琥珀
色はとても曖昧なものだ。
黄色なのか、金色なのか、少なくとも収穫の季節を迎えた麦畑は輝いて見えた。少年は黄色く輝くものといえば真っ先に黄金が浮かんだから、これは金色だった。でも黄金というのだから、どちらかわからない。
とにかく、少年は難しいことは置いて、黄金の麦畑を目にしていた。遠くに見えるのだ。そこへ行くには一つの丘と川を越えなければいけない。少年は太陽を見上げた。鋭く輝いている。太陽は時間ならまだ幾らでもあると教えてくれた。
少年はまず丘を越えようと思った。丘の麓へ行くと、下りへ向かって強く風が吹いていた。
少年は風を顔に受けながら丘を登って、頂上へ着いた。すると、丁度頂上の辺りで風が二つに分かれていた。風は真上から落ち、それが頂上に当たって別れ、降っているのだった。こんな風を、少年は知らなかった。
少年は今度、風を背に丘を降った。幾分楽になるだろうと思っていたが、強い風が背を押すので、足元が危なかった。少年はとても孤独だと感じた。怖い時、余分に孤独を感じることを少年は知った。
丘を降りると、そこは川だった。少年は川を渡れる処を探した。上流へ上った辺りに、古く、黒くなった橋があった。欄干もない簡単な橋だ。少年の足が止まった。
少年の母親は、この橋を渡ることを固く禁じていた。少なくとも一人で渡っていはいけないと。また少なくとも山が陽を隠し始める頃にはいけないと。それでも少年は、あの麦畑をもっと近くで見たかった。遠くから見た時よりは近付いていたが、それでも満足はしなかった。少年は決まりを破ることに決めた。
少年はもう一度太陽を見上げた。真上にあると思っていた彼は、もうそれほど首を傾けなくとも確かめられるくらいに降りてきていた。
少年は今度山を見た。彼の方も、太陽へとせり上がってきていた。少年はまだ、山が決してせり上がりはしないということを知らなかった。
少年は橋へ一歩踏み出した。とても重大なこと、決まりを破ることを実現する一歩だった。少年は世界の大半をいまだ知らなかったが、ここでこうすることで、母親の世界からはみ出してしまうことはわかった。少年は自分が揺られていた小振りな揺り篭を思い出し、そこからはじめて出た時のことを思い出そうと努めた。そこで、記憶が全て地続きではないことを少年は知った。記憶は忘却の海に浮かぶ小島で、少年は手漕ぎボートでその間を渡らなければならなかった。知りたい記憶はその海峡に沈み、もう二度と引き上げられそうになかった。
少年は一歩一歩用心して進んだ。欄干が無いから危険なのだと、少年にもよくわかったから、なるべく真ん中を歩こうと心がけた。そうして丁度橋の中央までたどり着いて、驚くべき発見をした。進むにも戻るにも、同じ距離を行かなくてはならないのだ。何か重大な事態に晒されている気がして、少年はひどく緊張した。
風が吹き始めた。川の両岸が丁度堀のように斜めに落ち込んでいて、彼はそこを伝ってやってくるのだった。風は強くなり、弱くなってまた強くなってを繰り返した。丁度前の風を追うように、競争しているかのようにさえ思えた。
強い風は少年を川へ押しやろうとした。その間はしっかりと踏ん張っていなければならず、片足をほんの少し浮かすことさえ恐ろしかった。とても心細かった。一人の時、余分に怖さを感じることを少年は知った。
風が弱まった。少年は振り返り、元来た方へ戻ろうと一歩踏み出した。少年の足が止まった。
恐ろしく、そして孤独だった。しかし、進むにも戻るにも、同じ距離を行かねばならないのだ。
少年はもう一度振り返った。風がもう一度強く吹き始めた。少年はそれをやり過ごし、風の弱まったところを一息に駆け出した。逃げ出す時も、勇気を振り絞る時も、叫ばずにはいられないことを少年は知った。
足を打つ感覚が変わり、伝わる響きも変わった。風は向きを変えて、少年の背を推し始めた。平らな地で背に受ける風を少年は知っていた。母親が教えてくれたのだ。風が少年を称え、応援してくれている。
