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カメの恩返し  作者: ばけのかわ
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蛙の穴に入らばオタマジャクシを得ず

 人間について、知っていること。

 住処が此処だ、ということだけ。

 どうしてそうなのか、これからどうなるのか?


 数限りなくある世界に、神はあまねく知られているのに、この神を、我々は自分だけのものと考えている。

 神が、人を作ったと。

 神は、広大な果てしない宇宙を見渡し、世界を一つの宇宙にまとめ上げ、どのような仕組みで動くのかを考え、太陽には、様々な惑星を巡らせ、星には種々の生物を住まわせ、我々の地球を作ったわけを示している。


 って言ってみたけど、おい、本当かよ。



 ― 神よ

  変えることができるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

  変えることのできないものについては、それを受け容れるだけの冷静さを与えたまえ。

  そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ ―



 アメリカの神学者、ラインホルド・ニーバーは、そう祈った。



 願わくば、俺に元が亀の女の子と、元がカエルの老爺の話を受け入れるだけの冷静さを与えてくれ……神よ!!


「わたしぃ、前世がコウモリだからぁ、云々」などとヌカす輩は、同じ時間を何度も繰り返す物語が量産化された現代、タイムパトロール隊が「冗談じゃねぇよ全員ブタ箱入りだぁテヤンデェ」と叫びたくなる物語が跳梁跋扈している現代では、別段珍しいことではない。

 そんな輩は適当に聞き流すか「あ、そうすか、どもども」などとテキトーな相槌を打っておけば良い。話が長引くこと請け合いだけど。

 然しながら、当方が置かれた境遇が、誰に何といっても信じてもらえないような境遇、飼っていた亀が女人と化して家に居ついている、というふざけきった事を見抜かれた上に、己も同じ境遇だ、元は両生類だ、などと得体の知れぬ老爺に言われたら、これは、何というか、「自分だけの特別な事態」を侵害された様な気分だし、俺の中の野次馬根性、いや、現代には良い言葉があった、ジャーナリスト魂をくすぐってくるので、話を聞いてみないわけにはいかない。


 というか、万が一、いや億が一、明日、小町が亀に戻っていたら困る。

 小町はいきなり、何の前触れもなく、きっかけもなく人間の姿になっていた。

 そう、初めて膝枕をして貰ったとき、有頂天になって忘れてしまったこと、「小町は何時また亀に戻るか分からない」という事が、俺にとって一番、怖いことだった。

 小町を好きになるのが、怖かった。

 人を好きになる時は、どうしたって傷つくとしても。


 だから、文字通り路頭に迷っていたらいきなり声をかけてきた怪しげ老爺の話を聞いた時、俺は「なにいうてんねん」と頭では思いながらも腹の中では、ここは一丁、老爺の話をスパカーン、と聞いて、体験談を聞いて学び取ってこましたろ、と思い、「詳しく話を聞きたいので、明日、何処かで話をさせていただけないか」と尋ねると、存外、気の置けぬ体で彼が根城にしている地所を教えてくれた。

 名前は、と尋ねると「カエサル」と返答があった。


 お前もか、ブルータス。

 っていうか、おい、暗黒物質みたいなオッさんが「カエサル」って。

 『ガリア戦記』を著した英雄も浮かばれない。

 カエルだからカエサル?

 いやいやいやいやいや。

 あっ、特に由来もなく小野小町の名前をカッパいで来たのは、俺もか。

 なんか、すいません。昔の偉人方。

 いや、すみません、だな、この場合。


 などと、俺が老爺の話に驚愕している間に「お前さん、そろそろお帰りになりなされ。小町さんとやらも、さぞかし心配しておるよ」と、至極まともな事を言って街に消えていった。

 カエルと言うよりカメレオンと言った塩梅で街に溶け、或いは消えてしまった。


 一人になるや、頭が冷えたのか、俺は自分の今後、いや、俺と小町の今後に僅かな道しるべが見えた事にようやっと安堵を覚え、これまでの気まずさも忘れて裏道から逃亡、地下鉄東西線の入り口が見えたので地下道に潜りこみ、さっさと家に帰った。


 何だか無性に懐かしい扉を開けると、小町が俺のブリーフを被って身悶えていた。

 男物の下着を顔にギュウと押しつけ、クンクンしているのだ。

 心の底、ハラワタの底から見たくない景色が眼前にあった。


「あら、おかえりなさいませ」男物のパンツを頭にかぶった若い乙女は、動揺を微塵も見せずに言った。せめて恥じらい、うろたえろ、ヘンタイアカミミガメ。

「随分遅かったですね? 心配したのですよ? もう」腰に手を当てて、何やら説教じみた口調で。「遅くなるのは仕方のない事でも、きちんと連絡してください、今度から」

 とりあえずパンツ返して下さい。

 世の中にブリーフ被った乙女と会話した事のある剛の者が幾人いようか、いや反語。

「あの、あの、えっと、た、ただいま?」

 あっしまった。

 何を普通の答えをしているのだ俺は。そんな答えでは別段気にしてないみたいになってしまうじゃないか。心底気の置ける相手であっても、そいつが自分の下着をクンクンしていたらドッペルゲンガー改めドッピキゲンガーだよ。

