EP.05
祝勝会が終わったのは、十一時を過ぎた頃だった。
部屋に戻り、ドアを閉める。廊下の光が途切れ、暗闇が広がる。
カーテンの隙間から大阪の夜景が広がっている。
ベッドに腰を下ろし、倒れ込んだ。
スプリングが軋む。シーツが冷たい。
暗闇の中で、スマートフォンを取り出した。
―――着信履歴。
「藤原遼」。幼馴染だ。
昔は同じリンクで滑っていた。今は実業団でコーチをしている。
折り返し連絡すると数コールを経て繋がった。
「おー、陽。五連覇おめでとう」
第一声が明るい。いつも通りだ。
遼は変わらない。昔からそうだった。
俺が全日本ジュニアで優勝した時も、世界ジュニアで金を取った時も、遼は同じようなトーンで「おめでとう」と言って笑ってくれた。
「ありがとう」
「テレビで見たぞ。相変わらず完璧だったな。四回転四本、全部決めやがって」
「……ああ」
「なんだよ、テンション低いな。」
「遼」
「ん?」
「お前さ、滑るの辞めて——後悔したことある?」
沈黙。
「……何だよ、急に」
「いや。なんとなく」
「後悔か。——あるに決まってるだろ」
遼の声が、少しだけ低くなった。
「お前の才能に、俺は手が届かなかった。それは認めてる。三回転が限界だって分かった時、俺は——泣いたよ。一人で」
「……」
「でもな、辞めて分かったこともある。俺は俺で、今の場所が嫌いじゃない。教え子が跳べるようになった時、自分のことみたいに嬉しいんだ」
遼の声が、少しだけ明るくなった。
少しの沈黙の後。
「…なあ、陽。お前が聞きたいのは、そういうことじゃないだろ」
「……」
「お前って、いつも何か足りない顔してる」
——見抜かれている。
「俺から見たら、お前は何でも持ってる。なのに——いつも、どこか遠くを見てる」
「……」
「どうせ俺には分かんないって思ってるだろ」
「……悪い」
「——謝んなよ」
「お前は自分を追い込んでここまでやってきたんだ。どんな決断をしたとしても俺はお前の味方だよ」
ただただ遼の声が、優しく心に響く。
「……ありがとう」
「——寝ろ。明日も取材だろ」
「あぁ、おやすみ」
通話が切れた。
体を起こし、カーテンを開ける。
そこには大阪の夜景が広がっている。ビルの光。車のライト。飛行機の点滅。
俺は——なぜスケートを続けているんだろう。
十歳で始めた。最初は楽しかった。
氷の上を滑る感覚。風を切る感覚。跳ぶ感覚。
初めて二回転を跳べた時、俺は泣いた。嬉しくて。空を飛んでいるような気がした。
努力を繰り返すうちに三回転を跳べるようになった。四回転を跳べるようになった。
いつからだろう。跳ぶことが「当たり前」になったのは。
勝つことが「義務」になったのは。
俺は——スケートが好きだったはずだ。
でも、今は——期待に応えなければならない。
スポンサーのため。連盟のため。ファンのため。コーチのため。
俺のためじゃない。いつから、こうなったんだろう。
窓に映る自分の顔を見た。疲れた顔。虚ろな目。
——あの人は、今どうしてるんだろう。
俺は目を閉じた。十歳。熱があった。
学校を休んで、ベッドの上でテレビをつけた。
ブラウン管が、青白く光った。
熱に浮かされた頭で、ぼんやりと画面を見ていた。
全日本ジュニア、と実況が言っている。
よく分からないけど、氷の上で誰かが滑っている。
チャンネルを変えようとした。
リモコンに手を伸ばした——その時。
一人の少年が、跳んだ。
くるくる、と回った。何回転かなんて分からない。ただ——すごかった。
人間って、あんなに回れるんだ。空を飛んでる。
鳥みたいだった。いや、鳥よりきれいだった。
着氷した瞬間、少年が笑った。
——楽しそうだった。
誰のためでもなく滑って、跳んで、笑っている。
白い衣装。黒い髪。汗で額に張り付いた前髪。頬が紅潮している。息が白い。
——きれいだ。
その姿に心臓が撃ち抜かれた。
顔が熱い。熱のせいじゃない。
俺もああなりたい。俺も飛びたい。俺もあんな顔で笑いたい。
気づいたら、ベッドから起き上がっていた。
リビングに走った。足がふらふらした。でも関係ない。
「お母さん!」
母さんが振り向いた。エプロンをつけて、夕飯の準備をしていた。
「陽? 寝てなきゃダメでしょ、まだ熱——」
「スケートやりたい!」
「……え?」
「今ね、テレビでね、すっごい人がいたの!」
俺は母さんのエプロンを両手で掴んだ。
「氷の上でね、くるくるって回ってね、ばーって降りてきてね、すっごい楽しそうに笑ってたの!」
息が切れた。言葉が追いつかない。伝えたいことが多すぎる。
「俺もやりたい。ぜったいやる。ぜったい続ける」
「でも陽、熱が——」
「治す! すぐ治す! 明日には絶対治す!」
無茶苦茶なことを言っている。分かってる。でも止まらなかった。
「お願い、お母さん。お願い……」
涙が出た。なんで泣いてるのか、自分でも分からなかった。ただ、やりたかった。
あの少年と同じ氷の上に立ちたかった。あんな風に笑いたかった。
母さんが、しゃがんで俺と目を合わせた。
熱い額に、ひんやりした手が触れた。
「……そんなにやりたいの?」
「うん。ぜったい」
母さんが、少しだけ笑った。
困ったような、でもどこか嬉しいような顔だった。
「じゃあ、約束ね。熱が下がったら、連れてってあげる」
「ほんと!?」
「ほんと。でも今日は寝なさい」
「うん!」
俺はベッドに戻った。
目を閉じても、さっきの少年の姿が浮かんでいた。
くるくる回って、ばーって降りてきて、楽しそうに笑う顔。
——いつか会ってみたいな。そうして目を閉じた。
三日後、熱が下がった。
俺は母さんの手を引っ張って、近所のスケートリンクに向かった。
初めて氷の上に立った時、俺は転んだ。
何度も転んだ。膝を打った。手をついた。冷たかった。痛かった。
——でも、楽しかった。
あの少年も、最初はこうだったのかな。
そう思ったら、また立ち上がれた。
——十七年前の記憶だ。
目を開けて時計を見た。午前一時を過ぎていた。
あの頃の俺は、何も怖くなかった。転んでも痛くても、楽しかった。
——じゃあ今は?
起き上がりスポーツバッグからスケート靴を取り出す。
エッジに指を這わせた。昨日研いだばかりの刃が、指先を冷たく撫でる。
「……行くか」
滑りたい。理由は分からない。
ただ——このまま眠れない。このまま朝を迎えたくない。
氷の上に立てば、何か変わるかもしれない。
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