EP.07
その人はストロークを繰り返していた。
右足で氷を蹴る。体重が左足に移る。呼吸するように蹴り出していく。
シャッ、シャッ、シャッ。ブレードが氷を撫でる音。静寂に染み込んでいく。
深いエッジ。一蹴りで伸びる距離が長い。無駄な力が、どこにもない。
コーナーでクロスオーバー。左足が右足の前を交差し、膝が沈む。
重心が内側に傾いて、遠心力と拮抗する。
加速してターン。前向きから後ろ向きへ。
肩が先導し、腰が追いかけ、足が最後についていく。流水のように。
十七年前にテレビで見た少年は、もういない。
でも、滑りは変わらない。いや——もっと深くなっている。
その美しさに、声が出そうになった。
スピードを上げ、コーナーを回る。
ブレードの軌跡が、氷に白い弧を刻んでいく。
助走に入った。
俺の背筋が伸びた。
知っている——この動き。俺は何千回と見てきた。
右足のバックアウトに乗る。
左足が後ろに引かれる。
上半身が、わずかに前傾する。
——トリプルトウループ。
助走のスピードは十分。軌道も正確。
踏切に向かう姿勢に、無駄がない。
跳べる。この入り方なら。
その人の膝が曲がった。
腕が引かれ、体重が右足に乗る。
次の瞬間、空へ跳ぶはずだった——。
その人は、跳ばなかった。
完璧だった。スピードも、角度も、タイミングも。
なのに——なぜ。あの入り方なら、跳べたはずだ。
膝が——震えている。
怪我か?いや、違う。怪我なら、あんな滑りはできない。
さっきまでのストローク、ターン、クロスオーバー。どれも生きていた。
じゃあ、なぜ。
その人がそのまま弧を描いて流れていく。スピードだけが、静かに消えていく。
また、助走に入った。
また、ターン。
また、踏切の姿勢——完璧な姿勢だ。
また、止まった。
三度目。俺の身体が強張る。
四度目。拳を握りしめていた。
——技術じゃない。身体でもない。
あの人は何かに止められている。俺には見えない何かに。
五度目。あの人の肩が大きく上がり、ゆっくりと落ちた。
『跳べ』
声が、出た。
——跳べ。
『跳んでくれ』
唇が、勝手に動いていた。
分析はもういい。
見せてくれ。
あの美しい跳躍を。
十七年前、テレビの向こうで俺の人生を変えた、あのジャンプを。
次の瞬間、その人の膝が氷に崩れ落ちた。
鈍い音が、リンクに響いて消える。
十数メートル先。氷の上。両手をついて、頭を垂れている——。
氷に許しを乞うように。肩が大きく上下している。
息が荒い。白い吐息が、冷たい空気に溶けていく。
遠い。なのに——胸が、締め付けられた。
——俺はあの人を知らない。
跳べない恐怖も。
引退した後も、一人でここに来る理由も。
何も、知らない。
でも、一つだけ。
報われなくても、向き合い続ける苦しさなら——
——知っている。
気づけば、立ち上がっていた。
——あの背中へ向かって。
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