何十年後には解ける魔法
鳥獣戯画。
カメと暮らし、カエルに説教かまされる今の俺は、さながら前衛的アート、現代に蘇った鳥獣戯画そのものではなかろうか。
問題なのは、誰も欲しくないってところなんだけど。
商品化のお話、お待ちしております。
本物の鳥獣戯画と唯一共通している、胡坐をかいた人間大のカエルことカエサルは、滔々と語った。
「主人の心は、毎日、自責の念で張りつめ、揺れ、瀬戸際で懸命に踏みとどまろうとしておった」端にやにが溜まった目で、揺らめく炎を見つめながらカエサルは言った。一時も同じ形でいない焔の揺れに、何かを見出しているようだった。
「じゃがしかし、そんな状況の中、ワシが人になってしまった。可愛がっていたカエルが、こんなオイボレに身をやつしてしまった」カエサルの顔は、険しいというより悲痛に歪んだ。それから、無理に口を曲げて笑い声を出そうとした。
「爺さん」知らず、声を上げていた。堪らなかった。
「良いんじゃ、言わせてくれ」カエサルは疲労に満ちた緩慢な動きで首を振った。
「気の毒に、主人は腰を抜かし、失禁までしてしもうた。無理もない。見慣れた扁平なカエルが、いきなり、目の前でこんなジジイになったのじゃから。それも、全裸で。前衛芸術にも程があるわ」
確かに、その図は、悲しすぎるダビデ像だ。
「ワシは、何とか説明しようと、言葉を探した。しかし、びっこをひき、涙を流して声にならない悲鳴を上げて後ずさりした主人を見て、やめた。踵を返し、箪笥から衣類をわずかに失敬し、別れの言葉もそこそこに、家を出た。そうして、流れ流れて、ここに棲みついた。河なだけに、の」
笑えないにも程がある。
飛行機が上昇していく轟音が、空から鳴っているのか、俺の頭から鳴っているのか、分からなくなってきた。
「後に、こっそりとマンションを尋ねてみた。ここにこうして棲んでおっても、いつまでも主人のことが気がかりで仕方なかったからの。じゃが、もう、マンションのあの部屋には誰も住んどらん。何とか行き先をたどってみたが、精神が理性の淵から転げ落ちてしまった主人は今も、病院に入ったっきりという話だけじゃ」
神は、死んだ。
そんな言葉を簡単に口にできるやつは、よほど能天気なやつか、自分の明日に何の不安もない、地肌を外気にさらさないような生き方ができているやつだ。
自分の力がどうしようにもなく及ばない事態が、何とか、好転とは言わない、せめて破滅だけは避けてほしいと願う時、自分より上の存在にすがろうとしてしまうことは、気軽に蔑んではいけないと思った。
なにしろ、自分が悲痛、悲壮の只中にいる、などという事は極力、避けようとする、その事から眼をそむけようとするのが人間ではないか。
悲痛、悲惨な状態にあるなら、状況打開の為に行動を起こさなくてはならないのだが、悲痛な状況の人を「痛いよねー」と言って笑う風潮というか文化みたいな物がある気がする。
シンドい人を嘲る事によって自分はシンドくない、虚栄の中の安心を得たいというのが人間ではなかろうか。
まぁ、そんな安心、長続きしないけど。
というか、俺の人生だって『罪と罰』でかつては役人でもあったマルメラードフが飲んだくれた果てに馬車に轢かれて、狭い自宅の中で惨めに息を引き取る間際のシーンと同じくらい切迫してるんじゃないかと思うんだが、時々幸せを感じたりしてしまうので、これでも良いんじゃないかと思えてしまって、より危うい気がする。
カメと一つ屋根の下、広さだけは方丈庵な六畳一間で日々の生活を共にし、同世代の男にお洒落な居酒屋でアーダコーダ言われ、現在は多摩川の河川敷でカエルと焚火にあたっている俺のここ数カ月は、ほとんど現代によみがえった鳥獣戯画、コンクリートむき出しの建造物の中に苔生した岩を組み上げて滝を作りだし、横にライト内臓の灯篭でも設置してライトアップしてしまう和洋折衷モダンアートみたいで、くはっ、シュールすぎて理解できない。
いや、実は深奥に宇宙の真理を描いた高等芸術である。などと言い出す輩はいないのかしら。
いて欲しいんですけど。良いほうに誤解してくれる人が。
いないね。妄想は、妄想の中の自分が嘘をついたら、絶対に実現しないから。
諸々のぶったるんだ俺の戯言は無視して世界は廻る。人生は回される。七転八倒ローリング。
サークル・オブ・ライフ。
もしくはフンコロガシ。
回る物の例えだったら万華鏡とか言うべきなんだろう。遠のくアート。近づく日常。
「お前さんは、優しいの」
妄想エンジンを吹かしている俺に、カエサルの視線が、ふいに突き刺さった。
「へ」たき火か、虚空の果てへとむけていた視線を、爺さんのほうに上げた。焔の熱気の向こうで、しわくちゃで髭だらけの、クマというか暗黒物質みたいな爺さんが、肉まんみたいに柔らかい視線をこちらに向けていた。
「小町さんは美人さんだと、お前さんは言った。しかし、顔の造作がどうであれ、体のつくりがどうであれ、自分が飼っていた生き物であったら、お前さんは等しく接することができておったと思う」
「え、いや、それはどう、かな」
「お前さん、言い訳する時、面白い顔になるの」
「ほっとけよ」
