Would you call me if you need my love(4)
物心ついた時、少女は白亜の世界に閉じ込められていた。
白い建造物。白い実験服。何もかもが白い場所。その生活に何の疑問も抱かないほどに、それは少女にとって日常だった。
少女は毎日のように実験の対象とされた。様々な実験には苦痛を伴うものもあった。それに涙することも。
小さな部屋の隅で膝を抱えて涙を流す日々。しかしそれでも耐えることが出来たのは無知故。そして、仲間が居てくれたから。
「ほら、泣いててもどうにもならねェだろ」
「うん・・・・・」
少年は手を差し伸べる。その手を取り、涙を拭って顔を上げれば物心ついてからずっと一緒に生きてきた仲間の笑顔がある。
だからがんばれた。だから耐えられた。そんな日々が続くことに疑いを持たなかった。それでもよかった。
だから、そう。
その事を忘れた事など一度としてなかった。
「ひゃっはははっ!!遅い遅い遅い、遅いねェぇえええぇっ!!!」
縦横無尽に風のごとく駆け回るエイトの動きに質量の大きい月影劇場はついていくのがやっと。
破壊力でエイトを圧倒するのは間違いないが、捕らえられなければ意味がない。
そんな二人の戦いを眺めながらるるるは胸を強く押さえていた。激しくなる動悸と逃げ出したくなる罪悪感の嵐の中、滝のような汗に気づく。
自分がどれだけこの瞬間を待ち望んでいたか。そしてこの瞬間を恐れていたのかを同時に理解する。
目を逸らすことは出来ない。そんなことは許されない。
なぜなら今、目の前の少年がこんなことになってしまっているのは、
紛れもなく、自分のせいなのだから。
⇒Would you call me if you need my love(4)
組織最下層、封印室で続いていた死闘は決着を見ていた。
全身に重傷を負い、傷だらけになったシュズヴェリイの顔面を掴み、ルルイエは立ち尽くしていた。
少女の全身から力は抜け切り、意識も身体を動かす気力も存在していないことを示していた。
ただそれは圧倒的勝利とは呼べないものだった。今は五体満足のルルイエだったが、高級スーツはぼろぼろになり、その身は四回の死を迎えた。
四肢を切断され胴体を切断されこま切りにされ粉砕され吹き飛ばされ肉片に変わること四回。して尚、少年はその場に立っていた。
とは言えその存在は不死ではない。疲労し、肩で呼吸をしながら額から垂れる鮮血をぺろりと舐めた。
「まさかここまで苦戦するとは思わなかったよ・・・・シュズヴェリイ」
ぼろ布のようにめちゃくちゃに傷つけられた少女は反応しない。握り締めていた鎌が氷の大地に転がり、戦いは完全に終了した。
少女の身体を大地に落とすと少年は額の血を拭い、シュズヴェリイを見下ろす。
「何故そこまでして人間に肩入れする・・・?どうして僕を否定する・・・・?」
悲しげに呟く。しかしそれに応えることはないシュズヴェリイの鮮血が赤い大地をさらに赤く染めていく。
死んだわけではない。いや、この死神の少女に『死』という概念は存在しない。ならばやがては何事もなかったかのように起き上がるだろう。
少年が行ったのはその復活までの時間がかかるように限りなく死に近い状態にまで追いやることであって、殺すことではない。
振り返り改めて氷河に封印された少女を見上げる。
秋風渚。かつてのジャスティスであり、今は組織の封印室で眠り続けている『神子』。
ルルイエもかつては少女と共に闘った仲だった。だからこそ、その姿を見上げる度につらい思いが胸に湧き上がる。
「久しぶりに目にするが、やはり神々しいものだな」
入り口から聞こえる反響する声に振り返るとそこには佐伯村雲の姿があった。
村雲はポケットに手を突っ込んだまま封印された渚を見上げ、うっとりと恍惚の表情を浮かべる。
「やあ・・・・随分と時間がかかったじゃないか。君らしくもないね」
