ほら吹き地蔵 第十一夜 こいつばかりは分からない
【1】
「さとり」と言う名の妖怪がいた。
その名の通り、何でも悟ってしまう。見通してしまう。
明日の天気や株価予想ならシャレで通るが、さとりは人類滅亡後の世界まで悟っていた。これじゃ、やりきれない。
悟った結果のさとりの口癖が「無駄だ。無駄だ。」
当然、人間社会にさとりの居場所はない。
と言うより、さとりは人間の顔なんて見たくもなかった。
さとりは山奥に隠れた。
下心を持った「さとりハンター」が時々やって来たが、逃げてしまえばいいだけの話だった。敵の出方なんて、とっくの昔に悟っていたのだから。
もちろん自衛の、攻撃の、祟りのと言った「無駄な」事はしない。
さとりは喜びや怒り、哀しみ、楽しみと言った心の起伏とは無縁だった。
別に「悟りの境地」に達していた訳ではない。
絶対の自由と絶対の孤独に置かれていただけだ。
【2】
そんな、ある日、地蔵堂の古狐が誰かを連れてやって来た。
「狐が来る」と言う所までは悟っていたが、二人連れとは想定外だった。
そもそも、何をしに来たのか全く分からない。
「これだから神仏は困る。真実からも虚偽からも超越していたら、悟りようがないじゃないか。」
そう。さすがの「さとり」も「悟り」を悟る事はできなかったのだ。
古狐はニヤニヤ笑いながら近づいて来た。
「おい、さとりさんよ。今日のオレの晩ご飯はなんだ?」
「すっぱいブドウだよ。この辺りには、あいにくエサになりそうな物が他にない。イライラしながら、すっぱいブドウの粒を丸飲みしている、おまえさんの姿が見える。食べ物は良く噛めよ。お腹をこわすぜ。」
「知らなくてもいい事を、よくもまあ教えてくれたな。質問したオレもオレだが。
だったら聞くが、この女の子は何者なんだ?」
「お地蔵さんの差し金だろ? 『この子をしばらく預かってくれ』とか何とか言って、オレに反省を促すつもりだ。」
「こいつぁ驚いた。仏法まで悟れるようになったのか?」
「悟るまでもない。ただの常識論だよ。おとぎ話のお約束だよ。」
「この子は悟りの射程外か。だったら、いいヒマつぶしになるじゃないか。
それじゃお言葉に甘えて、この子を置いて行くぜ。体の弱い子だから、目を離さないでやってくれよ。『何月何日何時何分、この子は高熱を発する』と分かっていても、それにちゃんと対応できるか否かは別問題だからな。この子、手がかかるぜ。」
「そう言うと思ったよ。」
「それも常識論なのか? それとも悟りなのか?」
言うだけ言って、狐は消えてしまった。
【3】
なるほど狐の言った通り、実に手のかかる子だった。
病気の事じゃない。そんな物は簡単に対応できた。
薬草で治るなら、あらかじめ薬草を摘んでおき、医者が必要なら、あらかじめ病院の玄関先で医者を待ち伏せて拉致し、手術が必要なら、あらかじめ医者を脅して手術室を確保しておけばいいだけの話だった。
参ったのは、この子が自分からは何もしようとしない事だった。
自分を鎖している訳じゃない。喜怒哀楽の感情はあるのだ。何よりも、大きな悲しみを抱えている事はすぐ分かった。その原因も(常識論のレベルでだが)およそ見当はついた。
だが、知性や感情があっても意志が無い。
「これをやれ」と言えばやるし、イヤな物には「イヤ」と言える子だったが、草が風でそよいでいるようなもので、わざわざ悟るまでもなかったのである。
「めんどくさいなあ」と思いつつ、さとりは、この子と向き合った。
お地蔵さまからの預かりものを粗末に扱う訳にも行かなかったからである。
手探りで、焦らずゆっくりと、率直に、だが控え目に、相手の反応を良く見極めながら、さとりはこの子と心と心を通わせる事にした。
実に数百年ぶりの事だった。
そうする必要が無きゃ、そうしたいとも思わなかったろう。
一番効果があったのは、一緒に遊んでやる事だった。
最初は頭を使わなくてもできる遊び。砂場遊び、水遊びがウケた。
なにしろ保護者が「さとり」だから、子どもの安全対策はバッチリだった。
やがて、その子の内部に好奇心が芽生えて来たのが分かった。これも悟るまでもない事だった。
積み木を与えたら箱庭みたいな物を作った。
クレヨンを与えたら、画用紙を真っ黒に塗りつぶした。
粘土を与えたら怪物みたいなのばかり作った。
この子に何があったのか、悟るまでもなかった。
そんな地道な取り組みを一年も続けた後、その子は初めて、さとりに、おねだりをした。「散歩に連れて行ってくれ」と言ったのだ。
あいにくの雨だったが、そんな事は悟っていた。
あらかじめ傘とレインコートと長靴を用意していた。軽くて蒸れない化学繊維のレインコートと、動物のキャラ入りの傘と長靴を。
子どもは、とても喜んだ。初めて、さとりに笑顔を向けた。想定外だった。
子どもが笑ったので、さとりも嬉しかった。これも想定外だった。
元気になった子は、世間並みに、さとりを困らせるようになった。
物を壊す。わがままを言う。すねる。嘘をつく。怒る。泣く。そして、いきなり姿を消す。
みんな「悟れる」事だったが、生命身体の危険が無い限り、さとりは何もしなかった。
子どもの反応と成長を楽しんでいたのである。
決して放置していた訳ではない。ダメなものはダメと、何度も言い聞かせた。
最初はきょとんとしていた子が、徐々にだが、さとりの言う事を聞き分けるようになった。
どうも経験値の問題らしい。人間は日々、人間になって行くものらしい。
予想通り、最後の日が来た。
最初から悟っていた事だが、子どもは持病で死んだ。
「祈っても無駄だ」と分かっていたが、さとりは祈らずにはいられなかった。
子どもが死んだら泣いた。死後半年、ずっと泣いた。
【4】
子どものいない生活に、ようやく慣れたら、今度は寂しさが襲って来た。
これまでの、世をすねた「絶対の孤独」とは訳がちがう。
今度のは愛する者を奪われた悲しみ、苦しみなのだ。悟りがどうとか言う問題じゃない。
そんなある日、地蔵堂の古狐が、またもフラリと現れた。
「お子さん、気の毒だったな。お地蔵さまは『薬はもう十分だろう』と言っている。おまえさんが手にしている絶対の自由と絶対の孤独と、どちらか一方を差し出せば、もう片方の問題も解決してやるとも言っている。どっちにする?」
それからしばらくして、さとりはお地蔵の口利きで見合い結婚した。
さとりは自由を失ったが、孤独でもなくなった。
嫁さんも妖怪さとりだったからだ。
さとりとさとりが一緒に暮らせば、悟りの合わせ鏡になる。将棋の「千日手」みたいになる。悟りの無限ループになる。つまり何も悟っていないのと同じだ。何も予想できない。何も予測できない。
予測できない未来は運命じゃないが偶然でもない事を、さとりは良く理解していた。
「まるで普通の人間みたいだな」とダンナのさとりは思ったが、それに不平も不満も無かった。恐れも喪失感もなかった。
明日の天気も分からない人間が、どれほどの愛に包まれて生きているか、愛に守られて生きているか、ダンナのさとりは知っていたからである、あの子のおかげで。
やがて夫婦に初めての子ができた。これも想定外だった。
子どもは授かり物だからだ。