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気まずい一日のはずだった。
気まずい一日を過ごし、確かな解決策を見いだせないまま、一人悶々とするはずだった。今朝までは。
けれども実際、一日の終わりを迎えてみると、一番初めに心を占めるのは弟分の子供達への気まずさでは無く、朝に知った一人の名前。
子供達の物言いたげな視線には一応気付いたものの、すでにその時の卯木には彼等を気にする余裕など無かった。
“雨宮千世子”。
唐突で、突然にその名を聞いた時には、名前の存在感だけで理由のつけられない焦燥感が湧き、戸惑った。
そんな感情を抱いた自分に。
そして、強くその人物の顔を見たいと思った。
確認しなければ。
自分の探していたものに、手が届きそうだと感じ、だからこその高揚感があった。
本当なら、あの時チョークを放り出して調べに走りたかった。
自分には授業を放り出しても問題の無い権力があるのだから。
けれどそれをしなかったのは、その権力が自分の力で得たモノでは無いと理解しているからに他ならない。
例え、自ら得た力であったとしても、道理や常識に合わないことを押し通すことは、相応のリスクを伴う。
わかっているからこそ卯木は“社会人”としての立場を守った。
子供に戻ったかのような高揚感。
久しぶりに感じる特別な感情。
だからこそ“今”じゃ無いと思った。
切り札は何度も切るものでは無いのだから。
手の中にある紙に視線を移す。
名目としては、休んだ生徒の家にプリントを届けること。
吾都万から意外と近く、充分徒歩圏内だ。
大通りを向け、入り組んだ住宅地に入り、住所と照らし合わせながら歩を進め、不審者を見つけた。
閉まった柵の外側から手を突っ込み、見るからに手慣れた動作で郵便物を引っ張り出している黒髪を後ろ一本で括っている少女。
思わず足を止めた卯木は、そのまま電信柱に身を隠した。
そっと手元の住所を確認し、再び不審者に視線を向ける。
間違い無い。あそこが雨宮千世子の家だ。
そして酷く見覚えのある黒髪の尻尾。
もし、卯木の推測が合っているのならば、あの尻尾の“雨宮千世子”は今まさに郵便物を戻したあの家に住んでいるはずなのだが……。
少女は卯木の目の前で、住んでいるはずの家に背を向け歩き始めた。
彼女は本日病欠していたのだが。しっかりとした足取りに、後を追っている卯木は目を細める。
とてもそうは思えない。ということは雨宮千世子は仮病を使って本日休んだことになる。
何故か。
昨日卯木達の前に姿を現してしまったからだ。
彼女の行動は彼女の本意では無かったから。
つまり、彼女は衆目に晒されることを嫌っていたのだろう。
彼女は一体何者なのか。
揺れる黒髪を見つめながら、卯木はひっそりと尾行を続ける。
住宅街をすっかりと抜け出し、彼女は廉条の本家が所有している山の裏手にさしかかる。
表の大きな坂道を使い、何度も廉条に足を運んだが、こんな裏手にコンクリートで舗装された階段があるとは知らなかった。
滝津からもそれらしい話を聞いたことが無い。……もしかしたら、廉条の嫡子である滝津もこの道のことを知らないのかもしれない。
~…らるー
卯木の中で、目の前の彼女は、完全に水の気配の持ち主とイコールだ。そして、彼女が登っているのは廉条の山。
胸に染み入る、お前の声がぁ~
彼女が廉条の関係者なのだとしたら、何故、滝津は彼女の存在を知らないのか。
超える草津の冬景色いぃぃいいいいぃぃ~
そのくせ、卯木が彼女の気配を感じる時は、決まって滝津が側にいることに、卯木は気が付いていた。
ああーああぁぁああーー刹那 舞い散る雪の影えぇぇぇえええーー
ということは、やはり彼女は……。
行くよ今すぐぅうーー 待ってておくれええぇええ~~
って! 何なんだっっ!! さっきからっ。山道に差し掛かった直後から鼻歌が聞こえ始めたと思ったら、今はもう拳まで握って熱唱している。
しかも、演歌って。時々、音が抜けるのが物凄く気になる。
初めて聞く曲だと言うのに、どうしてわかり易く半音違うんだ! 才能かっ!?
わざとか? わざとなのかっ!? 実は俺の尾行に気が付いていて、俺の思考を邪魔するために音ズレを起こしているのならば、目論見は大成功だ!
本当に気になる癖をしている。この半音の上がり具合など、雨宮のおじさんそっくりだっ。
あの人も何かを歌わせると、どうしてそこでズレるんだと思わせる所で器用に音が違っていた。
それなのに歌うこと自体は嫌いじゃないようで、気付くと何かどうか口ずさんでいるものだから。俺も気付くと音ズレが気になってしまうんだ。
そんな所、似なくても良いのに生命の神秘を思わせるほどの神懸かった何かで、結局あいつも変な所で音をズラす癖がついてしまったのだ。
癖とは直らないもので、何年経ってもすぐにわかる。
ああ。また半音違う。
音ズレに気付く度に内心で呆れ、口角が上がる。
本当に、下手な割に好きなんだよなぁ。チヨが歌好きなのはやはり、親からの遺伝に違い無いだろう……---。
自分の思考に、知らず目を見開く。
足が止まる。
頭をガツンと殴られたような衝撃を感じたのは、思考がクリアになってからだった。
“雨宮のおじさん”。
変な癖。
半音ズレる歌い方に、それでも聞こえるメロディー。
俺は何時でもそれに仕様が無いなと笑って。
直らない癖に、無意味なアドバイス。
首を傾げる少女。
引き寄せ、撫でた黒髪。
幼い頃から知っているのは滝津だけだ。
いや。違う。滝津だけだと思っていた。
小さな存在。
俺を慕って伸ばされる小さな手。
黒髪の少女は二人いたんだ。
理解した瞬間、酷くあっさりと俺は思い出した。
笑ってしまいたくなるくらい簡単に。今までかすんで見えなかったものが、一体何だったのかと言うくらい軽やかに。
俺は、雨宮千世子の存在を思い出した。
知らず俯いていた頭を持ち上げ、視線を巡らせるが、今まで自分が追っていた後ろ姿はすでに無かった。
無理も無い。まるで、一瞬のようではあったものの、自分でもどれだけ呆けていたのかわからないのだから。
笑った顔を思い出す。
自分の目の前で、いろいろな表情を見せていたはずの小さな女の子は、しかし一時から卯木の記憶の中から姿を消した。
一体彼女に何が起こり、そうして自分に何があったのか。
知らなければ。