「そっちは随分と早かったな。お前らしくもない」
お互いに視線を交わし、目を伏せ笑う。
「・・・・・・ルルイエ。ディーン・デューゼンバーグが渚の吟示を連れて逃走した・・・これで計画は大きく遅れる事になる」
「・・・・・・・・・・そうなんだ?まあ、僕も気づいてはいたけどね」
「誰かが何らかのアプローチを試みなければやつは目覚めるはずがない人間だ。心当たりはあるか?」
村雲の言葉にルルイエは眉一つ動かさないまま、淡々と返答する。
「さあ・・・・僕も全能ではないからね」
嘘をつく。しかしそんなことは少年にとっては日常茶飯事であり、なんの罪悪感も感じない。
他人に対して今まで嘘と偽りだけを塗りたくって生きてきたのだ。今更それに何か感じるほうがおかしいというもの。
「そうか・・・しかし随分消耗しているな。そこの小娘二人にやられたのか?」
「思いのほか強くてね・・・・時間はかかったけど、制圧は間に合ったんだから構わないでしょ?」
「計画に支障がなければなんら問題はない」
「むしろ君みたいなラスボスがこうして前線に赴いていることのほうが問題だと思うけど」
「いや、それもまた些細な問題だ。俺を殺せる人間などそうそう居ないだろう。それに何より・・・」
淡く輝く結晶に手を翳し、嬉しそうに目を細める。
「早くこの目で拝みたくてな・・・・新しい世界の神になる存在を」
そう、全てはこの時、この為だけに存在した組織だ。
ならばその全てを踏み砕き、その上にこそ神は舞い降りるべきもの。
踵を返し、村雲は笑いを堪えながら大きく手を振りかざす。
「さあ、計画を早めるぞ。すぐさまにでも封印を解き、神の叙事詩を始めるんだ」
「いいのかい?始まってしまったらもう止める事は出来ないよ」
「誰にモノを言っている・・・・・俺はこのためだけに人生の全てを賭けてきたのだ。迷いなどとうの昔に投げ捨てた」
結晶の中、少女はうっすらと目を開き、眼下の二人を見下ろしている。
その瞳は何も映すことが無いかのように静かに、そして暗く輝いていた。
(1) 吟示と浸食について
吟示とは人類の外敵として存在する何かという位置付けが一般的だ。
私が実際に体験したように、宿主(吟示を作った張本人)をまず自らの心理領域に引きずり込み、主従関係を逆転させる。
その後は極度のショック状態になった宿主(気力喪失状態)から独立し、他者の精神(宿主に近しいものである事が多い)を取り込もうとする。
取り込まれた精神はどうなるのか、それはひとまず置いておくとして問題はこの吟示が何であるか、である。
一般的には宿主がその精神に負っている傷が具体化したものという見識があるが、私はこれは宿主の中にある別の人格だと推測する。
つまり、吟示とは通常では心の奥底に押し込まれている宿主本人の精神の一部なのだ。それは本来は虐げられ具体化することも、本人に認識されることもない言わば未知の自己。
吟示が発症しやすいのは十代と言われているが、恐らく本人にも理解し難い感情が多いのが十代だからなのではないか。
大人になるにつれ人は自らの心の中にある感情を知りそれを使い分けていくことが出来るようになる。しかし子供はそうはいかない。
うやむやに矛盾し続ける自己の心、その葛藤が限度を越えた時『それを別の何か』にしてしまうために自ら無意識に吟示を生み出すのではないか。
この仮定が正解だとすると、秋風渚の吟示である蒼の吟示(通称はフランベルジュ)が独立していることも頷ける。
仮に、人の精神の人間らしさや心の多くを、自ら封印し奥底にねじ込めて生きてきたとしたら。
その場合吟示として発動するのは『人間らしさ』の方であり、吟示の方に精神が宿ることも考えられる。
本来それほどまでに意識して自らの自意識を封じることはありえないので、秋風渚には何らかの強烈な現実逃避の原因があったと思われる。
