Who are you?
甘い季節の感傷に浸るつもりはないが、私は浮足だっていた。何か特別いい事があった訳でもなく、いつも通りの一日なのに。
今日はやたらとゴキゲンで、小さな幸せに心が安らぐのだ。こんな日って、ありませんか?
大嫌いなインテリの上司にも、最上級の笑顔で挨拶することができた。
薔薇色の人生とは、こんな風に毎日が幸せな事なんじゃないか、なんて。私は終始笑顔だ。私の心中が、極めて穏やかで幸せである事など知るよしもない人々にとっては、いくらか奇妙に見えるかもしれない。
「小林さん、お電話です」
小林とは、私の名前だ。下の名前は一郎、もちろん長男だ。冴えないけれど、私にはピッタリで、それが昔はどうしようもなく嫌だった。
電話をまわして貰うと、私は凄く丁寧に電話をとった。
『小林さん、先日お世話になりました。畠山です。どうも〜』
受話器からは、気さくな感じのする男性の声が流れてくる。私は一瞬、幸せの笑みを消し、はたと考え込んだ。
「あぁ!どうも〜、こちらこそお世話になりました。はい、いえいえ!」
本当は、畠山さんが一体何処の誰なのか、私は微塵も思い出せずにいた。なんとか話を合わせながら、私は記憶のなかを右往左往した。
いくら探しても、“畠山さん”というキイワードは、私の古いコンピュータにはインプットされていない様に思う。
畠山さんは全く気付かずに話を進める。
『先日お話したアレ、考えていただけました?そろそろ進めましょうよ〜』
アレとは何か……?彼の言葉にイヤミの類は感じない。そこそこに旨くいっている取引先の方か?○○社か、はたまた▲▲社か……。可能性は無限に有るように思える。いきなりの大ピンチだ。
「いやぁ〜、それがなかなか……。本当に、お待たせしてしまって恐縮です」
出来るだけ後々困らないような返事を返すよう努力する。なかなか難しい作業だ。頭の中のポンコツは、今にもフリーズしてしまいそうだった。
そもそも彼をキチンと覚えておけない時点で、私のソレはかなりガタがきているのだろう。いつの日にかすっかり壊れてしまうのだろうか。考えると少し悲しくなった。
『いえいえ。大プロジェクトですからね。慎重にもなりますよ。何だか急かしてしまったみたいになって、申し訳ないです』
大プロジェクト?思い当たる事と言えば、一つだけだ。私はその時の光景を、出来る限り鮮明に思い出そうと試みた。
絞りこんで検索しても、やはり畠山さんは見付からなかった。答えはすぐそこに在るのに……。
喉の辺りまで出てきている言葉が言えない時のような、歯の隙間に挟まった物が取れない時のような、くしゃみが出そうで出ない時のような、そんな不快感が延々と続く。
私は打って変わって悶々としていた。
『いやぁ〜、正直覚えて頂けているか不安だったんですよ。私は余りお話出来ませんでしたから。すぐに思い出して貰えて良かったです』
今更?もっと早く言ってくれれば……いや、私が早い内に打ち明けていれば良かったんだ。あなたの事を実は覚えていないんです、と。お会いしたのはいつですか、と。
時、既に遅し。
後悔先に立たず。
「そんなことありませんって〜」
私は空いている方の手で、財布にねじこんであった名刺の束を探った。畠山さんの物はない。しかし、絶対に貰っている筈なのだ。
スーツの内ポケットか、鞄の中か、家に置いてきた名刺入れの中か……。とても今すぐには見付かりそうにない。
せっかくのいい気分が台無しだ、と私は思う。薔薇色は長くは続かないらしい。
一通り話を弾ませた後、また連絡します、と畠山さんは話を締め括った。私は、少し大袈裟かもしれないが、足がつかなかった事に安堵した。私の額にはそれこそ犯人のように冷や汗が噴き出していたのだから。
受話器を置き、私はもう一度考える。一つだけ分かったことは、畠山さんが気さくな人だという事くらいだ。
私は、今の電話と私のポンコツコンピュータに怒りを感じ、家に帰ってくつろぐべき時間の大半を、畠山さん探しに費やすであろう現状に憤りを感じながら、一日を悶々と過ごすはめになったのである。
――私は終始、しかめっつらだ。
Who are you?
あなたは誰?
Who are you……?
あなたは、一体誰ですか……?
紐解けば只の老化現象なんですけどね。ショボいオチですみません。この話は、忘れっぽくなってきた両親を見て考えました。私もいつかあぁなるのかな、なんて。少しでも共感して下さる読者様がいれば、作者冥利につきますよ。最後まで読んでくださり、ありがとうございました!