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カメの恩返し  作者: ばけのかわ
14/19

それが全て、何もない

 家に帰ると、「おかえりなさいませ」と心配げに声をかけてきた小町への挨拶もそこそこに、テーブルの上に履歴書を広げた。帰り道、コンビニで買ってきたやつだ。


「ど、どうなされたんですか、タクミ様?」

 後ろから小町が、おずおずと声をかけてくる。俺が脱ぎ捨てたコートをハンガーにかけようと拾った姿勢のまま、表情をこわばらせてこちらを凝視している。

 そりゃ、そうだよな。

 構わずにボールペンを走らせる。

 今まで目を逸らしてきた俺の経歴、オープンリーチ。

 構うものか。カメにパンツ盗まれた俺に、今更恐れるものがあろうか、いや反語。

「小町、ここさ、趣味の欄、どうすっかな。やっぱ無難に読書かな。読書って、ほぼ漫画だけど」

「急に何をおっしゃられているんですか、あ、あの、ば、晩御飯は」小町の声には困惑と怯えが混じっている。

「あ、ごめん、書き終わったらいただくよ。あ、しまった写真。無いわ。しっかりしたやつ、撮らないとだな。うわ、つか俺、髪型やばいな」

「そうじゃないです、タクミ様」

「学歴なー。や、もう、これはホント、誤魔化しようがないな。大学、辞めなきゃよかった」

「やめてください」

 悲鳴にも聞こえる声を上げた。小町のそんな声を聞いたのは、初めてだった。テーブルを挟んで真向いの位置に座ると、ボールペンを持った俺の手を握った。汗で濡れた手だった。

「一体全体、どうされたのですか、なぜ、そんな急に」

「急、でもないんだよ。前にさ、小町、言ってくれたじゃん。逃げるな、って。逃げるなって事は、闘うってことかな、と俺は勝手に解釈して」

「だから、なんですか」小町の声は、震えている。「私のせい、なんですか」

「それも少しはあるけど、たぶん違う」

「だったら、どうして……」小町は、血相を変えて俺の手を取った。あれ、変温動物、手、暖かいっすね。「今のままじゃ、ダメなんですか、私と一緒にいる、今のままでいいじゃないですか。働く? 家にいたくないんですか? お金が欲しいのですか? なら、私、またやりますよ、パソコンを使って」

「違うんだって。俺、今の俺が嫌いでさ。でも、俺、困ったことに、好きな相手の前では格好つけたくて。だから、嫌いなとこ、一個ずつでも潰しておきたいって、なんかすごい思って」

「好きな、相手?」

 あ。

 口に出しちゃった。

 心に秘めて不言実行、就職活動を終わらせた後、高らかに小町に言うつもりだったのに、慣れない自己分析などを勢いでやったもんだから、あっけなく言葉に出してしまった。


 ぁぁあほかぁぁぁぁ俺はぁぁぁ。

 知ってた。いや知ってたけど……馬鹿。お馬鹿。

 あぁもうスタンドバイお馬鹿。線路を歩く四人のお馬鹿。


「え、え、あの、ちょ、ちょっと、な、何を、何が、どうされたんですか、急に」

 小町が、今までに見たことがないほど狼狽えだした。

 いかん、物凄い簡単に物凄いミスをした。

 なんか大切な手順とか色々すっ飛ばして、物凄い軽い流れ、食卓で「醤油とってくれる?」くらいのトーンで「好き」とか言ってしもうた。あかん。

 就職活動しよう、なんて行動を起こしたのは、結局のところ俺は俺に自信がないからで、何で無いんだ? なんて自問自答をしなくても既に答えは出ていて、それは社会的立場と収入が不安定だからであった。

 人と同じ、量産型人生なんてつまらない、俺は俺にしかできない生き方をしたい、などと思っていても、他人を頼れない状況で収入がない、と言うのはつまるところ、手ごたえのある形で積み重ねるものがないから明日に希望が持てない、どころか俺が河口で実感した、留まるところを知らない時の流れというやつは、黙っていたら俺からドンドンと未来を削り取っていく。

 毎日を無駄に過ごしていると薄々感じているから尚の事、時間が流れることに焦りを感じる。

 小町が人になってから三か月以上で、俺の周囲は凄く変わった。小杉天外の『魔風恋風』の世界から、映画『遊星よりの物体X』くらいに。

 幸い、人は亡くなってないけど。

 では、俺自身は変わったか?


