過去の柵
ここからはプチエピソード?になりそうな予感です
と言っても、本編に完璧に関わる重大なエピソードですが
読んでくれると嬉しいです
どこまでも真っ暗な世界。俺が最初に思ったことがそれだった。
目を開けても、瞑っても、真っ暗な世界だけが広がっている。いや、狭まっている? どちらにしても、俺が正常じゃないことだけはわかっていた。
体を起こすと言っていいのかもわからない中で、俺を呼ぶ声がした。
「久しぶりだね。恭介ちゃん」
茶色い長い髪。全てを包み込むような朗らかな笑顔。小学校二年生くらいの容姿にはどれも似合わないほどの美しさを持った少女が、俺の前で俺の名を呼んでいる。
だが、俺はその子がわからなかった。
「もしかして、わからないの? ……無理もないかぁ。だって、恭介ちゃんにとっては辛い体験だったもんね」
「辛い、体験? 君は、いったい……」
少女は俺を知っている。だが、俺は少女を知らない。そんな気がかりが、俺に何らかの記憶を蘇らせようとする。
しかし、思い出そうとすると、体が張りちぎれそうになる痛みを感じる。
こんな痛み、確か前にも……そうだ。この痛みはヨハネによくわからないことを言われながら忘れているって言っていた記憶を蘇らせようとした時の痛みだ。
だけど、そんな痛みがどうして今……?
「無理に思い出さなくていいよ。私は、忘れていても構わないから。ね?」
「で、でも……」
「昔から、そういうところだけは変わらないね。だけど、痛い思いだけはしないで? 私、恭介ちゃんが傷つくのは嫌」
「……わかった。えっと、その、君の名前は?」
思い出すことができない記憶に俺は一応断念して、思い出す努力をするために名前を聞いた。
すると、少女は少し寂しそうな表情を見せて、だがそれを悟られないようにするために精一杯の笑顔でこう言った。
「神崎真里奈だよ。一応、君の一つ上なんだ」
「神崎……? 待て、その苗字は――」
「そうだよ。私は、神崎亜矢の孫で、神崎真理亜の姉。そして、君の脳の半分を占めているもうひとつの人格、とでも言えばいいのかな?」
真理亜の、姉。俺の脳の半分を占めている? 一体、これはどうなって……。
混乱する俺を見たからか、真里奈は俺に気を使って話題を変えてくれたみたいだ。
「そういえば、どうして心を閉ざしちゃったの?」
「心を閉ざした? 俺がか?」
「恭介ちゃんが閉ざさなきゃ、一体誰が閉ざすの?」
最もなことを言われて、俺は言い返すことができなかった。
そもそも、もう一つの人格と言われても、今日初めて会ったわけだし、体を自由にされていた記憶も証言もない。よって、心を閉ざせたのは俺だけということか。
真っ暗な中で、俺は考え込んだ。俺が心を閉ざした理由を探るために。
「ん~……どうして俺は心を閉ざしたんだ?」
「私に聞かれても困るよぉ。私は恭介ちゃんじゃないから」
「そりゃそうだ。でも、じゃあどうして……あっ」
そこまで考えて、俺は微かだがここに来る前のことを思い出した。
確か、俺は未来から来たもうひとりの俺と出会って、そして……ズキンっ
頭が割れそうな痛みが一瞬走った。どうやら、ここまでが制限のない記憶らしい。ここから先は、心が壊れるということか。
痛んだ頭を手で押さえながら、俺は細めで心配しているような表情で見つめる小学生を見て、微笑んだ。
痛いのは上等。思い出さなくちゃいけないことを思い出せないで、何が男だろうか。
再び、俺は過去を思い出す。
確か……そう、確か俺はもう一人の俺に出会って、そして――
「くっ……思い、出した」
「大丈夫? 顔色が、悪いけど……」
「ああ、大丈夫だ。ただ……いや、何でもない」
