唇から煙
刑法 第二〇八条
暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、二年以下の懲役若しくは三十万以下の罰金又は勾留若しくは科料に処する。
刑法 第三十六条
緊急不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。
バスのなかは電車のなかと違って本は読みづらい。ぼーっと周囲を見回していると、前の席のおじさんが読んでいるタブロイド版の新聞に“ハリセン”の見出しを見た。近ごろワイドショーや週刊誌でひんぱんに見かけるタイトル。
「主婦 ハリセンにて転倒」
○月×日午後△時ごろ、□□区の公園にて、自転車で走行中の主婦2名(32、33)がなにものかに襲われる。現場は公園内をよこ切る道で、はば2mほど。道の中央を等かんかくに並んだポールが分けるかたちで一方を歩行者専用、もう一方を自転車専用としている。被害者は自転車にて走行中、進行方向から歩いてくる犯人によりいきなり自転車の車輪にハリセンを挿入され、転倒。そのあおりをくらって並んで走るもう1名も転倒した。両名にけがはなかった。犯人は歩いてその場を立ち去ったという。
週刊マダムボン
(その主婦2名はポールをはさんでよこ並びで自転車を走らせており、前方の歩行者を避けるわけでもなく談笑にふけっていたという記述が欠けている)
「ハリセン 頭に一発」
○月×日午後△時ごろ、■■区のJR◇◇駅北口の歩道にて、歩行中の男性(47)がなにものかに襲われる。背後から後頭部をハリセンにて強打された。男性にけがはなかった。犯人は歩いてその場を立ち去ったという。
日日スポーツ新聞
(被害者の男は、けっして人とおりの少なくない雑踏のなかでたばこをふかし、手にもってはふらふらさせていたという記述が欠けている)
ハリセンの人は今度はなにをしたのだろう。気になるものの、バスは▽▽線・・駅に近づきつつある。たしかその少しさきの停留所でおりるのだ。
「ZZ薬師にいくのは、どの停留所でおりればよいのでしょうか?」
運転手はかんがえる。
「いや~」
はっきりせんらしい。彼はバスの後方をふり返り、乗客にむかって問うた。
「お客さんのなかでZZ薬師にいちばん近い停留所をごぞんじの方はいらっしゃいますか?」
運転手のすぐうしろにすわっていた初老の男が、四つ折りにした競馬新聞をひざに置いてこたえる。
「ん~とね。つぎのつぎくらいじゃないの。停留所は(ふにゃふにゃふにゃ)っていったかな」
えっなんて? と聞きとれずにおると、男のこたえで運転手も思いだした。
「あ~そうです。YY神社前です」
あ~そうか、YYはちまんぐう前かとひとり合点し、
「どうもありがとうございます」
2人にれいをのべ、席にもどった。とたんに後方で40代くらいの女子のこえがひびく。ケータイで「もうすぐそっちに着くからまってて」とかなんとかいっている。すると
「ケータイやめてください」かんぱつ入れず「バスのなかで非常識でしょ」
とどなりに近いべつの女子のこえが浴びせられた。こえの感じから、その女子は20代前半とおもわれる。この騒動をはじめからずっと背なかで聞いているわたし。なんかその辺のやりとりを、ふり返って見てみたいのだが、平静をよそおって耳をすませる。ケータイの女子は動揺しておろおろぎみだ。電話の相手との対応がへろへろになっている。
「あっ、だめなのよ。バスのなかで。またすぐ電話するから(ふにゃふにゃ)」ピッ。
じゅうぶんないいわけもできないまま、ばせいを浴びせられつづけ、あわてて電話をきったらしい。
「非常識よねぇ」
がなる女子は連れに同意をうながし、さらにいきまく。エキサイトしてはな息があらいようだ。そこへふたたびケータイのベル。
「いまね、バスのなかなの。だめだから・・・きるね」
びくびくしながら
「あ~、ここでおりようか、どうしよう」
目的地を目のまえにして、このまま乗りつづけるか、おりて電話するか、思案しているらしい。この女子は、こころの動揺をそのままこえに出してしまうほどに憎しみによってたたかれたのだな。気の毒な。それにしても必要にかりかりなじるあの女子、ひょっとして“ハリセン”の手のものか。それがどのような様相をしているのか、のぞいてみたい。その目つき顔つきはどうだ。体つきは服装は。はたして、それらから総合して“ハリセン”の手のものと判断されるのだろうか。彼らには共通する特徴とかあるのだろうか。
お行儀の悪いことではあれ、ひとをじろじろ見たい。いくら見てもみたりない。写真にとりたい。できればスケッチしてみたい。そうすれば、そのすみずみまでをも記憶にとどめることができるのではないか。ところが、たいてい見てなにが知れるわけでもない。見たという事実だけのこって、なにを見たのかさえおぼえていない。ふたたびそれと確認もできやしない。見ることで蓄積されるものがあるやなしや。見ることのたれ流しだ。目にやきついて離れないことなんてめったにない。見たあとから忘れていく。それなら、いっそのこと見ずに、その見たかったもののイメージで遊ぶのがよろしかろう。見て安心してしまう、ふがいないぼけぶりにかつを入れる。ゆさぶりをかける。どうだ! その不満に刺激されて、ちっとは頭よ、はたらきなさい。という意図があったわけでもない。
「なにじろじろ見てんだよー! 見せもんじゃねぇーんだよ!」的ぎゃくぎれを恐れたのかもしれぬ。ふり返る機会をずるずる逸してしまい、見てみぬふりになってしまった。あ~見たい。うずうず気になっているのに、もう平然と気にもならない、それがどうしたくらいの泰然自若ぶりでやり過ごす。大人じゃんか。
いまはそれよりもおりる停留所をのり過ごさないよう注意せねば。つぎか。いやいやもっとさきだ。そろそろだろ。どうだ、つぎあたり。なんていってたっけ、停留所のなまえは。“なんちゃらはちまんぐう前”だったような。「ままよ、南無さん」とかなんとかいっちゃって、とりあえず“つぎおります”のボタンを♂、いや押す。
