ドストエフスキーのキャラクターの描き方 ー「カラマーゾフの兄弟」のフョードルを例にー
何度目かの「罪と罰」を読み終わったので、江川卓訳の「カラマーゾフの兄弟」を読み始めた。
「カラマーゾフの兄弟」は序盤はつまらなく、中盤から一気に面白くなるという定評だが、私はドストエフスキーについては色々調べて考えたという事もあって、興味深く読んでいる。
「カラマーゾフの兄弟」の冒頭はゾシマ長老というキリスト教の長老の元にカラマーゾフ一家が集まるところから始まる。バフチンの言うカーニバル的な出だしだが、ここでいわばキャラクターのお披露目会が行われる。
最初にべらべらと喋るのがフョードルという色欲に溺れた老人であり、この人物が道化役として出てくる。
フョードルの話そのものは別段面白いものではないが、私はフョードルというキャラクターの描き方を見ていて、既にドストエフスキーらしい人間の描き方が出ているなと感じた。今回はそれについて述べる。
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フョードルはゾシマ長老の前で嘘をべらべらと並べたている。フョードルの知り合いのミウーソフという男が嗜めるが、フョードルは道化をやめない。
少し前、現実の世界で私は、嘘ばかりつく人間と関わりを持たざるを得ない立場にあった。嘘つきというのは不思議なもので、本人は話している間、それを本当だと思っている。
嘘つきの脳内では絶えず、自己補正機能のようなものが働いているのだろう。それは常に自分を美化したり、自分を誇張したりする事であって、これは嘘つきにあってはほとんど自動的に行われる。嘘つきは年がら年中嘘ばかりついているので、彼の中では嘘は本当になっている。
だから嘘つきは、あくまでもまわりが「嘘つき」と言っているだけで、本人からすれば嘘を言っているわけではない。本人はあくまでも本当の事を言っているつもりである。あるいは、嘘をついたとすれば、嘘をつかざるを得ない状況があって、本人が自発的に嘘をついたわけではない。このような心理的な補正機能が絶えず行使される。
私は嘘つきは、(自分は嘘をついている)という意識は持っていないと思う。少なくとも表面的な意識においては、そうだろうと思う。
というのは、仮に嘘つきがそのような意識を持っているのであれば、嘘つきは絶えず「自分は正しい事を知っているのに、間違った事を言っている」という、分裂状態に陥ってしまう。この分裂状態に人の精神というのは耐えられない。だから嘘つきは自分の言っている事は正しいという洗脳を自らに施す。他人を洗脳する人間というのはまず自らを洗脳にかける。
このように嘘つきというのはあくまでも「自分の言っている事は正しい」というフィクションを絶えず生み出している、と私は考えている。普通の人間は精神の分裂状態に耐えられない。だからそれを一本化する為に「自分の言う事は常に正しい」という自己洗脳が行われる。
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ここまで嘘つきというものがどういう精神状態か、私なりに分析してみたが、フョードルという人物は嘘つきであるにも関わらず、私の言っているような状態になっていない。次はこれについて考えてみよう。
フョードルは、私の言っているのとは逆で「絶えず自分が嘘をついていると知っている嘘つき」である。普通の人間はこの精神の分裂に耐えられないと私は言ったが、これに関してはフィクションなので、耐えられないという事は問題ではない。問題は何故、ドストエフスキーがこのような描き方をしているのかという事だ。
フョードルはゾシマ長老に窘められると、かえって逆上して、嘘をつき、道化を演じてみせる。彼の中には本当は真っ当な人間として人に認められたいという気持ちもあるのかもしれないが、しかし彼は絶えず、自分自身に対して素直になる事を警戒している。
ドストエフスキーの描く登場人物、特に主要な人物というのは「素直になる」という事に対して極度に警戒している。「素直」になるくらいなら自殺した方がマシ、人を殺した方がマシ、といった具合の人物である。
これは「罪と罰」のラスコーリニコフに容易に認められる。ラスコーリニコフは「意地になって」二人も殺してしまう。「悪霊」のスタヴローギンも、高僧チホンと対決した際に、自身の心が素直な心情を吐露してしまった事に対して、自身で激昂している。
フョードルは道化として人から指摘されると、「なにくそ」という天邪鬼な気分になって一層、道化を演じる。しかし、これは普通の小説の普通の道化とは全く違う存在である。
普通の小説の普通の道化とは、単に彼が「そういう人」だと考えられている。怒りっぽい人がいたら、その人は最初から「怒りっぽい人」であり、根暗な人がいたらその人はずっと「根暗な人」である。道化の場合、彼はただそのままに道化なだけだ。キャラクターの描き方は一元的だ。
ドストエフスキーの場合にはキャラクターが二重化されている。というのは、フョードルは「自らが道化だという意識を持って、あえて道化を演じている」からである。
この事を逆に考えると、フョードルはその気になれば道化をやめる事が可能だという事だ。これは重要なポイントと私は考えたい。
なぜなら、この事を哲学的に考えるならば人間の自由性の問題と関わってくるからだ。