そしてその秋風渚の肉体と吟示のパワーバランスが逆転した状態が、フランベルジュと呼ばれる吟示・・・なのかもしれない。
推測にすぎない。しかしそう考えると秋風響が力に覚醒した時に現れた肉体的症状(髪の色素の変化、目の色の変化など)も頷ける。
多くの場合自らの心を押し込めているのは本能的な部分が大きい。ゆえにケモノの姿をした化物が吟示として生み出される。
理性的な部分を、自らを自ら否定していた場合、その変化は正常には行われることなく理性的な部分をも巻き込み異常をきたす。
これが所謂オルタナティブ現象・・・浸食、上書きなどと言われる現象。
浸食は本来は吟示である『本能』を『理性』で押さえつけ、『武装化』(つまるところ理論武装)とすることを繰り返すことにより理性を本能が浸食することを指す。
今まで理解もしていなかった自らの心の一部を知っていく度、切り離すほど受け入れがたかった現実に耐え切れず心が病んでいく症状だ。
と、書くと大げさに聞こえるが要は心の病。特に特別なことではない。それが肉体に影響を及ぼすのも無理は無い。
秋風響の場合は理論武装に目覚めた後も自己否定が続いたためおかしな浸食を起こしてしまったと思われる。
その原因としては三年前のポートアイランドで起きたタワー暴走事件が挙げられる。
先代のジャスティスへの憧れと責任感が彼女の肉体を故意に変化させたと思われる。つまり彼女の無意識がそうさせたのである。
では吟示や他人の理論武装により破壊、奪取されてしまった人の精神はどこへいくのか。
これは魂や精神などと言う曖昧な言葉を使わねば説明出来ない上に詳しい事は結局わからなかったので現状だけを纏める。
とある吟示(吟示Aとする)が暴走し、周囲の人間の精神を奪い気力喪失にした事件があった。
しかしこの気力喪失になった被害者は吟示Aを浄化した時点で精神状態が回復に向かい始めるという報告がある。
つまり吟示Aが搾取した魂は消えるわけではなく吟示Aの内部に記録され、それが残っているので吟示Aが消えた時点で精神は持ち主に戻る、ということなのか。
だとすると秋風響の理論武装にも説明がつく、灰ノ王城は他人の心を記録し自ら再現するものなのかもしれない。
どちらにせよ推測に過ぎないのだが、これは吟示に奪われた場合であり理論武装で砕かれたのとは訳が違う。
三年前のジャスティス(ディーン・デューゼンバーグ)のように他人の理論武装で攻撃されダメージを受けた場合は精神を破壊した人間を倒しても精神は戻らない。
そもそも心理領域と呼ばれる不可解な場所での出来事なのでどんな法則性があってもおかしくはないのだが、こう考える。
無意識に集めるのは人の心。自らの意思で踏みつけにするのも他人の心、とういうことなのだろう。
そこには人間という生き物の心の中にあるいくつかの矛盾が露見しているのかもしれない。
「兄さん下がって!!かばいながら闘えるほど弱い相手じゃない!」
綺羅の叫び声に反応し、隣で呆けるるるるを抱えて背後に跳ぶ。
エイトの動きは正に一撃離脱。防御して反撃する瞬間には既に攻撃有効範囲には存在しない。
高さも幅も3メートルほどしかないこの狭い通路ではアレキサンドリアはうまく身動きを取ることが出来ない。逆にエイトは壁を最大限に利用し、無数の多角攻撃を仕掛けてくる。彼にとって壁は空中移動の足場に過ぎない。
綺羅は足が不自由だ。ゆえに歩く事は出来ない。幅の狭い通路をアレキサンドリアで封鎖し、その背後に座って操作を行っている。
その表情には焦りが見えた。いつアレキサンドリアを突破されるかわからない。サッカーのPKを彷彿とさせる光景。思わず息を呑む。
相手の攻撃を見誤ったらその瞬間には自分の首が飛んでいるという恐怖。それでも闘えるのは背後に兄がいるからだった。
「そうだ・・・・お前がなんなのかなんて関係ない」