運転手と競馬新聞のおじさんに背後より黙礼し、バスをおりる。しばらく歩いて、前方にam.pmを発見。持ってきたチラシをリュックからとりだし、そこにかかれた地図と照合する。どうやらまちがいないようだ。会場まで歩いて10分くらいか。ZZ薬師というお寺が目じるしだ。
※
そのチラシは彼女からもらった。
彼女をはじめて見たのは、うちの近くの図書館。そのときにはもう、図書館にかようようことが、わたしのルーティンになっていた。
昼日なかから図書館にかようものは、定年退職者ばかりではない。失業率だけ右肩あがりのご時世だ。いき場をうしなった連中が大挙しておし寄せる。大学受験の学生にまじって、行政書士、福祉介護士、会計士、TOEFLだかTOEICだかなにやら受験本をもちこんで勉学にはげむやからがとみにふえている。なにをかくそうこのわたしも、この不景気な世にみずから職を辞し、資格をとるぞとほざいている。しかもなにをとちくるったか司法試験だ。そしてはじまった図書館通い。
司法試験をうけようとおもったのに深い理由があったわけじゃない。会社をやめて、どこにも居場所がなくなったからさ。あーそうさ。とりあえず、受験生という身分をえて安心みたいな。それがいつのまにか2年がたち、安心がいいしれない不安になり、いまじゃ時間とかねのむだ使いをしている感じ。まったくのひまつぶしになり下がっている。過酷な勉強にたえられる体力や集中力もないのに手をだすもんじゃない。
わたしにはむかしから、そういうところがある。高のぞみの見栄っぱり。身のほどしらず。そうじゃなくて、目標が高ければ準備もたくさんいるわけで、登山でも高い山にのぼるにはベースキャンプとかはるわけでしょ。それが酸欠をおこすような高い山だってことに気づいてないし。目さきの安心にとびついて、見通しのあまさゆえ袋小路につきあたって「自分には向いてない」と簡単にあきらめて、また最初からはじめるというくりかえしだ。その場所にとどまって、こつこつつみかさねて技術を身につけようっていう気はないのかよ。じっくり腰をすえて、そのみちの知識と経験をくりかえしからだにすり込んでくと、それが技術になるっしょ。芸になるんさ。地道なしんぼうをとび越えて、あわよくばという色気ばっかり一人まえなんだから。司法試験はむずかしいと聞くが、そのむずかしさはいかばかりかも確認したいんよ。とかなんとか未知の世界にあしをふみ入れる冒険心によったりして。なにもわかってない。いままでこれだけ失敗のやまをきづいてきて。なにせ職場を3回かわっている。どこも2年以上つづいていないし。
いい機会だからその原因を究明してみるか?
まず、なにをどうやっていいのかわからいんだな。社会のしくみというものを無視して、自分ワールドにいるのね。
実力? ないね。そんなものはじめからあるわけないのに、うまくやりたいのがあやまりなんだよ。つらいくるしいことなしで、おいしいとこだけもってこうとしてる。
だからさ、さっきからいってるけど、かっこわるいこと、どうしようもなくできないことをつつみ隠さずさらしてしまって、こつこつつみ上げていくことをおろそかにしたらいけないでしょ。なんでそんな急いでまえに進もうとするかね。最初から目標を高くもち過ぎるの。急がないでいいから、止まらず、ちょこっとずつでもまえにいく。
それとよくやるのは、いろんな不満とか、いいにくいことを人にいえずひとりでため込んでたえられなくなって自滅するパターンだな。人とうまく話できないしね。世間ばなしができないね。なんかわざとらしくて。いわんや電話をや。だいたい人とはなしするのに緊張する。油断するとだまっちゃうから、まとまりのない思いつきのはなしをするしよー。いいたいことが漠然とし過ぎてるのよ。「人にすかれる会話術」とか「成功するうんぬん」とか“けっ”て感じだけど、いざやってみるとできないよ~。できる人は「さすがー」だよ。むかしからそうなのね。ともだちづき合いとか苦手だったし。人となかよくなにかやるとかできないのね。ひとりの世界でやってきたから。
ストーリーメーキングやストーリーテリングの問題をとやかくいうのは酷かなあ。だって、興味をそそられついつい聞いてしまうような、人の生理を刺激する部分って、訓練ちゅうより、からだで感じとるものじゃないかな。気持ちいいこと、わるいことは細胞が記憶するのね。天性のものね。とか理屈こねて努力することをおこたってるし。
だいたい人とうまくやってくことに無関心なの。孤独になれちゃって。世のなかのことなんてぜんぜん知らずにおおきくなってしもうた。だからなんだけど、おとなの会話ができないってのは大きいよな。つめたい感じさせてしまうの、事務的ないわゆる人間味のない。相手に「もしかしてきらわれてるの?」っていう疑念さえいだかせてしまう。それじゃ、だれからも大事な情報をもらえないよね。これからのぼる山が高いかひくいかも知らないはずだよ。
かけ引きの不味さもあるか。自分だけいたい思いをしないようにきゅうきゅうとして、トータルでものをみていない。ちからを入れるとこ、ぬくとこのバランスをしらない。これじゃあ、終始いっぱいいっぱいでかた凝ってしょうがないよ。ストレスためるばっかで、ぬけていかないじゃん。これじゃ破裂するさ、つづかんよ。
こういうこまかい反省をしてこなかったからなあ。
よっしゃ、この傾向にたいして対策をこうずるぜ。
いきあたりばったりがいかんのんじゃ。短期、中期、長期の目標を設定して、ひとつずつクリアしてくんだ。仕事のできるひとがどんな風にやってるか見て、まねて、ならって、かわいがってもらって、のびてくっちゅうことしてないもんな。「だいたい腹立たしい人間がおおすぎて、尊敬できるひとがいないからこうなる」なんてことをいっているようではいかんぞ。うまくいってるのは理由のあることだから。そのしくみをしるだけでも価値あるさ。ちくいちのステップをすっぽかして、たのしくやってるからうまくいかんのじゃわな、なんべんもいうけど。よーく見る、よーく聞く。自分勝手なおもい込みでわかったような感じになって、全体像をつかめない漠然としたままの見切り発車。そら脱線もするわ、正面衝突もするよ。社会のなかで自分の位置とかしってさ。なにをしたらいいのかってとこ、つかんでないんだから。空気よめってこと。