怒りっぽい人が単に怒りっぽいのであれは、その人には自由はない。彼は作者の手によって「怒りっぽいキャラクター」として描かれており、自分の力で自分を変える事ができない。このキャラクターは「怒りっぽい事」を自らの意志でやめる事ができない。
怒りっぽいキャラクターが仮に、急に性格が変わったとしたら、それはその一元的なその人の性格が変わっただけである。その場合は、例えばそのキャラクターの色が赤だとすると、そこに別の色を塗りたくって色を変えたのと同じような効果になる。キャラクターの一元性はそのままで、ただキャラクターの性格が変わったに過ぎない。
一方で、フョードルのようなキャラクターが、道化をやめたとすればどうだろうか。
この場合、フョードルにはそもそも「道化をやめる可能性」が存在していたという事になる。というのは、フョードルは意識的に「あえて」道化をしていたからであって、その「あえて」をやめれば彼は道化でなくなる事は可能だからだ。
これは、そもそも人間というのが無私の、あるいは虚無としての自己意識を持ち、それ故に人間は本源的に自由である、あるいは自由でなければならないとするドストエフスキーの哲学の反映と考えていいだろう。
ただ、ここからが重要なところであるが、ドストエフスキーは人間の自由性に可能性や素晴らしさを見出しているだけではない。ドストエフスキーはその限界をも描こうとしている。
これはフョードルのようなキャラクターでは徹底して描かれないが、「悪霊」のスタヴローギンや「罪と罰」のラスコーリニコフのようなキャラクターにおいては徹底して描かれる。
どういう事かと言うと、そもそも人間にとって「素直」とはどういう事なのか、いや、素直である事は可能なのか、という問いである。これは小林秀雄も言及している。
フョードルは仮面を被っている。スタヴローギンやラスコーリニコフも仮面を被っている。それでは仮面を脱げば、その人はそのまま「素直」なのだろうか。
しかしそもそも人が他者に対して見せる顔とは全て仮面に他ならないのではないだろうか。この事がドストエフスキーの小説では深刻な問いとして提出されている。
この事が一番探求されているのは「悪霊」だろうが、「悪霊」のスタヴローギンは自らの仮面を脱ぐ事ができずについに自殺する。彼は本当は自らの素顔を人々に見せ、人々に自己の魂を許してもらおうとしていた。ところが彼の意識はそれを許さなかった。
そのような、自己の罪の告白、人々へ自己の内心をさらけ出す事、そのような事をすれば、それをした瞬間に、そのような「素顔」が即座に外の空気に触れる事によってそのまま「仮面」に変貌する事、彼はおそらくその事を知っていた。
彼が自死するのは一つには、ついに彼の内心が他人と分かち合う事は不可能であり、どれだけ仮面を取り替えても真の自己にたどり着けないという絶望が原因であっただろう。
(反対に、仮面を脱ぎ去る事ができたとされるラスコーリニコフは、仮面を脱ぎ去ったあとには人間的な描写はされなかった。この場合、仮面を脱いだラスコーリニコフの描写はそもそも不可能だったと考えるのがわかりやすい)
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フョードルに戻って考えてみよう。
まず、ドストエフスキーのキャラクターの描き方とはフョードルの描き方にあらわれているように、彼の存在が二重になっているという事だ。
それは人間という存在が自己意識という自由を持ち、自己を選択可能だという本質から来ている。彼は道化にもなれるし、僧侶にもなれるかもしれない。
しかし同時に彼は、何者かにならなければならない、他者に規定された何者かとして生きなければならない、ここにドストエフスキーらしい悲劇が現れる。
他者に規定された自己とは例えば「金持ちの社長」とか「優しい母親」とか、そうしたものである。ネットで氾濫する言説を見ると、人がいかにこうしたレッテルを愛しているかがよくわかる。こうしたレッテルが延々と語り続けられるのは、人々は他者の中にある自由、自己意識という自由を恐れているからだと私は思う。同様に彼らは自分の中にある自由も恐れている。
他者というものが本質的に自由であり、自分達の理解から逸脱していくという事実を人々は恐れている。反対に、人々は自分達が崇める偶像には全く自己意識の存在しない人形のような言動を求める。裏がなければ安心できるからだ。
ドストエフスキーの小説では、このような「他者の理解という拘束」に対する反抗が行われている。これは生死を賭けた戦いである。他者の理解とは自己というものを規定し、自己を何者かに限定する暴力に他ならない。
「理解という暴力」に抗する為にドストエフスキーのキャラクターは、死力を尽くして演技をする。その演技によって他人が死のうが自分が死のうが関係がない。他人に「理解」され、自己の自由を殺されるよりは物理的に死んだ方がまだマシだからである。
ドストエフスキーの小説ではキャラクターはこのようにして作品世界の中を生きている。
それではこの事は、私が先に述べたような「嘘つきは自らの言っている事を正しいと思っている」とはどう繋がりがあるのだろうか。最後にこれについて述べてこの文章は終わる事にする。
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私は現実の嘘つきは、自分の言っている事を正しいと信じている、と書いた。しかしフョードルはそうではない。フョードルは嘘だと知っていながら嘘をついている。これは矛盾である。
となるとドストエフスキーは現実を描写していないのだろうか?