強く眼差しに力を込める。
月影劇場と言うその名の通り、アレキサンドリアは彼女の傀儡だ。
彼女の指、手、腕の動きに反応するマリオネット。『糸』ではなく、いわば『意図』で行動する人形だ。
それを具現化するには彼女もまた指を、手を、腕を動かす必要がある。それも高速で動かすのならば高速で、だ。
体力のない彼女にとってそれは重労働だった。常に嵐のように迫ってくるエイトに対し、すばやく、かつ正確に操作を入力する。
歯を食いしばる。疲れたなんて嘆く暇はない。だったら動け、動かせ。
「綺羅!!少し下がれ!」
「だめっ!これ以上下がったら操作の制度が落ちちゃう!」
呼吸が乱れる。背後に守るべきものがあるということは力になる。しかしそれはプレッシャーにもなりうるものだ。
最愛の兄が殺されるビジョンを思い浮かべるたびに涙があふれそうになる。ただ狂ったように腕を振るうことしかできない。
目の前の少年は人を殺すことを何とも思っていない。ここにくるまでもそうだったのだろう。ならば無抵抗の兄もまた同じだ。
彼にとって全ては獲物に過ぎないのだ。今この綺羅との戦いすらその仮定の一つに過ぎない。だから笑う。余裕の笑みを浮かべていられる。
その先にあるものを見据えている少年と守るために必死になっている少女とでは精神状態の余裕が全く違った。
そして心理領域とは、理論武装とは、そういうものだ。そうした心持一つで性能が大幅に変化してしまうものなのだ。
戦いに馴れていなかった、というしかない。綺羅の守りは一瞬の隙を以ってして突破されていた。
すぐ目の前にまで迫る鉄の爪。光輝くそれを目を丸くしながらコマ送りに見送るしかない。
「綺羅っ!!!」
声が聞こえる。
こんなところで負けるのか?
目を閉じそうになる。瞼を閉じてこの恐怖から逃れたい。
もし、自分の足が動いたのならば・・・・もっともっと闘えたのに。
ただただ、そう願いながら。
(2) 神と心理領域について
では、心理領域とは何か?
所有者の心の延長。精神構造の具現化。イメージの城。無敵の領域。
あらゆる不可能を可能とし、あらゆる事象を可能とし、あらゆる空想を可能とする。
それは異形だ。この世界においてあまりに異質すぎる。誰もがそんなことが可能ならば、世界は今とは違う姿になるだろう。
時も、空間も、関係性すらこの領域の前では無意味だ。人はそれぞれの心の中で暮らすことすら可能になる。
心理領域の内容は吟示のそれとほぼ同一であると言える。本人が抱えている精神的な強い思いが具現化し、世界を侵す。
世界はある意味究極的に平等だ。誰もが平等だ。それは『世界』が一定の法則を保っているからに他ならない。
大気が、重力が、人という生き物の構造が、それぞれが多少の差異はあっても一定だからだ。
人はどんなに頑張っても空を飛ぶことは出来ない。努力すれば可能なこともあるが、絶対に不可能なこともある。
人は飛行機を使い空を飛ぶ。海も、宇宙にすら自由に出入りする事が可能になった。しかしそれは人間と言う生命に与えられている力ではない。
人は生身で宇宙に行くことは絶対に出来ないし、無くした身体は絶対に戻らない。そういうものだ。それが人なのだ。
世界は急激に変化しない。緩く穏やかに、しかし確実に変化していく。しかしその変化を大小なり人は必ず受ける。誰もそれから逃れられない。
ならばそれは運命だ。世界というものに定められた巨大な運命。それは法則と言い換えてもいい。
複雑に・・・そう、人類には認知できないほど複雑に世界はそこにある。それは誰にも変えられず、変えたとしてもそれは平等だ。
世界が終わる時人はみな滅ぶだろう。誰もが大地を失うという結末から逃れる事は出来ない。
人は一つの世界の中に生きる以上、思想、人種、あらゆるものをひっくるめ差異はあれ平等なのだ。
だがその世界そのものを変える事が出来たらどうか?