 何にも変わっていない。変われていない。

 それはもちろん、俺が自分の体たらくを、やれ社会が不安定だ、経済界の先行きが不透明だ、などと己の手の届かない世界のせいにして責任転嫁、自分が傷つく自己鍛錬の一切合切を怠って来たからである。

 変に歳だけ取ってしまうと、努力の報いにも個人差があることに気づいてしまう。

 格差があって当たり前、運が悪いのは前提だと頭で分かっていても、虚しくて面倒臭くて、動けなくなってしまうのだ。

 あの、聖なる夜の俺のように。


 だが、斯様な己の醜態から目を逸らしまくって、なおかつ何故か自分を好きだとハイスペック美人が言って来たら謎の自信に満たされていたところを、その美人さん、更にはかつての親友、おまけに余命僅かのカエルにまで「いや、貴方はダメダメ人間、ダメの中のダメ、キングオブダメ太郎ですよ」などと宣告されたら、流石にやってられるかコノヤロ、と、よく分からぬやる気が出た。

 やる気が出た。

 やってられねぇ、とか冗談じゃねぇや、とか、諸々の罪悪感、「最終的に困ったら俺のことを好きな小町に頼れば、きっとなんとかしてくれるだろう」という、ぶったるみきった自分への罪悪感が積もりすぎて、むしろ「何もやらない方が面倒だ」という、ある意味の逃避が、曲がり曲がって所謂「やる気」に転じた。

 問題なのは、逃避だったが故に起こした諸々の行動が結構乱雑になってしまい、今まで言ったらお終いだと思って小町に面と向かっては延々と言わなかった「好きだ」という言葉を、アッサリザックリ言ってしまった点で、何、この脈絡のなさ。

 俺、B型? いや血液型、Aだけど。

 などと心の中で慌ててるんだか冷静なんだか分からん心境で、何はなくとも後悔していると、小町は小町で、アカミミガメよろしく湯気が出そうなほど顔を赤らめて、縋り付いていた手を放し身体ごとゆらゆらと後ろに下がり、小さく首を振って狼狽え、上目でこちらを見ては、俺が困った表情を浮かべたのを見てとってから、更に慌てふためき「えっ、あっ、そ、だ、大丈夫です、あの、聞かなかったことにしますから、私」と言って縮こまった。

 甲羅があったら入りたい、とは彼女の事か。


「いやいやいやいや、大丈夫ってなにさ大丈夫って。だいたい君、今まで俺には散々突っ込んできて、イザってなったら何を思いっきり逃げようとしてんの」ついに耳まで高熱原体と化して、するすると逃げようとするアカミミガメをがっしと掴んで引き寄せた。

 しかし俺が目を合わせようとすると小町はフイと顔をそむけた。乱れた髪の下、白い耳元が見える。

 え、なに可愛い。え? なに、その首筋。崩れた正座から見える太ももがエロい。は? ふざけているのかねチミは。

 無駄に可愛く見えて腹が立った。

 いいやもう。毒食らわば皿まで。


「だ、ダメですよタクミ様、こ、こういうの、ムードとか、流れとか」小鼻を膨らませ、熱っぽい吐息を吐きながら、なおも小町は逃げ腰。

 先日、俺のパンツ被ってた奴が、ぬわぁにを今更。

「役所の放送くらい同じことを繰り返すけど、散々人をけしかけておいて何言ってんのよ君は」

 人生で一回もヤンキーだった事などないので、スゴんだら声が裏返った。ええい、知ったことか。

 片手で小町の細い体を、もう片手で小さな顔をこちらに向けさせる。

「やだ、やめて、やめてください、こういうの、夜景が綺麗なバーとかで聞きたい」なおも白く細い両手を俺の胸に押し当てて逃れようとする。

「寝言は冬眠して言え!」歯を食いしばって両目を見開いた小町を、真正面から見据えた。

「小町のことが大切なの! なんか、散々すげぇ酷い言葉とか浴びせられたし変態だし、色々ついていけないトコあるけど、もうそれも含めて好きなんだよ!」おっと、勢いに任せて何だか言わなくていいことまで言った気がする。「ていうか、明日君がいなかったらなんか凄い泣くし」



 無音。

 口を滑らせた時にはうお、不整脈か? というほど激しく血液を送っていた心臓が、イザ言葉に出した後は、いやに静かになった。

 燃料切れか?