これ以上、名前が思い出せない少女を心配させるものじゃない。そう思って、俺は口に出しそうになった言葉を飲み込んだ。
ただ、俺は逃げただけなのか。信じていたものが消えていくのに耐えられなくて、壊れてしまいそうで、ただただ安息を求めて逃げただけなのか。
痛みで縛っていた記憶だけあって、思い出すのは苦痛でしかない。正直、思い出して損をしている気分だ。
相当顔色が悪かったのだろう。気づけば少女が俺の頬に手を当て、やさしい眼差しで俺を見ていた。
「もう、苦しまなくていいんだよ。ずっと、ここに居ようよ。私が、お話の相手になってあげるよ?」
やさしい言葉、眼差し、表情。すべてが眩しかった。傷ついている俺の心にはこれが必要だった。
だが、俺はそれを突き返した。
「いや。俺は帰らなくちゃいけない場所がある。決着を着けなきゃいけないことがあるんだ」
「……」
少女は最初はびっくりしたようで言葉も出ない状況だった。だが、途端に少女は笑い出す。
それまでの大人っぽい態度ではなく、見たままの子供っぽい笑いだ。
笑っている少女を見て、俺もつい笑ってしまう。
「ははっ。そうだね。うん、そうだよ。そうでなくちゃ恭介ちゃんじゃないもんね。いつだって、自分よりも他人を優先しなくちゃ、私の大好きな恭介ちゃんじゃないよ。ふふっ、でも……あははっ」
「笑いすぎだろ。そんなにおかしいこと言ったか?」
「ううん、全然! ただ、ただね? ははっ。ダメ、面白くってうまく話せないよ!」
笑い合う両者。真っ暗な世界が、少しだけ明るくなったような気がした。
そういえば、こんなやり取りを大昔にやった気がする。確か、あれは……そう、十年前だ。俺が小学校に入ったばかりの頃、こんな容姿の女の子と……女の子と、何をしたんだ?
思い出せない。いや、覚えているのに、思い出そうとしない。まるで、体がそれを拒否しているかのように。それが意味することはわかっていた。俺の心が、制限をかけているということだ。
しかし、俺はこれを思い出さなくてはいけない気がして、無性に思い出したくて、必死に頭を働かせる。封じられた扉を開こうと、目一杯力を込める。
そして、開きかけた扉から漏れ出した記憶は、とても残酷なものだった。
「……っ! まさか、いや、でも……」
手をつなぐ二人。歩道橋を渡る二人。迫るトラック。真っ赤に染まる視界。次々と思い出される記憶には、良いことよりも悪いことの方が多かった。
その記憶を呼び起こす代償は、少なくはなかった。
流れ出す汗。歪む視界。吐き気。疲労感。倦怠感。罪悪感。負の感情が俺の体を埋めていく。次々と、脳にエラーのコードが流れていくかのような感覚に、俺は耐えられなくなる。
後一歩で精神崩壊が起こるという時に、俺の頭を優しく抱いてくれた人がいた。
神崎真里奈だ。
真里奈は、俺の異変に気がつき俺の頭を抱いて優しく撫でてくれた。時折聞こえる大丈夫というの声。その姿は、まるで子供をあやす母親のような姿だった。
「大丈夫。大丈夫だよ、恭介ちゃん。落ち着いて、私と楽しいお話をしようね」
「……ああ、大丈夫だ。真里奈、ちゃん。俺は、大丈夫、だから」
幼い容姿にしがみつくように抱きつく俺。この瞬間だけはこうしていないと精神が死んでしまいそうだった。ただただ恐怖を取り除くためだけに抱きつき、安息を求めた。
この間にも流れ込んでくる記憶に、俺は涙を流し、鼻水を流し、泣くことしかできなかった。
この記憶は、俺が大切な人を守れなかった記憶。守ると約束した人を守れなかった記憶。若干小学生にして絶望を知った記憶。
――――俺と神崎真里奈の二人だけの記憶。