転職してなにを目ざしてるのかわかってなかったよな。ともかくほしいのは、かね、世間体、安心。しごとについての考え方もなってない。ただ年とってく、自分にはなにもない、あせる、わらにすがる、のくり返しじゃないか。
もう一度いうぞ。時間をかけて、なにかを習得することをしてない。なにごとかをなしとげるため訓練するというわかり切ったことだ。なにごとにもしめ切りはある。そんでも、いくらしめ切りが過ぎてもキャンセルできんだろ、自分の人生は。わたしのしめ切りも、かなり過ぎてて救いようがない気はするがの。
最初はわからんかったが、やってくうちに法律の勉強ってのは、くり返しと継続がだいじだとおもいはじめた。こりゃ、人生やりなおしのリハビリになるとおもった。のにだ。集中できない。わからんのだもの。よんでも意味がわからん。わかるためには神経を集中して理解力を総動員せねばならんのに、うわのそらだ。頭のなかがくもっており、なにもはいってこない。わからずば、さっぱりおもしろくない。
ついついほかのことに関心がなびく。
いい感じの女子はおらんかの~。
節度ある調子で目をやるのは、女子のお胸やらおしりやらお足やらだ。おまえはエロじじいかっちゅーの。でなきゃ中高生かっちゅーの。いつまでもそのてのじろじろじゃ芸がなかろう。もっとおとなの技術でよーく見よう。そのひとのなにがわたしをしてじろじろさせるのか。図書館の自習室にて、まえの席やとなりの席のひとをスケッチする、あたまのなかで。残念ながら、いくら熱心に記憶しようとしても残らんものだ。あのライン、あのふくらみ、……。
ところが、なにもつかめない。どうやったら、しかとわがものとできるのか。さわればよいか。これ、さわった場合、痴漢行為。その行為に“暴行又は脅迫”ありとみなされれば、強制わいせつで刑法犯(刑法 一七六条 十三歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上七年以下の懲役に処する。十三歳未満の男女に対して、わいせつな行為をした者も、同様とする)。さわったところでなにかをわがものとできるかも疑問だし。いくら見ても、いくらさわっても、きりがない。
それでは、ほかに、これこそはという確かなるものはあるのか。からだが記憶している幸福感というのがある。いつだったか、なにかのひょうしにたいへんしあわせな気分をした。なにがそんな気分にさせたのかおぼえていない。おぼえていないくらいだから原因はごくささいなことだったのであろう。単なる感激しーだ。そのしあわせのさかな、からだのなかにあるこうこつ感がどんどんふくらんで、けっしていやなことではなかった。とはいえ、それを後生だいじにとっておくのも気味のわるいこと。いくらしあわせでも、それであがりになれるわけではない。いのちあるかぎり、生きねばならぬ。生きているかぎり、しあわせはいつかはてる。ならば、しあわせになるとは、なんぞ。すべては無常ということかのー。しかも同じようなことを無限にくり返しているのでないの。いいかげんあきてくる。
なんぞ工夫をしたい。
それでは、あのひとにふれてみたいという芸のない直截な感情を、もうちょっとばかり芸のあるものにできないか。ということではじめたのかどうだかあやしげな空想のスケッチである。これまた失敗なのか? 描けども消えてしまう。なにも残らない。はっきりせんのだな。おもしろいという印象だけは残っているのに。
これがまったくむだな試みだったかというとそうでもなかったのかもしれぬ。
図書館の自習室で、となりにすわったのが彼女だ。ノースリーブのピンクのメリヤス。肩からうで、手にかけての曲線、あるいは肩からわき、むねへととぎれなくつづくなだらかな立体感が目にとまる。浅く日焼けしたはだのきめというのかつやというのか。そっとなぞることにより、それらのあり様をたしかめたくなる。ふっくらとしたゆびの肉づきとオレンジ色にぬられたつめ。トートバッグからペットボトルをとり出す。ごくごくごくとのどをおりていく飲料。かすかにのこる紅茶のにおい。動物のキャラクターがプリントされた布製のペンケースからブルーのシャープペンとちいさくなったけしゴムをとり出す。ペンを親ゆびと人さしゆびの根もとにはさんで書く文字。化粧はしていないのかな。ひたいとほほに赤いぽつぽつがすこし。うすくて細いまゆ。ひとえでちょいとつり上がった目。
そして唇。
上唇のにくの落ちかた、下唇のふくらみかた、唇がおわる境界のライン、上唇と下唇とのかさなるあたり、はは~、唇とはこのように感動的でありうるものか。いくら見ていてもあきないのではないか。上唇にできたはれものがなおりかけている。それがなにを減ずるものでもない。さらに正面からも見てみたくなる。けれど、横顔、うつむき加減の顔、後頭部、ちらちら盗み見できるのはそんなものだ。正面からばっちりなま顔をしげしげとは見れないが、生きたなま顔だけがもっているちからを感じたい。彼女の唇、すばらしい唇のある顔。そこにでもあるもんじゃない。いろんなひとの唇を見るがそれもこうはいかない。
あの唇をまぢかで見たいってんで、図書館で彼女を見かけるたび、ちかくの席にすわる。その日ふたたびとなりにすわることができた。
彼女はいつも電卓をもっている。sin.cos.tan.とか見なれないボタンが多い。かたわらに開いたコピー用紙には“伝導電熱”なんとか“対流”なんとかという文字がある。わたしはその方面にはとんと縁がなく、数字や記号がずらりとならんだものを日常のこととしてひゅるひゅるとこなしている様子にはただならぬ劣等感をもよおす。してやられたり。禁止事項をプログラムされたロボット状態だ。科学的なことをちらりとにおわされただけでへなへなとしよる。土人は土人のおきてにてうごけばよいものを、ちょっと分明ぶっこいて、しゃらけたところがこのざまよ。土人は土人らしく振るまおうとおもいなおし、彼女にたずねた。