 汗で濡れたシャツから摩訶不思議な悪寒がする。オリーブオイルで滝行でもした気分だ。

 静まり返った六畳一間、久方ぶりに冷蔵庫のモーター音を耳にした。


 気まずさと空気の重さに耐えられず「ごめん」と土下座したくなった。が、先に口を開いたのは小町だった。

「あのぉ、覚悟を決めて言ったセリフが、今の、ですか」

「え、あ、はい、一応」

「タクミ様の脳の構造を疑いたくなりました。ニューロン、滅んでないですか」

「生体構造から否定かぁ」

 ため息が盛大に口から出る。魂もかなり混じっていそうだ。情けなさ過ぎて涙は枯れ果てた。

「まぁ、良いですけど」

「え、良いの?」

「女の打算をナメてもらっては困ります」

「その威張られ方は斬新だ」


 ふふ、と楽し気な笑い声を上げた小町だが、不意に表情を曇らせ、小声で何事かつぶやいた。

「え、何、どした」

「んとにへい」

 聞き返しても意味不明だ。なに、その始まりと終わりが欠けた言葉は。「ぷりーず、わんすあげいん」

「本当に、平気なんですか」今度ははっきりと口を動かした。うつむいていた顔は、今は俺を見据えるように上向いている。

「平気って、な、何が」

「だって、実際、私、カメですよ? どうしてこうなったのかわからない、いつまでこうなのかもわからない、そんなのを好きになっちゃって、良いんですか、タクミ様は」

「良いも悪いも」俺は振りほどくように首を振った。「好き嫌いに、そういうの、関係ないでしょ」

「良くないですよ。後で後悔しますって。私、タクミ様には幸せになってもらいたいだけで。私の戯言なんか、一炊の夢みたいに受け流していれば良かったんですよ。良いですよ、胸くらい、いくらでも触らせてあげますよ、そこまで無理されなくても。『いっちょ揉んでく?』ぐらいのお手軽感覚で。だから、私は愛人くらいの距離感でいいんですよ、だって、私は、ぁふ」

 頬っぺたをつねって口を閉じさせた。言葉を無理やり区切られた小町は「ふみゅ」とガスが抜けていくような音を出して黙った。

 こいつ、変なところだけ俺に似てる。困ると理屈を並べるところとか。

「あのね、小町。君は、俺のペットなんだよ」

「へひゃ」頬をつままれたまま、小町は目を丸くした。

「君は、ミシシッピアカミミガメで、俺は、その飼い主だ。そうだろ」

「ふ、ふぁい」

「でも、俺たちは、家族なんだよ」

「え? あ、あの、はい、子ども、二人は欲しいです」

「それは置いといて今は」

 再び頬っぺたをつねった。小町は「ふぃぎぃ」と踏みつぶされたカエルのような声を上げて黙った。

「俺は飼い主なんだから、君を幸せにするのが俺の義務だし、君がやらかしたなんやかんや、全部の責任は俺がとるんだよ」

「責任て、せ、切腹ですか」

「思考飛びすぎだから。死なんわ」本気で狼狽えているトータスを止めようと、諭すようにゆっくり喋る。「いや、普通にさ、死なないってば。生きるよ、君と一緒に。てか、死にたい願望ある奴が履歴書なんて書かないでしょ。ねえ、小町。君は、俺の大切な家族だ。今の君が幻だって、構わない。好きだっていうのは、それが、全て。他には、もう何もないよ」


 今の俺みたいな、ゆるふわなんちゃって野郎は生きてゆかれぬこの地球。暴力や矛盾、あと、なんか脱税とか売春とか虐待とか、あったら困るものがありとあらゆる種類、ごった返してこの世界を作ってる。

 なべて世は事もなし、なんて事は一切なしの仁義無用で情け無用のハードボイルドワンダーランドだ。

 だけど、そんな世界でも、二人でいれば、何とかやっていけるかもしれない。いや、やって行きたい。


 小町は何か、俺の言葉をゆっくりと飲み込んでいるようだったが、やおら、身体を俺の手の中に滑り込ませると、背中に両手を回してきた。「今日のタクミ様、素敵です。惚れ直しました」