実際には私はドストエフスキーは、現実の深い部分を描写した為にこのような事態になっていると考えている。
この事はドストエフスキーが「私は写実派」だと語った事と関連している。またショーペンハウアーの「芸術は自然の言わんとする事を言う」という芸術観とも一致する。芸術は現実の奥にある真実を描くのだ。
どういう事かと言うと、現実の嘘つきも、その無意識の奥深くにおいては自己が嘘をついている事を知っている。
彼もまた自己意識を持ち、本来的には自己を選択可能なのだが、ほとんどの人間はそれほどまでに自己というものを内省して生きていない。それ故に普通の人はみな一元的な「性格」というものを持っているようにみえる。
しかし実際には、人間の奥底には自己意識という自由があり、これが現実に外部に表れ出る言動と差異をつくり、この差異がドストエフスキー作品においては絶えず問題となる。だが、この差異は普段の我々においては我々の意識の巧緻によって一元的なものに均されている。
我々は本質的に自由である。だがこの自由とは人々が漠然と想起する、「素晴らしい自由」ではない。我々は自由であるにも関わらず、一人の人間として仮面をつけて生きるしかない。というより、一人の人間が生きるとはまさに仮面としての自己を生きる事なのだ。
他人の心は常に他人のものであり、他人の心を所有する事はできない。私達が所有できるのは他人の仮面でしかない。
自己はたしかに自己の心を所有しているが、これを他人と分かち合う事はできない。分かち合う事ができるのはあくまでも心の反映としての仮面でしかない。
ドストエフスキーの登場人物は深刻なジレンマに陥っている。仮面ではなく、自らの自由な心のままに生きたい事、自らの一番大切な心を他人に理解してもらいたいという事。これがジレンマの一つの極を形成している。
だがもう一方で、この人物は自分の心が他人に理解され、所有された瞬間に、心は死物となり、自由を奪われたただの仮面になる事もよく知っている。またこうした人物は同様に他人の心を所有したいと思うが、他人の心もまた所有した途端にそれは死物=仮面となる為、他人を所有する事に対する恐怖も存在している。
この、内なる自己と外に現れる他者としての自己とのジレンマがドストエフスキーのキャラクターにおいては描かれている。
フョードルが道化を演じざるを得ないのも彼がそのような人物の一人だからだ。おそらくフョードルにおいてもその深い部分においては、やにさがった俗物としてではなく、自らの素直な心を吐露して真人間になりたいという願望があるのだろう。だが、この願望が意識の表面に出てくるやいなやフョードルは自らの願望に反抗し、あるいは反抗しているとみせつける為にまた道化を演じる。
「カラマーゾフの兄弟」という作品をシェイクスピア的な悲劇と考えると、フョードルのジレンマに陥った道化的演技がこれから起こる悲劇の予兆となっている。フョードルは自ら道化である事に対して解決策を持たない。彼は他人を巻き込みながら道化であり続けるしかない。
この出口のない暗い牢獄が「カラマーゾフの兄弟」という作品の悲劇の予兆を作り出している。「カラマーゾフの兄弟」はこうした冒頭から始まる。そして実際にフョードルは殺害される。自己と他者の間のジレンマは他のキャラクターに受け渡される。その中で一番深刻な劇を描くのは次男のイワンだが、これについては機会があれば、また別の文章として書くかもしれない。
※知っている人は当然想起されるだろうが、この文章で述べている事はミハイル・バフチン「ドストエフスキーの詩学」を参考としている