「のほほ」カエサルは口元を緩めた。「きっと、そうじゃ。ワシでよければ、保証しよう。お前さんが、小町さんを大切な相手だと思うのは、一緒に暮らしてきたという間柄じゃ。大切にして差し上げてほしい。人の姿になったとはいえ、ワシらは弱い。人が人足りうる期間、蓄積された記憶が、本当の人間より圧倒的に少ない。不安なんじゃ。できる限り、傍にいてやっておくれ。この、世界で最も一緒にいたい相手を狂わせてしまった、愚かな老いぼれに免じて、どうか」
「こ、困るよ爺さん」俺は、尻込みした。「そんな、俺、そんな切なる願いを叶えられる存在じゃないし、ていうかフリーターだし、なんか一生懸命生きてないし」などとヘドモドに口ごもりながら、ふとした考えが思いついた。
「そうだ、爺さん、ねえ、俺んとこに来てよ」言葉にしてみたら、我ながら名案だと思った。「なんか、こんなところ、いや、爺さんが一生懸命作った棲み処をこんなところって俺、何様だって話だけど、やっぱ、人家に住んでほしいし。小町も、同じ境遇の相手がいるってわかったら、ほら、同じ両生類同士分かり合えるっていうか、楽しいだろうし、まぁ、収入は少ないけど、いや、小町が稼いでくれた小金、あれ、使いどころ困ったけど、こういう時なら使えるっていうか。ね、爺さ」
カエサルの節くれだった手が、早口でまくし立てる俺を、緩やかだが確固たる意志の力を秘めて制した。
「ありがとうよ、お若いの。分かっとる、伝わっておるよ、お前さんが、憐みから発した同情心、自分のほうが相手より優位だからと提案しているのではない、世の中の不平等に対して少しでも歯向かおうと、言ってくれているのは」穏やかに、諭すように言葉を紡いでいく。「ま、言い方は小物っぽいけどのう。ホラー映画で真っ先に殺されるお調子者そっくりじゃ」
地味にキツいこと言うね。
「しかしの、ワシにとっての主人は、今は心を砕いてしまったあの人だけなんじゃ。小町さんには、お前さんしかおらんのだ。それを奪うことは、絶対にまかりならん。それに」カエサルの声は、僅かに震えていた。「ワシは、忘れたくないんじゃ。たとえ、ワシの人としての姿を忌み嫌われたとしても、ワシを救ってくれ、そして慈しんでくれた主人のことを。アフリカツメガエルの寿命は、もう長くない。ワシはもうじき来る、最後の時を、主人の思い出を浮かべながら迎えたい」
言葉を失った俺をしり目に、「おお、そうじゃ」とカエサルは目に輝きを取り戻した。「小町さんは、亀だといったの。彼女の寿命は長い。人と、ほぼ変わらぬ寿命を持って居る」と言った。
しばらくの間、焚火を見ていた。
頭の中で矢継ぎ早に浮かぶ答えは、同じくらい早く帰ってくる反論に否定された。すでに詰んだ将棋を、何度も検討しなおしているみたいに。
炎と同じで、絶え間なく形を変え、思い通りには決してならない。
「一つ、聞きたいことがあるんすけど」ややもあって、薪をくべるカエサルに、視線は向けずに尋ねた。
「ほえほえ」
「俺が、この先も小町の傍を離れなかったら、あいつを大切にしたら、爺さんのこと、少しでも、欠片でも、大切にしたことになるのかな」
「それは傲慢っちゅうもんじゃ」火の加減を調節しながら、カエサルは即答した。「一人の人間ができることは、そんなに多くはない。しかし、だからこそお前さんには全力を尽くしてほしいと、ワシは願う。何しろ、あるんじゃから。できることが」
「できん、のかな、無職童貞に」苦笑しながら、言った。
「なんじゃお前さん、人生でそこまで負けて、まだ負け続けたいんか。ヘソで茶ぁ沸くわ」
「カエルにヘソ無いだろ……」呻きながら、体育座りで組んだ手に頭を被せ、軽く振った。「俺だって何も、負けたくてやってるわけじゃない。これ以上は、譲りたくない」
「なら、気張るしかなかろう」そう言ったカエサルの眼には、ショボくれた青年が映っていた。
「その子の手を、離さんでやってくれるかの。ワシはお前さんの愛を受け取ることはできんが、親切は受け取ることができる。そして、愛よりも親切のほうが残りやすい」カエサルの顔には、痛みを堪えるようなしわが刻まれていた。
「カート・ヴォネガットか」
「うむ。主人が好きじゃった。それに、ワシ、今死んだら『人になって死んだ史上初のカエル』ということになるじゃろ。歴史に名が残るかも知れん。数百年後の図鑑には、絵入りのワシの姿が。おぉ、胸が熱いのぅ」
「ポジティヴの方向が間違ってるよ」
「未来で待っとるぞ」
「今を生きてよ」
「ほっほ。その言葉、そのままお返しするぞい」
「ぐはっ」
心に9999のダメージ!!
「お前さんの心を、小町さんに注いでやっておくれ。それが、ワシにとって最良の親切じゃ」カエサルは穏やかにしかし厳格に言った。「彼女を離すな。どんなにみっともなくても、情けなくても、ヘタレでも、お前さんは、飼い主なのだから」
言い過ぎだし。つか、俺、もうどこに行ってもヘタレなのね。
分かりましたよ。
分かってたけど分からないふり、してたけど、ああもう激烈に分かった。
ハイタッチより強く、手を叩いてしっかと握った。カエサルの暖かさが、手のひらの感覚器官を通してしみ込んでくるような気がした。
「命がけで離さねぇし」
カメとカエルに、退路は焼かれた。
逃げるな、と。
そうだ、愛している、だなんて言葉は、たかだか数十年後には雲散霧消する、ちっぽけな魔法の言葉じゃないか。
使って、見せるさ。
そのために、やらなきゃならない事が結構、あるけど。