「ちょっとうかがいたいのですが。この計算機ははじめて見ました。なにをするものですか?」
彼女はちょっとこまったような顔をしてこちらを見た。土人のわたしは同じようにこまった顔をした。彼女はにこりとすると、バッグのなかからケータイをとり出し、ポポポポ、ククククとポッチをおしはじめた。オレンジ色の親ゆびのつめがあっちこっちをすばやく移動する。ゲームのボタン操作もかくあらん。うち終わると、さっと画面を見せてくれる。
「関数電卓です。物理の勉強につかってます」
「ははあ、そうなのですか。どうもありがとう」
はてな? “図書館ではしずかに”とはいえ、なにゆえケータイでおはなしするのかなとおもう。人間はとっさにおかしなことをしてしまうものよ。わたしにもにたような体験がある。それもまた図書館でのこと。
まえの席のそのひとは、マンガ『サザエさん』を4~5册つくえの上につみ上げ、熱心によんでいた。彼女は、その4コママンガで波平がのべたことばのひとつを示してわたしにたずねた。
「すみません。これはどういう意味ですか?」
ははあ、留学生であるらしい。土人はこのようなとき、とても親切になる。これは、これこれこういう意味なのです。と主語述語を省略せず、ていねいにわかりやすくのべたのだった。はて、はたしてそんな意味なのかこたえてみてのち、ちがうような気もする。とおもっているとつづけて彼女はたずねる。
「それでは、このおはなしはこういうことをいっているのですか?」
はて、どうだろう。そうかもしれない。そうでないような気もする。どう説明すればいいのだ。土人はそのような思考はしないのです。なんかファジーなのです。そういうニュアンスをだすには主語述語のただしい文法でやっていたのではらちがあかない。このような心中のいっさいがっさいが省略されて
「そうですね」
となってしまった。
唇の彼女は、なにかそういう説明できないもどかしさを省略していたのかもしれないの。
図書館の帰り。商店街へつづく道は建物のあいだをくねっており、見とおしがわるい。道はばもせまいなか、人や自転車やらくるまやらが行ったり来たり。わたしのさきをふたりの女子がよこならびに歩いている。ひとりはもうひとりのうでを抱くようにつかんでいる。なにゆえ女子は同性とうでを組みたがるのやら、おさなくもないのに。うしろ姿からは双方とも20を越えているのは必定。はて、そうかしら。あの歩きかたや双方から感じられるものは、もしかすると。わたしは彼女らを追いこそうとして、やはりさっしたとおりであったことを知る。すがるようにうでをつかむ女子はつえをもっている。
そこでわたしは考える。外見だけではわからぬハンディをかかえるものはおるよ。わたしとて同様、人から軽んじられ「のんきなものよの~」と侮蔑の情をもたれておるのだが、あたまの回路あぷつんぷつんとあちらこちらでと切れており、なにやらときおりさむけやいたみに七転八倒しているねんのねん。これもまた不治の病。闘病のありさまをかき記し、くびからさげて侮蔑するかたがたにご自由にお読みいただければいかに。
と、そこまで、おもいめぐらし気がついた。あ~そうであったか! しってるつもりのしらんふり。そのような痛みにたえてよくがんばった。感動したー! とこえをはり上げてしまうぞ。ふざけた妄想にひたるうちに、はたとおもいいたった。あの唇の彼女、なにゆえケータイにて質問にこたえたのか? 口がきけぬのではにのか。彼女のケータイが振動するのを見たことがある。それを耳にあてることは一度もなかった。画面を確認し、メールのやりとりをするだけだったような。
その晩、ゆめを見た。わたしは図書館の彼女とはなしをしている。彼女もわたしもこどもになっている。ふたりはマグネットのひらがなを冷蔵庫のドアにくっつけている。文字とかわらない小さなゆびでぴたりぴたりと。彼女は「ぴゅるる」。こたえるわたしは「みょろろ」。「しゃなな」と彼女。「きゅみみ」とわたし。わたしは、けらけら笑っている。たいへん楽しい。よほど楽しかったのであろう。目がさめて、まだ口もとが笑っていた。
そのあとも、たびたび図書館で彼女を見かける。ある日、彼女のとなりにすわったとき、トートバッグからチラシの束が顔を出しているのを見た。はて、なにかのもよおしやら。いつまでものぞいていると、彼女が気がついた。一枚ぺらりととり出してわたしに渡し、にこりと笑った。
「はは、ありがとう」
といって受けとる。はたして美術展のチラシであった。見ていると、彼女はチラシのおもてにぺろりと一枚のふせんを貼った。ふせんには
「わたしが手伝っているイベントです。よかったら見にきてください」
と書いてあった。わたしはふせんの余白に「はい」と書いて見せる。彼女はにこりと笑い返した。
タイトルは『ジェームス・タレル リターンズ』。コピーを読む。
「1998年秋。XXの美術館での体験を忘れることができません。展示室に入ったとき、この世界でない別の場所にいるような気になりました。『ジェームス・タレル展』の最終日でした。ひとりででかけたので、その感想を話し合える人がいません。だれかといっしょに見たい。だれかと話したい。ずっとそう思っていました。私はなにかをつくり出すことはできません。その代わり、私が見たものをだれかの力を借りてお見せすることができるのではないかと思って、今回の運びとなりました。よりたくさんの方々に見ていただき、お話できることを願っています」
※
チラシの地図にしたがって、やってきましたよ。ここが会場の“地の果てスタジオ”。商店街のはずれにあるその建物は、ライヴハウスにもつかわれるんじゃないのか。スタジオ名のネオンに、まだ灯はついていないが、くねったあかい文字がどうもそれらしい感じ。
