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チヨ様。すまん。
……は……?
それは眷属、水鳥からの突然の謝罪から始まった。
話の流れとしては、こうだ。
千世子に友人が出来、昼休憩を灯処と取るようになった。
当初の予定としては、週に一回という約束だったそれは早々に崩れ、今ではほぼ毎日共に昼食の時間を取っているというのが現状だ。
そうなれば、必然的に昼に行っていた校舎の見回りは千世子以外が担当することとなる。
千世子が使役できる存在は三人。
河子、水鳥、そして鳴。
この三人の中で一番攻撃力に長けている鳴は、『姫』の警護と決めれば、あと残るのは河子と水鳥の二人なのだが。
河子は論外。
警護につかせるも、いざとなった姿を現さなければならない仕事に、水神の身代わりをさせている河子を使うことのリスクを先日痛感したばかりだ。
それを生徒がうようよしている校舎を徘徊させるなど、さすがに千世子もさせたくない。
ということで、河子はこのまま自宅待機。
残るは水鳥、ということで、ここ最近は水鳥に任せっぱなしではあったのだが……。
ええ。ええ。そのツケがこちらに回って来たという訳ですよ。
本人曰く、出来ていると思ったのだ、と。
『……えっと、つまり』
『うん。失敗してた。他の人は大丈夫。でも、あの子は難しかった。ただでさえ、宝円の血族で、浸透率が悪いのに。能力に干渉せずに表面だけ巡らせて負の力を注ぎ落すなんて。……、一応体を巡ってたから大丈夫だと思ってたけど、本当に表層しか巡ってなくて、循環が滞ってたみたいなんだ』
『……』
『……という事実が今、発覚した』
その事実が発覚したのが、どうして今だったのか。
つまり、そういうことなのだろう。
『症状が出た。チヨ様、パスッ!!』
『バカ、バーカ!!』
千世子は、はぁ、と大きな溜息を吐き、放課後の校舎内を進む。
水鳥からの報告は、今日のお昼過ぎに入った。
なるべく早く対処した方が良いと判断し、誘導は水鳥にまかせたのだ。
軽くこちらにパスしてくれたが、それぐらいはやってもらわねば。
水鳥から連絡が入ったので、暗示か口頭誘導か。どちらにせよ、もう教えられた教室には入っているのだろう。
場所は第三被服室。
被服室なんて初めて入るわ。
なんて埒も無いことを考えながら、教室の扉を開く。
中にいた人物が振り返り、千世子は笑った。
彼女は刺々しく千世子を睨みつける。
「あなたが私を呼び出したのかしら」
苛々した口調に、さらに苦笑が滲んでしまう。
普段の彼女ならば、いくら知らない人間に呼び出されたからと言って、ここまで邪見な態度は取らない。
いかに今の彼女に余裕がないのかわかる状態だ。
それに、今の彼女は千世子の返答を当てにはしていないだろう。
証拠に彼女は、千世子が何かを口にするよりも先に、自らの不満を語り出した。
「失礼ですけど、あなた、私が誰だか良くわかっていないのではなくて? こんな紙切れ一枚で呼び出して。申し訳無いのだけど、早々に用件を済まして下さる?
私もそんなに暇では無いので」
語っている内に気も昂り出してきたのだろう。
宝円の傍系、晶華の姫君。晶華彰嬢は、制御出来ない力がその身から溢れだして来ている。
「どいつもこいつも、私のことを馬鹿にしているのかしらっ! 私は、由緒正しい宝円、その傍系晶華の一人娘ですのよ!? 私の血筋は決してあの廉条滝津に負けるものではありませんっ!
それなのに、あの女が特別校舎で、私が普通校舎ですってっ!?