心理領域とはそういうものだ。自分が望むように世界の法則を勝手に書き換えてしまう。
それを『世界』と呼べるのか?という問いは哲学的になってしまうが、一つの答えをここに記す。
人にとって『世界』とは己の中にあるものだ。心の中にある価値観そのものだ。自らが生きてきた全てに他ならない。
大地や空や海や宇宙がそこに毅然と平等に存在していたとしても、それは誰にとってもの世界であり一人一人のそれとは言えない。
だから人は勝手に生きる。自分の知らないところで関係なくはない破滅や滅亡があったとしても。
ホシを汚し、ソラを汚し、セカイを汚し、それでも生きていけるのはそれが自分とは地続きにならない場所だからだ。
心の中にあるセカイ。それが心理領域。自分のためにだけある場所。だからそこでの出来事は現実には関係ない。
現実。つまりそこは夢の中。現実では無いということ。それは何があっても個々の心に結果をゆだねるということ。
人は夢の中で死んでも目が覚めれば生きている。どんなリアルな痛みや悲しみがあっても夢であることを知覚した瞬間その効力を失う。
しかし夢を強烈に信じ込んで現実だと思ってしまうほどの出来事が夢の中で起きたとしたら。
そう、受け止めきれないほどのダメージや事実を突きつけられた時、心理領域での出来事は現実になる。
悪夢から目覚めた時、一日が最悪な気分になるのと理屈は同じことだ。
では、この心の中にある世界を具現化させているものはなにか?
これは本人の意思とかそういう問題ではない。理屈として心理領域を可能としているのは何なのか。
私はこの疑問に『神』という反則的な言葉を以って回答としたい。
この世界でかつて理論武装に目覚めた人間の話はない。そもそも普通は目覚めるものでもない。
ではそれが何故目覚めるようになったのか?この平等な世界に何が起きたのか。
これは仮定にすぎない。推測にすぎない。だがしかし。
この世界に始めて『心理領域』に目覚めた者が。
この世界を好きに、ただその者だけが書き換えてもいいと。心の中の出来事を具現化してもいいと。その許可を得たものが居たのならば。
それは、紛れもなく神そのものだ。
世界でただ一人、その者だけが世界を書き換えていいという事実。
他の誰にも出来ず、まだその一人だけしかこの世界に所有者が存在しなかった時。
何らかの奇跡でもいい。偶然でもいい。とにかく何かのきっかけでそれに目覚めた誰かがいたとしたら。
それはその瞬間神になる。そして彼は願ったのではないか?
『この世界を書き換えたい』と。
組織や救世示が何故『神』と呼ばれる者を打ち倒したいと願っているのか?
それは、神がただの人間であり、今のこの世界を創造した存在だとしたら?
かつての『世界』の定義は今とは全く別のものであり、その神となった人間が生み出した世界が今の世界だとしたら?
つまりそれは夢の中の出来事だということ。神と呼ばれるものが作り出した仮想世界。その登場人物に過ぎないということ。
今も全ての世界はその神によって管理され、その者の思うとおりに操られているとしたら。
人は闘うだろうか?闘うだろう。私が知る限り、『今の世界の人間』はそういうものだから。
その『誰か』が誰なのかはわからない。しかし佐伯村雲はそれを知っているのだろう。
だからこそその神を打倒することを目的としてきた。それが組織が生み出された理由だ。
ある日突然、その『誰か』以外にも心理領域に目覚めるものが表れた。それは神の意思だ。私たちの力は誰かの恩恵に過ぎない。
そんな夢の断片にいる存在だと私は今も理解出来ないし実感も出来ない。しかしこれが薄っぺらい誰かが考えたシナリオの上の出来事だとしたら・・・。
そして逆のことが言える。世界をこんな姿にした神は元は人間だった。それと同じ理屈で人はまた神になれるのではないか。
簡単なことだ。三年前のタワー事件で秋風響が世界の大部分を心理領域で覆った事がある。
覆われている部分は響の心理領域の効果が発動する。これがもし世界中を覆ったらどうなるのか?