 などと心の中で煩悶しているうちに小町はヘンタイマスクもといブリーフを頭から取ると、座卓に並べてあったラップされた食器をレンジに入れて温め直そうとしている。おい。


「あの、小町、それ、俺のパンツ」

「あ、はい、拝借しました。ご飯、食べますよね?」

 何をしれっと。とりあえず頷いて、玄関からあがり、手洗い、うがいをすると、小町から差し出されたコップの水を飲み干した。もう酔ってはいないけど、水でも飲まないと落ち着けない。

 いや、飲んだけど落ち着かない。


「えーっと、あの、ど、どういう経緯で?」

「ゴダールの映画でもあるように、最上のエロティシズムは相手への疑惑から産まれいずる事もあるのですよ、タクミ様」

「生まれない、全然生まれない、ていうか怖い」

「お言葉ですが、女性の使用済み下着が毎日簡単確実に入手できる環境に居るくせに何の反応もされない方がおかしいのでは?」

 チン。


 レンジが鳴り、唖然呆然として突っ立っている俺を尻目に小町はそそくさと皿やお椀を座卓に並べている。

 いや、おい、ちょっと待て。

「え、あの、悪いの……俺?!」

「あの、申し上げにくい事ですが、インポテンツでしたらキチンと病院に」

「普通に反応するから! むしろ女性に弱いから俺!」

「あら、だって以前は雑誌の付録についていた女性物の下着をオカ」

「ごめんごめんごめんごめん」強制終了。「無条件降伏、俺の負け」よろよろと座卓に腰を降ろした。

「謝るのは早いのに、交際に関しては往生際悪く否定なさるのはなぜですか?」

「往生したら大切な何かが終わると思うの、俺」

「守るものも無いくせに守ろうとなさる。誠に無駄なナイトですね」

 風評被害も良いトコだ。

 罵詈雑言を吐きながら小町が皿、お椀のラップを取ると、焼き魚の脂と煮込みの匂いが暖かく匂って来た。コースケと入った居酒屋では食べずに飲んでいたので、猛烈にお腹が空いてきた。

 サバの一夜干しかぁ。あ、そう言えば無駄にグリルついてんだっけ、俺の部屋。俺は使った事、無かったけど。

「召し上がれ」

「あ、いただきます」



「小町、カメに戻りたいって思ったりとか、しないの」

 ご飯の最中、俺の言葉に文字通り目を丸くして、というかフリーズして、小町は箸を落とした。幸い、小鉢は座卓の上で、こぼす事はなかった。しかし彼女の視線は中空に固定され、顔から色という色が消えている。俺は身体ごと手を伸ばし、箸を拾って、その手に握らせた。

「なぜ、ですか」声が上ずっている。

「あ、いや、単純に疑問として。なんか、面倒じゃん、人間って。カメのままならただ、飯食ってー、泳いで―、日向ぼっこしてー、だった生活に戻りたくないのかなーって」

「休日のタクミ様と似てますね」

「ビッグなお世話だよ」

 ふふ、と笑った彼女の顔には、すでに色が戻っている。この、元・変温動物め。

「まぁ、私は今の生活、好きですから」

「そうなの?」

「カメに戻ったら、タクミ様に毎晩愛して貰えなくなりますし」

「その表現やめて。俺、何もしてないから」

「冗談です。童貞ナイトにそこまで期待、してませんから。質問なんかしてないで、早くお食べ下さい、夜も遅いですし、早く片づけて寝たいです」

「あそっか。つか小町、晩御飯食べるの待っててくれたの、ごめんね」

「従順なペットですから、私」

「正しい日本語を使っていただけますか」


 態度は口ほどに物を言い。そんな日本語はないが。

 そうか。

 小町は、良いのか、これで。

 くだらない話で笑いあって、ご飯を片づけると、食器は自分が洗うから風呂に入れ、という小町に従い、せこせことユニットバスに入った。

 安アパートのユニットバスには追い炊きの機能なんて無いから湯は冷めており、自業自得、シャワーだけで済ますことにした。


 俺は、どうなんだろう。

 このままでいいのか、いけないのか。

 それが問題だ。


 そんなハムレット風の悩みを、聞いて貰いたかった。だから、会いに行こう。

 カエサル爺さんに。

 虎穴に入らずんば虎児を得ず。

 カエルの巣穴に行かばカエサルじいさんに会えず。


 台所から、小町の声が聞こえる。

「せっかくだからー、私もお風呂ー、ご一緒しますねー」

「ダメだっつの!」


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