入りぐちのドアのまえに横長のおりたたみテーブルが置かれ、受付の女子がいる。入場料を払うと、ドアに案内された。かべ沿いにスロープをゆっくりと歩けという。なかに入ると、その理由はすぐわかった。後方でゆっくりとドアが閉じていく。そとからのひかりで照らされていたエリアがみるみるせばまり、ついになくなると10・さきも見えない闇につつまれる。一瞬、上下左右の感覚をなくした。目を閉じても開いても同じ状態。見たいという欲求が爆発的に膨張する。いつのまにか口もとが笑っている。うまれて30年間ではじめて体験するいっさいの光から隔離された闇。平衡感覚はもどってきたが、あいかわらずなにも見えない。ともかくかべをつたって降りていった。左手でかべをつたい右手で前方を手さぐりし、かに歩きですすむ。降りきったところで右手がかべにふれた。かべは右におれ、ぐるっとUターンして廊下をすすむ。またつきあたって左におれる。右にかべがつづいているが、左はがらんとしている。
と左奥にひかりを感じてふり向く。それがなんであるのかわからない。いま自分が見ていることが以前見たどんなことともむすびつかない。~のようなものすらおもいつかない。そこにはひかりがあった。かたちも重さも温度もない、存在としてのひかり。ありとあらゆる夾雑物をとりのぞいた純粋なひかりだ。どのようなしくみでそれがあるのか知りたくなったが、すぐに止める。ただ感ずるままのそのままでそこにいよう。そのひかりはかなり微弱なものだ。闇のなかでひかりに餓えた目にさえ、ようやく感じられるほどに。
しばらくすると部屋のようすが見えてきた。長方形に仕切られた部屋のいちばん奥のかべにそのひかりはある。ひかりを見ながら、ゆかにぺたりとすわっている鑑賞者たちのシルエットがある。彼らにならって、わたしもその場にしゃがんだ。ひかりは横長の長方形をしている。映画館のスクリーンのようだ。ブルーに見えるがちがうかもしれない。すべたがパーフェクト。クラインブルーをなまで見た衝撃をこえている(なんじゃこりゃ、映画のチラシのうらにあるニューヨークタイムズかなんかしらんが引用したえせ宣伝もんくみたいじゃ)。そのひかりを切り落としている両辺のするどさ。ものすごい直線とすばらしいR90゜。ひかえめにひっそりとあるのに圧倒的ってなんなのいったい。“なにも引かない、なにも足さない”くらいのピュアだよ。驚いた。感動した。感心した。もうないもかんがえない方がよい。なにもいわない方がよい。
この部屋のとなりにもうふたつの部屋がある。各部屋をかべと廊下がへだてている。
最初の部屋からふたたび暗い廊下をとおってとなりへ。ここは奥のかべ全体がぼんやりとひかっている。パープル。どういうしくみかはいぜんとしてわからないが、ひかりの反響が左右のかべにも天井にもゆかにもほとんどない。正面のかべだけが別次元のように切り抜かれた感じだ。
最後の部屋は正面のかべを中央で2分するたきのごとくひかりがある。これはオレンジ。最初の部屋でゆかにすわったままひかりを見るひとがいたように、その部屋でも数人ずつすわって見入っている。ひとによって気に入ったひかりがあるようだ。わたしには最初の部屋の印象が強烈すぎてそれがいいともいえない。その余韻がさめるまで最後の部屋にすわり、オレンジのひかりを見た。
出口へ通じる廊下をのぼりながら、ふとあたまに浮かんできたイメージがある。アメリカの国立公園でとられたという岩山の写真だ。フレームいっぱいに見上げる巨大な岩山は、かなづちでわられたようにきれいな絶壁。絶壁の岩はだには上下にながれるなん本ものすじがある。岩山の地面のあたりは大きくくり抜かれ、くり抜かれた岩のなかに宮殿のような遺跡がある。戦争がはじまったか終わったかの時代にとられたモノクロ写真だったと記憶する。しろとくろのするどいコントラストが線という線のすべてをきわ立たせている。いま見たひかりもその写真のように中間のトーンが消えているのにちがいない。
そとに出るともう日がくれかけている。スタジオのとなりに待ち合い室のようなサービスルームがある。美術書、画集、写真集などが書架にならび、ラックにチラシなどがさしてある。テーブルといす、ベンチがそなえてあり、ベンチにこしかけた。テレビでエンドレスの録画映像をながしている。ジェームス・タレルのインタビューだ。
スタジオからでてきたカップルが入ってきてテーブルについた。しばらくして入ってきたもうひとりの男が彼らにはなしかける。彼が主催者らしい。ニット帽、丸縁のセルメガネ、ブルーのマフラー、長そでのYシャツの上から半そでのニット、ブルージーンズという出で立ち。
テレビではタレル氏がひかりのアートをはじめるきっかけをしゃべる。
「小型飛行機でとんでるときに見たそらの光景だったんだ」
とかロックミュージシャンのインタビュー口調な字幕。彼はこのとき、地上では見ることのなかったひかりをはじめて体験する。飛行機乗りが見るものってのは、すごいものなのか。そのうち宇宙飛行士にもたいへんな作家がでてくるだろう。ひかりにかかわることは時空をこえている感があるのかね。足で地面をてくてく歩いて、安全な環境と見なれたもののなかにいると人間の感覚もそういうところで安定してくるんだろう。尋常ならざる環境にさらされる生身の人間が見るものって、その対象自体が特殊であるのと同時に、見る人間の感覚もするどくなってたりして、とんでもない体験なのかね。
テレビを見てぼっさりしてたら、おとなりの会話が聞こえてきた。
「太宰治がね、自殺するちょっとまえに絵本をつくる予定だったの。そのつか見本てのがのこってて、このあいだ知り合いの古書店主に見せてもらったのね。このくらいの大きさなんだけど」
1ページが20~30・くらいか
「廃坑のまちにのこったおそば屋さんの夫婦のおはなしなんだそうなの。それを手にもった感じとか重みとかなんだかよくて、完成してたらなあ……。それがわたしのいまいちばん見たいもの」