そう、彼女の世界が『常識』を打破するのだ。彼女は紛れもなく世界を作り変えた神となる。そんな単純なことだ。
しかしそれは容易ではない。容易ではないとしても不可能でもない。ならば可能なのだ。
人はそうしてきた。容易ではないものを努力と時間で可能にしてきた。それが進化というものだ。
世界を変えた何かを打ち倒し、神の座から引きずり降ろし、そこに自らが鎮座する。
それは人の進化の形の一つなのかもしれない。
その方法とその結果を本気で信じて実行しようとした人間が居たとしたら。
佐伯村雲・・・彼は本当に世界を作り変える気で居るのかもしれない。
かつては作戦室としても使われた伊織の執務室。
巨大な部屋。ガラス越しに見える海から差し込む淡い群青の光に照らされながら響は言葉を失っていた。
伊織に言われるとおりにやってきた彼女の執務室にあるノートパソコンを操作する手が止まる。
「神・・・・?じゃあ三年前の事件も何もかも・・・全部そんな事のためにあったってこと?」
椅子に腰かけて強く歯軋りする。
自分たちはこんなこと知らなかった。でも知らなかったのはきっと自分たち・・・前線にいた人間だけだ。
そして不要になったから組織の上層部・・・佐伯社はその事実を知らない、知ると厄介になる組織を掌返し潰そうとしているのだ。
この推測が正しければ、心理領域に目覚めている人間は神になる可能性すら秘めているのだから、危険視して当然だ。
その結果がこれなのか。今まで世界のために戦ってきた結末がこれなのか。誰もが納得することも事実を知ることもないまま、
「ただただわけもわからず死んで行ったんだよ・・・・?」
それを知った友は今はもう居ない。
心は共にある。しかしただそれだけだ。彼女の肉体は、存在はもうない。
最後まで読まずにメモリーカードに保存し、パソコンを破壊する。敵の誰かに見られてしまわないように。彼女の努力を汚されないように。
心を落ち着かせる。理解出来ない現実とそれを拒む自分自身。この相反する矛盾した精神状態が力になるのか。
間違っていたのは組織なのか。それとも救世示なのか。それはもう明白だった。自分たちは間違っていた。
救世示のやり方が正しいとは今も思えない。ただ何も知らず、ただ自分の目的のために盲目になっていたのは組織の方だったのだ。
その結果がこれだ。裏切られ使い捨てられた。誰もがゴミのように死んで行った。世界のために戦うという名誉を胸に。
事実も知らず、真実も知らず、何も知らないまま、悉く塵となった。
「今の私に何が出来る・・・・?」
心はもう冷え切っている。怒りと悲しみとこの現実を打破したいという意思によって。
力はない。フランベルジュはもうここにはいない。だがそれでもこんなところでじっと何かしていられない。
「行かなきゃ・・・・・お姉ちゃんの身体・・・・・取り返さなきゃ」
あれを封じて地下に押し込めたのも組織。
あれを利用して世界を変えようとしているのも組織。
その一端として自分もまた組織にいたのだ。
求める人がその足元に居ることなど夢にも思わないまま、ただ闘ってきた。
これからは他人に理由を求めていられる闘いではない。
誰かのため、取り戻すためではない。
責任のため、探すものでもない。
ただ己の、己の信ずるものを守るために闘わねばならない。
その決意があるか?その覚悟があるか?それを貫き通せる意思があるか?