「そっか。どこに惚れる要素あったんだか分からんけど、良かった」彼女の背中をそっと撫でた。「でも、今言ったこととかも、俺のためなんだ、基本。ごめん、我儘で」

「とんでもないです。嬉しすぎて、破水しそうです」

「ずいぶん手順を端折ったね。処女受胎とか聖母マリアか」

「女体には神秘が沢山あるんですよ、童貞タクミ様」

「真実に嘘を入り交ぜて話すのやめよう」

「私に口を閉じさせるには『そんな事言う口は黙らせてやるぜ……俺のキスでな!』などの方法があります」

「ギネス記録よりハードル高いわ」

「ふふ、良かった、いつもの童貞紳士、タクミ様クオリティですね」このカメ、主人を高めたいのか貶めたいのか……。「でも、この流れだと、最終的には私は亀の姿に戻って、タクミ様が一人で私たちの小さな子どもを育てますよね」

「流れってなんだよ。あと、何、そのハイパーバースト誇大妄想。君の中で俺、どんだけがっつき屋なの」

「やだ、タクミ様、日本昔話とかご覧になったこと、あるでしょう。私、人間になってから、人間と人外がいかに結ばれたかという類の話、洗いざらい勉強しましたよ」

「かっとんだ妄想を具体的に持ってくのやめよう?」

「無理ですよ。だって、妄想がエンジンになって私を稼働させてるんですから」

「わかるけど言葉にしたらアウト。ヘッドスライディングアウト」

「だいたい、美人に妄想されているって段階で、タクミ様は凄まじい幸せ者だってこと、分かってます?」

「好きな相手に妄想されている幸せ者だってのは認めるけど、一個、訂正。俺、小町の見た目がトロールみたいだって、結局は好きになってたよ」

「え」

「あのね、美人でもない、魔法が使えたりもしない、変態丸出しの君が好きなの。わりと、俺は」


 急に反応が途絶えたので、抱き寄せた体を離すと、小町は顔を伏せて小さく震えていた。「ど、どした、あ、水か、持ってこようか」

 彼女は慌てる俺を手で制し、顔を上げざま深呼吸した。「タクミ様、なんかキモイです」

「え、明確な罵声」

「あ、や、ち、違います、う、嬉しくて、その」

「相手を喜ばせたらキモがられるのか。残酷な世界だ」

「だ、だって、おかしいですよ、急に。今まで、逃げ回ってのたうち回って悶えていたのに、本当、今日、いきなり男らしくなって……」と、笑顔を表情筋で無理やりかき消しながら言っているものだから、でき損ないの般若みたいな顔で言った。が、不意に眉間にしわを寄せ、声のトーンを落としていった。

「タクミ様、まさか、私に手を出せないからって、イカガわしいお店にでも行かれたのですか」言うや、袖を掴んできた。耳元にかじりつくように顔を寄せてくる。「正直におっしゃってください。でないと、引っこ抜きます」

「何を、どうやって、とは言わないけど、行ってないし行くわけがない。どしてそういう方向に想像力働かすかね」

「だって、私としては昨日までのだらしないタクミ様の方が好みですから」

「難儀な女だな君も……」面倒な童貞とか言いながら、自分も、じゃないか。同族嫌悪か。

 仕方ない。

 幸い、顔は近い。

「小町」

「はい」深緑の瞳が、僅かに潤んでいる。

 これ、やったら黙るんでしょ?


 顔をずらして、唇を重ねた。


 

 ふわ、あったかい。

 

 ……あぁぁぁぁぁぁあ、やっちまった。

 やっちまったぞオイ。


 痛烈に恥ずかしさと現実感が背筋から発生して顔を離した。

 すると小町は小町で、目を見開き、右手で唇を覆った姿で硬直している。なんすか、その反応。


「あの、今の、かなり無罪証明のつもりなんだけど」

 モゴモゴと俺が言い訳をかましていると、しばし焦点を失っていた小町は素早く平静を取り戻し、言った。

「六十点です」

「なんの評価だ!」

 しかも低い!