少年の目の前に、麦畑があった。背に受ける風が少年を追い越し、一足先に麦の穂を揺らした。少年は数の数え方を知らなかったが、たくさんという言葉は知っていた。たくさんの麦が、風に揺られている。風が海を泳いでいるかのように、麦畑は波打っていった。しかしそれは、遠くから見たあの黄金色とは違っていた。山はせり上がって太陽を隠し始めていた。そうなると、太陽は何故か色を変えてしまうのだった。その色合いを、少年はまず忘れていなかった。
日暮れの琥珀。
太陽が降り、山がせり上がって重なり合う頃のことを、少年の母親はこう教えた。
琥珀は過去を写す宝石だから、一日の締めくくりに天と地が見せてくれる。素晴らしい一日には美しく輝く。でも後悔してしまうような一日にはただ焼けるように眩しい。
少年の頬に風がやさしく触れた。それはまるで手のようだった。それはいつも決まって麦畑の向こうから吹くことを、少年はよく知っていた。その風は川を波立たせ、雲を流し、麦の穂を揺らしたりしない。ただ少年の頬に触れ、心に吹き込むのだった。それは声だ。母親が子供を呼ぶ声だ。
止むことのない風が、琥珀色に染まって尚、朱く黄金に輝く麦畑を揺らしていた。風は少年の背を潜り抜けて麦畑に波をつくり、その波は少年の母親のスカーフを揺らした。
たどり着いたのではなく、帰ってきたのだと少年は知った。そこは遠くに見える未知の地ではなく、少年の家、帰るべき世界だった。少年はその麦畑をよく知っていた。ただ、あまりに近くに見ていたから、その美しさの半分も知らなかった。だから、少年は自分の世界から見える最も遠く離れた処に立ち、この世界がどのように見えるか確かめたいと思った。川を越えるには橋を渡らなければならず、また更に風の吹き落ちる丘を越えなければならなかった。しかし少年は、世界の端に立った。そこから見る世界は、とても美しかった。少年は世界の美しさを知ったのではなく、その尊さを知ったのだ。
少年は自分の小さな世界を見渡すことの出来る丘に立ち、しかしそこが世界の端などではないと知った。少年の来た道から更に向こうには、限りなく丘や森が続き、一面の麦畑があった。しかしそのどれも少年の世界ではなかった。それらの麦畑はただ黄色く、金色に輝くだけで、黄金ではなかった。ただ一つ黄金に輝くのは、自分の母親や父親、またその父母が懸命に守ってきたあの麦畑だけだった。それは一際輝いて見えた。本当に黄金の穂が揺れているように見えたのだ。
それが愛着によるものだとは、少年は知らない。そして、知ることと感じることが、必ずしも同じではないということも。知ることではなく、感じることが何より重要なのだということも。
太陽が降り、山がせり上がって重なり合うのと同じように、少年と母親は手を繋いだ。少年は、母親が何時もと同じようにしてくれたことがとても嬉しかった。背を推してくれていた風も、彼の世界へ帰っていったようだった。少年は足を止めた。
太陽は山に隠れ、ただ空を照らしている。雲が朱に染まり、その灯りが地を照らした。少年は自分の世界の中心を見た。それはとても長い年月を風や雨に晒され、そこに住む人々に庇護を与えてきた。だからあの橋のように古く、黒くなっていた。でも、窓からは暖かな灯りが漏れていた。少年は少し前に自分の世界から去っていった祖父のことを想った。外はくたびれて見えても、その中は暖かく燃えている。まるで太陽のように燃えている。その灯りは少年と家族に庇護を与えてくれる。
少年の母親は、手を繋いだまま待っていてくれた。そして、少年の側らにしゃがみこんで目を見つめた。その幼い瞳には、僅かに琥珀色の輝きがあった。少年は、この世界の美しさを見ていた。そして多くの場合、美しさは尊さと同じだった。
少年と母親は、やがて自分たちの世界にある、尊い琥珀の中へ入っていった。そこでは記憶が樹液となって世界を包み込む。記憶はやがて固く結合して思い出の宝石となり、唯一無二の黄金の輝きでその人を照らす。思い出は前途を照らしはしない、ただ暗闇で道を踏み外さぬよう、その足元を照らし出してくれるのみである。