その自問自答に彼女は頷き答える。大丈夫だと心が囁いているから。
「もう大丈夫。私は闘える。迷ったりしない。自分のため、自分自身がやりたいから、誰のためにでもなく、強制されるのでもなく、ただただ私のために」
ならば歩め。自らに言い聞かせる言葉。今までだってそうしてきた。
ならば闘え。常に嫌っていた思い。しかし今はここまで身体を軽くする。
そう、理論武装とは・・・・そんな些細なことでその性能を大幅に変化させてしまうものなのだ。
大きく大地が揺れる。振動し、移動する大地。顔を上げ、窓の向こうにあった海の景色を眺める。
徐々に上がっていくその景色は海から空へ、青から蒼へと移動していく。
せりあがって行く大地。その感覚を、その音を、響は一日たりとも忘れた事はなかった。
「三年前と同じことをしようっていうんだね」
プラントが地上へと移行し、塔を作り出そうとしているのだ。
かつて始まりは塔だった。そして今闘う決意をしたのもまた塔だ。
それもまた何かの因果。そしてそれは何かの訪れでもある。
上らなくてはならない。その先に何が待っていたとしても。逃げる事は出来ない。
自らの心に誓ったのだから。友の心に誓ったのだから。
「明日・・・・笑っているために」
かつてのジャスティスは常に笑顔だった。
全てを楽しみ、全てを乗り越えていた。
踊るように謳うように生きるその生き様に憧れてこの道を選んだはずだった。
それがいつからだろう。責任や迷いや苦しみによって笑うことを忘れていたのは。
自分が目指したジャスティスはこうじゃない。自分がなるべきジャスティスはこうじゃない。
せめてこの地獄のような景色の中、ただ一人でもいい、笑顔を湛えて。
「行こう、響。あなたは一人なんかじゃない」
疑念も迷いも今は笑顔でねじ伏せる。
それは悲壮に打ちひしがれるより余程強い想い。
だから明日も笑っていられる。きっと。そう願う。
歩みを踏み出す。
三年間の迷いを、蹴っ飛ばすために。
「・・・・・・・・・っ」
きつく目を瞑った。だから死んだと思った少女はまだ生きながらえていた。痛みもなければ終わりも来ない。
恐る恐る目を開けるとそこには今まで居なかった第三者の姿があった。
「ほお!久しぶりじゃねェか・・・会いたかったわけじゃねェが、懐かしいなァ!!九番!」
「九番じゃねえ・・・空也、だっ!!!」
傷だらけの少年は血のりで固まったシャツを靡かせながらエイトを弾き返した。
速度ではエイトが圧倒的に上回るが、パワーは彼のロボットのほうが上だ。
ただそれだけの動作で全身の傷口が開き、激痛に意識が跳びそうになる。しかしそれでも戻ってきた。守るために。
「せ、先輩・・・・・なんで・・・・・」
「一度は逃げようと思った!でもやっぱ無理だ!お前を置いていくなんてのは無理なんだよ、俺にはっ!!」
拳を構える。それは闘う意思があるという合図。少年の身体はとっくに限界など超えている。戦いは愚か、歩くことも困難だ。
それでも少年の瞳は燃えている。誰かに止められることを知らない愚直な心がその両足を支えていた。
「かっこつけんのはいいが、テメェじゃ俺様のスピードには・・・うわっち!?」
何かが起きた。エイトは次の瞬間には飛んできた何かを弾き、背後に跳んで距離を取る。
そこにすかさず追い討ちが入る。今度はその場に居た全員に理解出来た。それは銃声を伴い現れたからだ。
弾丸。リボルバー銃からはなたれるその一発一発が理論の塊。それはただの鉄塊ではなく立派な理論武装だった。
「流石に分が悪そうなんで手を出させてもらうが・・・・構わんだろう?死にかけ」
刹那の横に立ち、拳銃を構えるのは万里双樹だった。彼もまた理論武装の使い手であることを空也はすっかり忘れていたのである。
「おっさん・・・・それただの銃じゃなかったんだな」
「馬鹿野郎・・・・ただの銃しか使えないで組織にいるやつがあるか・・・・」
「いや出番が余りに少ない銃なもんで・・・・」
銀走狗、それが万里の理論武装の名だった。
リボルバー型に見えるそれだが、弾丸に制限はない。引き金を引けば引くほど弾丸が打ち出されるというものだ。
制限は無いため威力はお世辞にも高いとはいえない。しかし連打することでそれは意味を成す。
それを扱えるだけの技量がある万里にとって銀色のマグナムは十分すぎる凶器であり、敵対するものにとっては脅威なのだ。
目にも留まらぬスピードで弾丸を吐き出す銀色のリボルバーは確実にエイトを足止めする。