私では無く、皆様を侍らせ、喜んでいるあの女が、どうして彼方様の筆頭婚約者で私が次席なのです!?」
彼女の体から発されているエネルギーは赤い色を伴って熱を持つ。
そう。彼女は翠辿寺彼方を愛していた。
何も、特別校舎に在籍中の彼等だけが幼馴染という訳では無い。確かに彼等が一番親しくはあるが、幼い頃からの友人、という意味では本家、次家以外の分家の子等も“幼馴染”という枠に入る。
晶華彰にとって、翠辿寺彼方は憧れだった。
洗練された物腰に、紳士的な態度。幼い頃から知的なその瞳に囚われ、気が付けば恋に落ちていた。
もしかしたら、彼の隣に手が届くかもしれない。自分が生まれ育った家柄が、そんな家だとわかっていた。
けれども、”もしかしたら”彼の隣に届くかもしれない、その程度の家柄と、能力であることもわかっていた。
だから彰はいつまで経っても廉条滝津の次なのだ。
ああ、苛々する。
苛々する。苛々する。
高校に入学してからはずっと穏やかだったのに、今までどうやってこの荒ぶる気持ちを鎮めていたのか思い出せない。
理想の自分がいる。
目指していた自分像だ。
誰にでも平等であり、優しくあり、けれども威厳を持ち、常に凛と美しく。
そんな美しい女性。
今の自分とかけ離れている存在。
悲しいと思っているはずなのに、それすらも心を波立たせる要因の一つにしかならない。
そして今、その苛々を自分を呼び出したという小さな理由だけで目の前にいる一般生徒にぶつけようとしている。手酷く傷つけようと。まるでそうすれば、心の波を鎮めることが出来る、そう信じているかのように。
彰の心情と連動するかのように、身の内の力が蠢く。
昂る心に引っ張られ、制御出来ていないのだ。
けれども今の彰には、それさえも理解出来ていなかった。
ただ思うままに力を振るい、目の前の人間にぶつける。
凶暴な気持ちに、放課後の教室に良くないものが集まり始める。
彼女に力を与えるもの達だ。
心身を侵食する大きな力に、生まれる万能感。
私こそが相応しいのだ。
私こそが、あの方に。
それを示さなければ、万人に見える形で。
その最初の犠牲者がこの女なのだ。
そう気付けない歪んだ思考。濁った視界。そのままで顔を上げ、彰は一瞬、動きを止めた。
恐怖で顔を引き攣らせていると思ったのだ。
体を強張らせ、後ずさり、尻餅をつき、驚愕と畏怖で満たされた瞳でこちらを見る。
そう思っていた女生徒は、彰が想像していたどの表情とも違った顔で、静かに見詰めていた。
慈愛。
柔らかく包み込むような大きな雰囲気は、息が詰まるほどに暖かい。
「これだから……」
両手を広げ、近付いて来る彼女に、彰の方が後ずさった。
圧倒された。
恐れ多いと思った。
猛る気持ちも一瞬忘れ、茫然となったその隙間。彼女の両腕に囚われた。
清らかな水が流れ込み、彰の心を注いで行く。
不思議な感覚が、身の内を駆け抜け、気付けば涙を流しながら彼女の腕の中で膝を付いていた。
縋るように、その細い身体に腕を回していた。
心が洗われる、なんて漫画のような陳腐な言葉を、本当に感じることがあるなんて。
止まらない涙と共に、心の淀みが押し流され、落ち着いていく。
水に心が満たされる。
まるで穏やかな碧い海の中を漂っているような。
母なる水に抱かれ、気付けば促されるままに、彼女の膝に頭を預けていた。
優しい手に、髪を梳かれる。
ああ。私は、何度も……。
「……、あなただったのね。私の心が乱れる度に、気持ちを落ち着かせてくれたのは」
この穏やかな水に触れていた。
記憶としては覚えていなくとも、この心は覚えている。
彼女は何者なんだろう、とか、こんなに心を預けていいのだろうか、とか、きっと考えるだけ無駄なのだ。
だって、この神様のような存在を覚えていることは無いのだろうから。
この逢瀬は彼女の気まぐれ。
髪を梳く手に心を添える。
「あなたは、一体何者なのかしらね……。それでも、これだけは言える。きっと、あなたは、私の守護神なのよ。私の心を守ってくれる……」
「ふふ……。さぁて、それは、どうかな?……、さぁ、そろそろおやすみ。気高い人。次に目が覚めたら、日常の中だ」
目を塞がれ、優しく添えられた手の平の中で晶華彰は瞼を閉じた。
「いつも……、ありがとう……。私の……神……様……」




