって言ったのに!」

「バカ裸足だろ!」

 こちらに駆け寄ろうとした小町を止めようとして、俺はつんのめってしまう。

 すると物理学的に俺は小町を押し倒し。

 物理学的に俺は小町にのしかかる姿勢になってしまい。

 物理学的に小町の裸に触れた。


「や、優しくして、下さいね……」

「違います」顔を赤らめて目を逸らしている変態アカミミガメを、そのままそっと抱きしめた。

「おかえり」

「ただいま戻りました」


 視界がぼやけて、今の気持ちを表そうとしたら奇跡って言葉でもまだ足りない。


「炊き込みご飯ですか。良い匂いがしますね」

「うん。一緒に、食べよう」

「嬉しい。そしたら私、オカズですね」

「とりあえず服を着てください!」


 起き上がると、お椀を掃除する為にキッチン側に顔を向け、反対方向にエプロンを投げて渡した。

「あら、裸エプロン要求ですか。タクミ様ってば、成長されましたね」

「歪んで受け取るにも程があるわ! 早く着替えて!」

 何やら文句を言いながら着替えた変態アカミミガメに「ていうか、どうやって、また人間の姿に」と尋ねた。

「続きはベッドでしっぽりと、がよろしいかと」

「何もよろしくない。順序を端折らないでください」


 とりあえず、今度はちゃんと、デートしようとは思った。

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