初動【高坂】
キン、と。
不自然な白い空間に金属音が響いた。
タイル張りの床をつつ、と滑る小振りなカギは僕の部屋に積み上げられた雑誌に当たり、止まる。
最期の慈悲、国家公務員である看守の超法規的措置。
恩赦、ってヤツなんだろう。
「……」
僕は暫らくの住処であった個室の、幾ばくかの私物に目をやる。
検閲の為所々マジックで塗りつぶしてある雑誌に読み残しは無かっただろうか?
しばし思いを巡らせるも、割とどうでもいい事だと気付き考えるのを辞めた。
出ようか?
悩む。
窓すら無く大きな換気扇の音だけが地鳴りのように絶えず響くこの部屋。
ここで僕は終わりの筈だった。
中年男性の不景気極まりない表情から繰り出された『死刑』の判決。そういえば随分上から喋っていたのを思い出す。
色んな事を考え反省せよと云われた僕は、空気まで白く濁ったこの部屋で色んな事を考えたのに。
心から反省しようと思い出来るだけ深く考えた僕は、まだ反省出来ないでいたのに。
1ヶ月ほど前から拘置所内は殆どの音が消えていき、とうとう今日全ての音は無くなった。
じんとした沈黙。
息苦しい白。
毒々しい検閲の跡。
何が起きたか、なんて分かっている。
検閲は僕の事件だけを乱暴に塗り潰してあっただけだから情報は入っていた。
死刑はすぐに執行されないと知ったのは割と早い時期。
2~3年の猶予。
それが僕の寿命。
それで良かった。
しかし。
目の端に申し訳程度にココから出る為のカギが主張する。
困った……それが正直な感想だった。
廊下にある採光の為の小さな窓からは、チラチラと光が廊下で踊る。
「……」
僕は腰を曲げつつ申し訳ないような気持ちで最期の恩赦である鍵を拾った。
「……」
もう拘置所には誰も残っていないようだ。
無音の冷たい廊下をぺたぺた歩く。
履いているのはビニールのサンダル。間の抜けた音を響かせながら、思う。
日本では自殺者は年間3万人、失踪者が10万人。変死は15万人にのぼる。
堕胎に至っては30万人だ。
笑ってしまう。
変死と失踪者は恐らく多分に被っているだろう。しかし少なくとも20万人程度は意に添わない死を押し付けられている。
それだけ人は死んでいるのに、なぜ殺しては駄目なのか。
家族を殴り殺した僕は、口には出さなかったが正直よく分からないでいる。
僕は牧師や看守の話をしっかりと聞き、本だって読み漁った。しかし分からない。
生命の尊さや権利においての説明では納得出来なかった。
そもそも『生命』とはなんなのかすら僕にはチンプンカンプンだったから。
養分を摂取し排出するものが生命?
いや、それだと車だって船だってそうじゃないだろうか?
自己増殖か?
違うな。PCは生きてる訳じゃない。それに不妊の女性だって増殖は出来ないが死んでる訳じゃない。
極端にする事の無い拘置所で僕は考えた。
分かりたかったんだと思う。反省しなくてはいけないから。
いや、『生命』がなんであったところで僕の罪状には関係無いのは分かっている。
駄目なものは駄目なんだ。
分かっているのに考えてしまう。
殺人を正当化したい訳じゃ無く開き直った訳でも無く。
興味、もっと言えば趣味。
くだらない。
くだらない。
看守は言った。
『それが社会のルールだ』と。
『結局困るのは自分なんだ』と。
『お前はお前の為に殺しては駄目なんだ』と。
死刑の決まっていた僕にさえ優しくそう言ってくれた公務員や牧師。
そして。
僕はひとり、新たな問題に直面するのだ。
ぺたぺたと幾つかの扉をくぐり抜け拘置所の外へ。
「……」
真夏の陽射しが容赦なく降り注ぐアスファルト、久しぶりの自由の地で僕はため息をひとつ。
『社会』も『ルール』も無くなってしまった路上で僕は、顎を突き出し空を仰ぐ。
そこには日増しに面積を広げていた巨大な異物。
思ったより、というか当然というか……『岩』っぽいんだなあアレ。
うっすらとしかし巨大な隕石の影は圧倒的な存在感と笑ってしまうような絶望感を纏いながら粛々と地球に迫っている。
激突まで残り7日。
壁にはそう書いてあった。どこの誰だか知らないが几帳面な事である。
あと7日、それは恐らく間違いない。
どんな顔をして最期を迎えたらいいのか分からなかった僕では在るが、のこりの日数位は数えていたのだ。