「アレキサンドリア!」
綺羅が腕を振るう。張り巡らされた意図はこの瞬間を逃しはしない。
エイトに向かい愚直に突撃する。しかしアレキサンドリアの図体はとにかく巨大だ。ほぼ通路全体をカバーする長い手足を広げながら突っ込まれては、いかにエイトと言えど避けるスペースがない。
狭い空間は彼にとっては利点だったはずだが、それが裏目に出てしまったのである。
防御したものの派手に吹き飛ばされたエイトは距離が開きすぎたためか舌打ちし、クイックシルバーを恨めしげに見つめた。
「遠距離攻撃か・・・しかも俺様とは相性が悪そうだ。しかし生きてたとはな、嬉しいぜ九番!」
「だから九番じゃねえ、空也だ・・・・」
「空也・・・知り合いなのか?」
刹那の問いかけに食うやは渋々頷いた。
「・・・・昔の仲間だ。俺たちにだって色々あったんだよ」
「そうだなァ、色々あったさ・・・色々な!だがそれももう終わる。俺様にとってはここがスタートラインだ。直にこの世界は変わるさ!」
「何・・・・ってうおわ!?地面が・・・・」
振動する大地。プラントが塔としての機能を発動しつつあることにようやくその場に居た誰もが気づいたのだ。
エイトは不敵に笑い、背を見せる。
「テメエらに構ってる時間はないみたいだな」
「おい待て・・・・・・何のために村雲のやつは俺たちを裏切ったんだ・・・・自分の組織だろ!?」
「知りたきゃついてこいよ。いいものが見られるハズだぜ」
持ち前の速度であっという間に去っていくエイトの背中を見送りながら空也は地に膝を着いた。
即座にるるるが駆け寄りその肩を支える。
「先輩・・・・なんて無茶な」
「無茶なのはお前だ馬鹿!死ぬ気か!?俺が来なかったらマジで全滅してたぞ!」
「悪かったわね・・・全滅で」
綺羅に睨まれ思わず視線をそらす。
「と、ともかくだ・・・・お前らはもう脱出しろ。今ならまだ地上に出るのに苦労しないはずだ」
「先輩・・・・まさかとは思うけどエイトを追いかけるつもりじゃないっすよね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
嘘がつけない子だった。目が泳ぎまくる空也にるるるはため息を漏らす。
「だったら一緒にいくっす。そんな状態の先輩をおいていけないっすから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・わかったよ。俺もどっちみちもう戦力外だ。頼れるのは〜」
全員の視線が万里、そして綺羅に向けられる。万里はともかく綺羅は目を丸くしていた。
「え、綺羅がやるの?」
「お前以外に闘えるのはオッサンしかいないんだぞ」
「そりゃそうだけど・・・・・綺羅は兄さんと脱出するし・・・」
「オレは戻らないぞ。響が見つかってない」
「って、兄さんはいってるがどうするんだ?」
「うう・・・・・・」
渋々視線をそらす様子はYESという返事に見えた。
刹那は空を見上げ、その先にある何かを感じ取る。
「この先に何があるんだ?」
「恐らくは三年前、響さんがやったのと同じ事を人為的に起こそうとしているんすよ」
「三年前・・・・ってことは、響があーなった理由となる事件か」
その言葉に刹那の目の色が変わる。そのまま無言で歩き出す手を空也とるるるが引き止めた。
「いやいやいや、どこいくんすか」
「ああ・・・・だって知りたいだろ?何があったのか知らないのはオレと綺羅だけなんだし」
「・・・・また随分と変わったのが仲間になったな」
腕を組みその様子を万里は傍観する。何はともあれ結局は全員が頂上を目指すことになった。
あの時とは違うメンツ。それぞれが抱える想いも違う。しかし誰もが上を目指し塔を上ることを決意する。
物語が一つの節目を迎えようとしていた。塔の頂上はやがて空を目指し、静かな町を見下ろす玉座と化す。
「さあ、始めよう。俺は俺の世界を超越する」
村雲が呟いた。
まるで楽曲を指揮するように、指先で空を切りながら。
塔は空を目指しゆっくりと登っていく。
天へ届けと、祈り続けるかの如く。
誰も彼もが塔の頂点を目指し歩き始める。
その先にある新たな世界に行くために。
さて、次で長々続いた二部が終了します。三部は完結編なのでそんな長くならない予定。
こんな遅い更新速度に付き合ってくれている一部のかたがたに感謝します。ありがとうございます。ホントに・・・・。