それは、わたしが小さいころの風景だ。
廃線となった鉄道の駅。ぼうぼうと草がはえているなかに、まだ撤去されないあかさびた線路とコンクリートのプラットホームがのこっている。もうバスの発着所しかなくなったそのころでも、その場所を駅とよんでいた。駅のまえに三角柱の広告塔がたっており、交通安全だか、住みよいまちだかの標語がかかげられていた。その広告塔をぐるりと一周するロータリーがあり、ロータリーをぬけて駅の正面のとおりへ出ようというすみに中年の夫婦が営む中華そば屋があった。ラーメンじゃなく中華そば。なると、しな竹、チャーシューがはいっている細めんなやつ。かならずコショーをふりかけて食べる。まちに出たときはいつもこの中華そば屋のことが気になっている。おこづかいに余裕のあるときしかはいれない。そのときは夏休み。読書感想文を書くつもりだったらしく『斜陽』をもっていた。たしか、スープに髪の毛がはいってたからじゃなかったんだよな。ほんじゃ、なんで『あ』とこえを上げたのか。あのころのわたしはわからなかったろう。いまはよくわかる。わたしはよくそういうこえを上げるから。
あの光景は、ほんとうのことだったろうか。ゆめのなかで見たようなことで、そうかとおもうとやけに鮮明なのだ。
閉館時間が近づいてきて、最後のお客さんがこっちに入ってくる。そろそろわたしも出よう。
スタジオを出て、数軒さきにこぶりの食堂があった。奥に細ながい店で、席はカウンターだけ。こしかけたあたまの上を、カウンターにそってぐるっと一周する鉄道模型の機関車。緑茶とさつまいもを注文した。大きな湯のみにそそがれた緑茶とからつきピーナツがでる。からつきピーナツはサービスだそうだ。からはゆかに捨てていいとのこと。ゆかにころがったからはつぶされこすれて、ゆか板はつやつやだ。いもがきた。粗塩のちいさな山が皿のすみにもられている。湯気をたてているいもをほふほふして食べ、むせては茶をのむ。
4人組の客がはいってきた。待ち合い室にいたカップルと主催者風のひと、そして唇の彼女もいた。わたしのとなりに主催者、つぎにカップル、いちばん奥に彼女がすわった。ほどなく彼女はわたしに気づきにこりとしてあたまを下げた。
店内にはかべにチラシやポスターがはられている。ライヴ、芝居、展示会……。それらはすでにもう日付けのすぎてしまっているものもある。わたしが見たものもいくつかあり、どれも楽しめたものだった。そうやら、できのよいものばかりがのこされているようである。気になる映画のタイトルがある。ここにはられるなら注目作にちがいない。こんど見にいこう。あちこち見回していると、店員がふたたびピーナツのかごをもってきた。
「奥の彼女からですよ」
という。そちらを見ると彼女が自分のピーナツのかごをとってなかをゆびさしている。わたしのまえに置かれたかごのなかを見ると、例のふせんが埋まっている。とり出して彼女のほうに示し、見つけたことをしらせる。彼女はうなづく。ふせんにはこう書かれていた。
「身にきてくれてありがとう。よかったら感想など聞かせてください。 sakura@pool.com 柊」
からのかごにいつももち歩くあめちゃんをリュックからとり出しひとつかみ入れ、手帳の1ページをさし込んで、さっきの店員さんにたのんだ。紙にはこう書いた。
「たいへん楽しい時間をすごさせてもらい、よろこんでいます。こちらこそありがとう。またなにかあったら教えてください。メールアドレスないんで fax.○○―○○○○―○○○○ 妹尾 潤」
「さっき待ち合い室でお見かけしましたが、ごらんになりましたか」
となりの男にこえをかけられた。わたしがそうだとこたえると、企画した柊だとのべた。いかがかととわれたので、たいへんたのしんだとこたえた。それはよかったといって、焼酎のグラスを手にとりかかげ、ぐびっとのむ。柊は、となりのふたりは学生時代のともだちで、奥が妹だと紹介した。妹さんにチラシをもたったことをいうと、彼女のはなしになった。
5歳の夏、まる1日行方しれずになった。おとなりに遊びにいくといったまま帰ってこず、警察にも連絡し、あちこちさがしたが目撃者もない。翌日の午後、いえのまえにたっているのを発見された。帰ってきたとき耳がきこえなくなっていた。医者にみてもらったが原因はわからない。耳以外に異常なところはなかった。彼女にはあるものだけ聞こえる。人間の聴覚は20Hz~20kHz。その聞こえる範囲がそのままそっくり上にずれているらしい。
「世界になん人かそういう症例が見つかっていてね。彼らは世界のどこにいても、おたがいのこえが聞こえるんだ。彼らは空間だけじゃなく時間をこえて話すんだけど、ぼくたちの会話とはちがっていてね。相手にいつつたわるかわからないんだから。彼らはおたがい生きているうちに会うことはないんだよ。とどくかどうかもわからないだれかにむかって話しつづけている。とどいても返事できずにただじっと聞いているのさ」
「SFみたいなはなしですね」
というと
「本人はなにもいわないからたしかめようがないんだけどね。長年、彼女を見てきて、ぼくが出した結論なんだ」
という。
「行方不明になったのはほんとうだよ。ただそれ以来ひとこともしゃべらなくなった」
※
帰りのバスのなかで、彼女のことばとこえを想像した。
あんたもそうとうおめでたいぬけさくだね。空想こいて現実と混同してんじゃないよ。おわってんだよ。なんかできるんじゃないかなんて希望をすてきれないのが、ちゃんちゃらおかしいっつーの。
これはサディスト型。
あらゆる生物は生まれて死ぬまで生きようとします。外敵から身をまもります。食べます。からだの安全と食物の確保がだいじですね。それができねば、死ぬるのです。ひとはどうもそれだけではありませんね。あれやこれやかんがえます。しあわせなどとまぼろしを追います。恋愛とかきもちよいセックスとかもほしがります。生きがいとかもいりますね。
これはなに型だろう。感情の起伏がすくない電話オペレーター型?