「位置がずれてる、してる最中も目が半開きだった」なんだ、その減点方式。しかも、目が半開きって知ってるってことは、君も目を開けてたってことじゃん。「思わせぶりな前振りもない。減点ばっかりです」

「減点法だと人生は狭まるよ」

「ところが」あ、無視ですか。「今なら特別ボーナスタイム、もう一度すると、百二十点に繰り上がります」

「六十点って俺にしたらハイスコアだからノーサンキューっす」

「うるさい、アバラ骨、折りますよ」

「すごい脅迫じゃん」

 しかし威勢がいいのは口だけで、小町は目線を切って、妙にそわそわしている。「今だけ、今だけですからね、ほら、は、早くしないとダメですから」

 変に早口でそう言うと、黒髪の乙女は首をこちらに伸ばし、唇をすぼめた。

 

 え。

 いやいやいやいやいや、なんか、そんな万全の体勢を取られると、むしろし辛い。

 あとすぼめた唇がアホっぽい。見てると笑いがこみ上げてくる。

 引いている俺をそっちのけで、ミュータントタートルは空中でチュッチュと音を立て始めた。

 言いたくないけど、壮絶にお馬鹿な子だよ。


「ライダー、チョップ」そう言っておでこをチョコンと小突いた。


 刹那、小町の瞳に羅刹の輝きが見えた。

 次の瞬間、腰の入ったアッパーが俺のみぞおちに決まり、首筋に手刀、頬につねりの連撃が入るや、速やかに肩を掴まれ押し倒された。

 抑え込み、一本。


「乙女の純情をからかった罪の重さ、その身を持って味わっていただけましたか?」俺の首を掴みながら、小町が眩いほどの笑顔で尋ねてくる。

「お、お釣りがく、くるほどに」俺はみぞおちへの一撃で呼吸困難に陥りながら、何とか声を絞り出した。

 なんか、あの、平常運転だわ、これが。

 謝ろうとしたら、小町はその体勢のまま、キスをしてきた。

 ゴチ、とオデコがぶつかった。

 おい、よくも自分がド下手なのに人に「キスが下手」とか言いやがったなミュータント処女タートル。

 もうロマンの欠片もない。キスというより救命だ。

 呼吸困難で、まな板の上の鯉よろしく口をパクパクしてた俺も申し訳ないけれど。

 しかし、女の子って軽いんだなぁ。思ってたより。俺に全体重を乗せているカメの頭、背中など撫でながら思った。それに、全身くまなく、めっちゃ柔らかい。何だこれ。触れたいし触れられたい。あとおっぱいの感触が反則的に素晴らしい。しかし今、それを意識すると股間のマイサンが「お、出番?」と起動する。

 寝てろバカ。


「これで、百二十点?」顔を離し、ゆっくりと抱き寄せ、耳元で囁く格好で、聞いた。

「はい……ぁ」抱きしめられている両腕に、力が加わってくる。

「なんか、後ろ髪引かれ放題だけど、今日は俺、履歴書書いてから寝るから、先に寝ててよ」

「あの、お傍に、いてはいけませんか」

「いてはいけません、なんてことないけど、いつまでかかるか分かんないし、あとごめん、割と集中しないといけないんだ」

 答えながら、小町を抱きかかえつつ身体を起こした。「一回、離れたら気が緩みそうで」って、いや、もう手は離れてるがな。自分で言っておきながら、そう思った。けれども今やらないと、本当にやり始めることはない気がした。だから、テーブルに広げた履歴書に再び向かい合った。

 すると小町は名残惜しそうに体を離し、しゅる、と立ち上がると座布団の置いてある窓際に行くと一つ座布団を手に取り胸に抱えて、テーブルのところまで戻ってきた。

「では、せめて横で見守らせてください。頑張りだした、愛しい私のご主人様を」

「あー……」ボールペンを手に取り、こめかみを、インクが出ていないほうの先っちょで小突いた。思わず浮かびそうになる笑みを消すのに必死で、耳が赤くなってないといいんだけど。「了解」

「嬉しい。あ、そうしたら、欄が一つ埋まるごとに私が一枚ずつ服を脱いでいくご褒美を差し上げますね」

「慎重かつ大胆に検討を重ねた結果、本案件を今回は見送らせていただきます」

「いけず」そう言って、俺のわきに座り、肩に頭を軽くもたせ掛けてきた。

「うっさい」


 ボールペンが紙の上を走る音だけが、深夜の六畳一間を埋め尽くした。



 目が覚めた時、空は既に白くなっていた。

 どうやら十枚ほど履歴書を書き終えたところで力尽き、机に突っ伏して眠りに落ちていたらしい。掛け布団が肩にかけてあった。

 履歴書というのは何で書き間違えたら破棄、一から書き直さなくてはならないんだろう。修正液や二本線で消した履歴書はダメで、真っさら誤字なし、できれば字が綺麗な物を求める会社が「地球に優しいコンプライアンス」とか言うのはチャンチャラおかしいぜ。そんなんだから書き直してるうちに夜が明けてしまったのだ。

