EP.06
深夜の大阪は、息を潜めていた。
ホテルを出ると、冬の空気が頬を刺す。
白い煙が、街灯の光の中をゆっくりと昇っていく。
人通りはない。濡れたアスファルトが、街灯の光を反射している。
遠くでタクシーのヘッドライトが近づいてくる。
手を上げるとタクシーが止まった。
後部座席に滑り込む。シートが冷たい。
「中央体育館まで」
自分の声が、妙に小さく聞こえた。
会場に着くと夜間出入口の前で、タクシーを降りた。
ガラス扉の向こうに、顔なじみの警備員の姿見えた。
警備員が顔を上げ、俺を見て会釈をした。
ただそれだけ。数年も顔を合わせていれば当然か。
サブリンクへの通路に足を踏み入れる。
照明は落ちていた。非常灯だけが、等間隔に緑色の光を落としている。
壁と床の境界が曖昧で、天井が低く感じる。
空気が重い。
昼間は選手やスタッフで溢れる通路が、今は静まり返っている。
通路に自分の足音だけが響く。
一歩ごとに、何かが剥がれ落ちていく。
世界王者。
五連覇。
金メダリスト。
全部。
踏みつけるように先に進む。
目を閉じてサブリンクの扉に手をかけた。
金属の冷たさが掌に染みた。
重い扉が、抵抗するように軋む。
冷気が顔を撫でる。
金属と水が混ざったような、冷たくて清潔な匂い。
十歳の頃から、ずっと傍にあった匂い。
母さんに手を引かれて、初めてリンクに立った日も、この匂いがした。
たくさん転んでも立ち上がった日も、初めてジャンプを跳んだ日も、この匂いの中にいた。
俺がまだ何者でもなかった頃から、ずっと。
肺の奥まで沁み込んでくる。
目を開けるとまっさらな銀盤が、闇の中から浮かび上がった。
非常灯と保安灯の光が氷に反射して、青白く、静かに輝いている。
観客席は影に沈み、リンクだけが淡く発光しているように見えた。
誰もいない——俺だけの世界。俺だけの。
そう思った。
瞳孔が開き、目が闇に馴染んでいく。
暗闇の中の輪郭が、少しずつはっきりしてくる。
青白い氷の上に、影が滲んだ。
——違う。影じゃない。
人だ。
深夜のリンクで、誰かが滑っている。
リンクを照らすのは保安灯の薄明かりだけ。
顔は暗がりに溶けて見えない。
リンクサイドのベンチに、音を立てないように腰を下ろす。
息を殺した。見つかりたくない。
もう少しだけ、この光景を見ていようと思った。
その人は、リンクの中央にいた。
背が高い。手足が長い。肩幅は広くない。
顔は——見えない。保安灯の薄明かりだけでは、輪郭しか分からない。
——こんな暗さで、滑っているのか。
非常灯の薄明かりだけ。
氷の状態も、壁との距離も、俺にはほとんど見えない。
長い腕が、ゆっくりと弧を描いた。
闇の中で、その腕だけが浮かび上がっている。
非常灯の光を受けて、時折その人物を淡く光らせる。
身体が傾き、重心が移る。足が氷を蹴る。
かすかな音が聞こえる。ブレードが氷を撫でる音。
静寂の中に、それだけが響いている。
俺は——目が離せなかった。
この人の滑りには、音がない。
氷の上を滑っているのに、氷に触れていないみたいだ。
ストロークを繰り返している。
自然だった。歩いているような深いエッジ。
一蹴りで伸びる距離が長い。
無駄な力が、どこにもない。
コーナーでクロスオーバー。
左足が右足の前を交差する。
膝が深く沈む。
重心が内側に傾いて、遠心力と拮抗する。
身体が倒れそうなほど傾いているのに、倒れない。
氷と身体が、見えない糸で繋がっているみたいだ。
加速してターン。
前向きから後ろ向きへ。
肩が先導し、腰が追いかけ、足が最後についていく。
流水のように、淀みがない。
川の水が岩を避けて流れるように、その人の身体は氷の上を流れていく。
——銀盤と、呼応している。
この人は——氷そのものだ。
氷がこの人を動かしているのか。
この人が氷を動かしているのか。もう区別がつかない。
どれくらい見つめていただろう。
気づけば、シルエットがはっきりと見えるようにまで目が慣れていた。
——吸い込まれる。
この人は——"本物"だ。
俺は技術では、誰にも負けない自信がある。
世界中のスケーターと戦ってきた。
でも——これは、技術じゃない。
この滑り。
この動き。
この重心の取り方。
——息を呑んだ。
俺はどこかで見ている。
俺は――、この滑りを何千回も——。
非常灯の灯りが、横顔を一瞬照らした。
黒い髪が、汗で額に張り付いている。
その光は、一瞬で通り過ぎた。
——心臓が高鳴っている。
『氷室...蓮...?』
吐息が、名前になった。
二〇一七年、世界選手権金メダリスト。
全日本選手権三連覇。
——十七年前、俺がスケートを始めた理由がそこに居た。
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