30才の男です。無職。この男が死ぬまで生きるにはいかにすればよろしいか。老後をまたず、みずからの蓄財はそこをつき、この世で唯一たよれる親も被介護者となるでしょう。おかねがいります。日銭をかせぐのか。もっと将来性のあることを、成長できるっちゅうか、上へのぼってる感のあること。自由業か、どこぞにやとわれるか。やとわれれば、いつか切られる。切られるとかうしろ向きなかんがえではだめで、目のまえのえさにまずとびつけ。それでは一日生きのびたにすぎぬ。事故とか病気とかあるやもしれぬが、それなしで生きたときまで生きていられることを前提としたヴィジョンはないのかね。コストの問題? その技術を身につけるのに、より短い時間でできるひとが勝ち。いくらそのことが好きでもコスト高なひとは負け。ナンバー1よりオンリー1だという。たとえコストが高くても売れるものになるのである。眠いのである。いくら考えても企画がでてこないのである。どうすすめていいのかわからないのである。生来のなまけものであろうか。低能なのであろうか。背はひくい。足もちいさい。貧相なからだに顔もさほどよろしくないときた。しょっちゅう眠い。集中力がないことはないが、のってこないと散漫になる。酒はよわい。たばこは吸わない。話題といえばひとがあまり関心をもたぬようなマイナーな事象。それをのんきなコピーライター調でたらたらと絵はがきに書きしるしては、しばしば知り合いにおくりつける。閑人のざれごとにつきあってくれる情け深い御仁はごくまれなり。吝嗇なのでパソコンもケータイももたず、メールアドレスもない。そのかわり、電話は留守番機能つきでFAX兼用だ。“結婚しました”とか“こどもが生まれました”とかのDM型大量生産大量配付はがきにまで返事をかく。脅迫神経症なり。歩道をしれもの顔で走る自転車をけとばしたくなり、雑踏で歩きながらのうのうとたばこを吸うものの後頭部をはりたおしたくなる。約束の時間15~20分まえに着いてうろうろしている。相手はへいきな顔で10~15分おくれてくる。いらいらするが、それより再会をよろこぶきもちが勝り、文句もたれずその場はうやむやになる。のちのちそのことはわたしを軽んずるここともちのなせるわざにほかならぬとひとり合点し、ぬらぬらと憎しみをもやす。毎日顔をあわせるアパートの住人、図書館の職員、スーパーのレジ、わたしのようなあほづらをさらすのがはずかしゅーて、目もあわせられぬ。いつもうつむき加減でおおきなこえを出せない。わたしのようなものがでかい顔をしては申し訳が立たぬのおもいがじりじりとにらんでいる。女子にもこえをかけられぬのです。どこかで「おめーが楽しそうにしてんじゃねーよ」というつっこみがはいってるのじゃの~。しらけてしまうのですよ。熱にうかされ、のぼせるまえにの~。
わたしはおもわずしらず「あ」とこえを上げた。うとうとしていたらバスは終点についたらしい。
数日後、彼女からFAXが送られてきた。
「先日はどうも。おかげさまで、展示会はぶじおわりました。それを祝してちょっとしたイベントをやります。よかったらいらっしゃいませんか。日時と場所は以下のとおりです。
○月×日 △△:00~
□□区○○1丁目1-3
ゲール・エ・ペ 1105」
そのしたに地図がある。わたしのアパートからさほどはなれていない。お礼と訪問の意志をつたえるFAXを送った。
しかしてイベント当日。
そのマンションの途中までは、しばしば通る道だ。おもて通りからもいけるが、それだとすこし遠まわりになる。わたしのアパートからせまい路地を木造アパートや鉄筋マンション、ガレージにベンツがとまるいえ、トタンでかべをふいたひら屋など右に左に見ながら、奥へおくへと入りこむ。はじめてこのエリアをあるいたとき、あの方向だぞとねらいをさだめても、障害となるいえをまわりこむうちに近みちのつもりが結局遠まわりとなったものよ。いなか育ちのわたしには、おもての通りから奥まったところにぎっしりと住宅がうまっているようすが新鮮におもわれた。わかい女子が夜なかひとりでこの道をあるくのである。わたしとて、いつぼこられて身ぐるみはがされるかわかりはせぬ。いさましいものよ。
道をこちらに折れ、あちらに折れ、坂をくだり、のぼり、おおきくカーブする2車線道路までくる。すぐ左上をこの道と交差して鉄道の高架がはしる。道をわたって右へいけばいつも利用するレンタルビデオ店だ。というか、いつもビデオのタイトルだけ見てまわって借りずに帰るいやな客だが。なぜなら、店内をうろうろするうちに気持ちがなえてしまうのだもの。今日は高架と並行して建設中のあたらしい道路にはいる。それが途切れるところ、工事が中断され、そのさきはまだできていない。そこを左へ。バイクなど乱暴ものがびゅんびゅんと入ってこないようにホッチキスのしん型のポールをたがいちがいに埋めこんだところから高架をくぐる。高架のしたに初老のおとこ。地面にしりをつき、あしをまえに投げ出してマンガ週刊誌をひろげている。彼をのこして高架をくぐると、すぐ左に高いマンションがある。
それがゲール・エ・ペ。1、2、3、……、15階。ブルーだかグリーンだかなんというのやら迷う色のかべ。コの字にたっている。コのうえの棒と並行して鉄道が、したの棒と並行して4車線道路がはしる。コの字のなかの空間は2階まであり、1階はごみ置き場と駐車場。2階部分のようすは下からはわからない。さくがめぐらされてあり、シュロの木が数本ここからみえる。はしごのようなぎん色のポールのあたまも。老婆がぴょこぴょこと奇妙なあるきでごみを捨てにやってきた。エレベーターはどこかと問うと、黙ってゆびをさす。礼をのべてエレベーターへ通じるドアをあけた。目指す部屋は11階。エレベーターをおりると、コの字のうちがわをぐるりと廊下がつなぐ。廊下のさくからひょいとしたをのぞいた。
プールだ。
ホテルみたいねーとおもいつつ部屋のまえまでくる。表札に