 窓のほうに目をやると、少し空いた窓の下に小さな座布団を敷かれて、そこに座った小町が瞼を擦りながらこちらを見ていた。目が合うと、疲れたように笑った。彼女の髪が、薄いレースのカーテンと同じように風になびいている。

「え、うわ、なに、起きてたの、小町」

「タクミ様が一生懸命なのに、私だけ寝ちゃうの、いけない気がして」

「そんなことないよ。つか俺、寝てたし」

「ふふ、タクミ様の寝顔、理由もなく苦悶に歪んでいて、見てるの面白かったですよ」

「普通は愛しい寝顔とか言うだろ……」頭をかくと欠伸が出た。「あー、寝たっていうか気を失った感じだなぁ。全然、寝た気がしない」

「慣れないことに急に挑むからそうなるんですよ。寝ることまで下手とか、本当、面倒な童貞ですよね」

「面倒な童貞を好きになった、面倒なカメに言われてもな」

「黙りやがれ、でございます、タクミ様」カメ時代を思わせる、への字に口を結んだ。

「まぁ、とりあえず今日は夜勤だし、もう一回寝るわ。うわ、身体、がちがち」

「お布団、敷きます? それともまた膝枕、してさしあげましょうか?」

 そう言って、座布団の上で座りなおした。シミ一つない、白い太ももが目に入る。

「えー、良いんすか。じゃあひざ、借りちゃいたい」

「どうぞ」

 耳と頬に、小町の太もものふにゅっとした柔らかさを感じる。首を傾けて、顔を覗き込んだ。

「高さ、大丈夫ですか」

「あ、うん、丁度いい」

 俺の顔に当たらないよう、彼女は耳元の髪をそっとすくって肩の後ろに流した。

「小町」

「はい」

「あの、その」特に、言いたいことがあったわけではなかった。

「なんですか、おっぱいでも欲しいのですか? 幼児退行プレイを」

「それはない」

「無理しちゃって」

「してねー。なんか、あれだよ」言葉を探すように急かすように、人差し指で床を何度か叩いた。だから、あれだって。

「あの、ありがとう。君がいなかったら、俺は、もう絶対ダメになってた」眠いからか、記憶が曖昧に感じられる。「あの、クリスマスの夜」つい、昨日のことみたいだ。「君は、俺を救ってくれたんだ」

 小町は僅かに目を見開いた。が、すぐに緩やかな笑顔になって、輪郭をなぞるように俺の頭を撫でながら、言った。

「どういたしまして。でも、タクミ様が先ですよ」

「え、あ、そうなの? なにゆえ」

「私の生まれてから最初の思い出は、タクミ様が私をそっと拾い上げてくださった、指の暖かさですから」そっと、俺の手に指を重ねた。「覚えて、いますか」少し不安げに、言った。

「忘れるわけ、ないだろ」小町の手を握り返して、言った。「そうだね、あの日。そうか、確か、こんなふうに暖かい日だった」

「はい。あの時、私は救われたんです。タクミ様が、この手で救ってくださったんです。だから、本当のお礼は、私から言わないと、なんです」

 小町は繋ぎ合った手を、両手で包み込んだ。

「ありがとうございました」

「どういたしまして」


 彼女の背後ではカーテンがなびいている。光の膜みたいだ、と思った。

 心が凪いでいる。透明な気持ち。ずっとずっと前に忘れていた感覚だ。

 

 舞台の幕が下りるように、俺は眠った。



 目が覚めた時、俺は夕陽差す窓辺の床に一人、寝転がっていた。

「あれ……小町」

 部屋に人の気配を感じず、あれ、買い物にでも行ったのか、と寝ぼけた俺の目の前に、両手両足を甲羅に縮めたカメがいた。

 もう、カーテンは風に揺れていなかった。


「……こま、ち?」


 亀は、大儀そうに首を伸ばし、そっと眼を開けた。


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