「柊 真治
さくら」
とある。ブザーをおすと、しばらくして少女がでてきた。「どうぞ」となかへ招きいれられる。室内はうす暗く、間接照明がオレンジいろにぼんやりとなかのようすをうつす。廊下のかべに写真があった。地の果てスタジオの出口でうかんできたイメージ。あの岩山だ。写真のしたにタイトルがある。「ホワイトハウス遺跡/アンセル・アダムス」。見ていると「こちらです」とうながされた。リビングに案内され「かけておまちください。まもなくはじまります」といわれる。かけたソファの正面にスクリーンがある。ソファのうしろにスライド映写機。少女がほうじ茶をはこんできた。室内に古着屋のにおいがする。香でもたいているのだろうか。
ゆっくりと照明がおちた。背後でカシャリという音がしてスクリーンに文字がでる。
「いらっしゃい」
ぼっとあかるくなったスクリーンのわきに彼女がたっている。手にあるリモコンらしい装置のボタンをおすとカシャリ
「たのしんでいってください」
彼女はスクリーンをはなれてわたしのとなりにすわった。彼女を間近でじろじろ見たいなとおもったが、カシャリとまたフィルムが入れかわった。十分な間をおいてカシャリ、カシャリと画面がかわっていく。それは奇妙な風景であった。
ペンキがはげ落ち、さびてぐにゃりと折れまがったガードレール。それにからまるつた。ぼうぼうと繁茂する野草。くちたナワと砂ぼこりにまみれた軍手がぺろりとたれている……カシャリ/くろい板ばりのかべに木目とふし穴、かべ一面をはうつた植物はオレンジ色の花をつけている。太陽がのきをかすめて葉っぱをいぬく強い光線をはなち、そこだけみどりをしろくとばしている……カシャリ/ふるい切りかぶ。こけむしてつたもからまり、周囲にぼうぼうと繁茂する野草。見下ろせば川もを樹木のかげがうす暗くする……カシャリ/用水路をふさぐコンクリートの四角いふた。かどがぱきりとかけている。風化してでこぼこした表面……/くもりがちにうす青いそら。広葉樹のてっぺんあたりのえだと電柱のあたまをすっぱり切りとるトリミングで……
彼女自身の手による写真であろう。彼女が世界から切りぬいた時間と場所と空気。それが彼女のことばでこえで、マグネットの文字をならべてわらっていたこえ、サディストな女王さまのこえ、感情のない無機質なこえ、それらすべてであり、やがてはなれの果て、この人間砂漠、かれてすたれて銀座のやなぎ、くしゃりぽろぽろくずれていくよアッシャー家の崩壊、こここ……やや、ほうじ茶に一服もられたか、はてまた香によったのか、現実とよばれているこの世界にいたはずの自分がべつの世界へずれていく。いままでいた世界はすべてつくりものではないかという根拠のないうたがいがほんとうらしくおもえてくる。そう感じている意識はどこにいるのか。それまであったことがすべてうそのようにぺりぺりばがれ、いま立っている場所の不確かさ、うすっぺらさはなにごとか。なにもの重要ではなく、あれとこれとの区別もつかぬ。わ切りにされた脳みその写真を見るごとく、記憶のわ切りを見ているのかもしれぬ。ふとした生活の一場面でやにわにおもい出すことなどとは、けっして大感動の印象深い場面などではなく、なあにゆえそのようなつまらないことをとおもうような些細なことにほかならぬ。このいってみれば、とるにたらぬ些末な記憶のつみかさねこそが人間であろう。空疎ともおもえるなんの変哲もない風景。余人にはたいくつでしかないはずのものがなにごとかを訴えている。「そばにいてくれるだけでいい。だまっていてもいいんだよ」などという流行歌な世界をゆめ見ていたのか。むくわれないと嘆き、はらを立て、なめやがって、なさけない、だめ人間だもの、どいつもこいつもあほづらさげて、この役たたずが、死ぬにも死にきれず、ないかできることはありませんかね~、なにかやらせろーとデモ行進でもすっか、あまえてんじゃねーよ、なんのためにうまれてきたのだ、またここまで生きたのだ、意味ないじゃん、なにかをせねば、ただのたれ死んではつまらぬ、これらの不安、心配、やるせなさ、だらしなさ、ぼよよんなこころもちなどあっちゃこっちゃにふん尿まき散らすごとくはき散らしてみるか、あー恥ずかしい、はずかしいけれども、そこはひとつ技だの芸だのでまぶしてころがしてつつんで、ほほー芸術よのーと感心させまくらちよこっつーてねー。で、その技だの芸だのってのがそうおいそれと身につくものでもないわいな。そこで挫折かよ。ほかになにかできるわけでもなし、おざなりな悪臭ぷんぷんたる表現とやらをちゅるりちゅるりとたれながすのよ、ほほほ。それでおもいつきたるパフォーマンスといいますれば、荒物屋にて便所スリッパを買い入れ、リュックのあみあみの部分にしのばせる。リュックはひとごみでも邪魔にならぬように背ではなく胸にだき、コアラ状態。せまいみちのまんなかに自転車をならべ数人にて立ちばなし、たばこの灰を親ゆびにてはじくようにおとすものの後頭部などめがけ、すかさずとりい出したるスリッパでぱっこーんと一発はりとばす。歩道にのりあげるバイク、ぶるるんとなお走るもの、正面よりバッティング姿勢でふりぬくべし。込みあった電車の車内にてひとをかきわけだまってぶっちょうづらでおりるもの、ちょいとひとことおわすれですがな、あたまの奥で成敗代行をなりわいとするものたちのテーマ音楽がながれて……。
そのとき、となりにすわっていた彼女が、手のひらにのせたスライドのリモコンをわたしにさしだした。スクリーンには
「ミサイル発射ボタン」
わたしはしっている。マンションの2階のプールの水がざざーっと2つにわかれて、なかから発射台があらわれる。それはまっすぐそらへとびだす。噴射口からもくもくあふれでる煙は、定規でひたようなくるいのないまっすぐでそらへぐいぐいのびていく。そのまっすぐは彼女の唇のようにうつくしい。
リモコンをのせた彼女の手のうえに、わたしはそっとおのれの手をかさね




