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文字

作者: 縹まとい

 文字を書ける様になったのはイツの事だろう…?


 ソレは余りにも些細なコトで、あまりにも普通すぎて忘れていた。



 書けて当たり前、読めて当たり前。



 でもソレは本当、かな…?



 子供の頃から今まで、一瞬でも疑うことのなかった…こと。


 自分の国の言葉を知っているのは“当たり前”。“書ける”のも“読める”のも極々、普通のこと。


 でも。


 それって、本当なのかな?

 自分の幼い頃のことを覚えてる?


 遊びの中で、ゆっくりと文字や言葉を覚えていったことを。



 意味の持たない線が、いつしか確実意志を伝える手段になったその日を。



 ほんの小さな、些細な出来事。

 余りにも小さ過ぎて記憶にも残らない、極々微かな記憶の欠片。



 憶えてる?



 そんな小さな瞬間に、どんなにか自分の親がバカみたいに喜んだことを。





 ……残念なことに、俺は覚えていない。





 きっと親に褒められた幼い俺は、どんなにか得意になったに違いない。


 なのにその記憶がまるで残っていないのだ。


 当時の俺は、恐らくそれがどれ程重要なことか分かっていなかったから。



 己の意志を伝える言葉を形にする素晴らしさを。

 その手段を持った事実を。



 静かに目をつぶって、意識して呼吸を整える。



 そして再び、己の目の前にある小さな紙切れを見詰めた。

 覚束ない、よろめきながらもしっかりとした線を。

 文字と呼ぶには余りのも拙く、それでもしっかりとした思いを込めた細い線。



 ほんの冗談で、軽い気持で教えた文字。



 誰が分かるだろうか。

 この、感動の域を超えた一瞬の感情を。



 目の前にある、ほんの小さな紙切れ。

 それこそ大人なら直ぐにでも分かる、捨てる気で渡した手で千切ったチラシの裏。


 だがそこにあるのは、もたついた線が描く、たどたどしい『パパ』の二文字。


 情けなくも喉の奥がキュウっと痛み、言葉に詰まってしまった。


 そんな、どこに向けていいのか分からない気持を隣に腰を下した妻に視線で訴える。

 すると…驚くほど優しい笑顔が自分に向けられた。


「パパは教えるのが上手ね」


 反射的に冗談だろう!と心の中で反発する。

 だがそう思いながらも、彼女の言葉の温かさについ目を逸らした。なぜなら普段の自分は、どんなに贔屓目に見たっていい父親と言えないからだ。


 ふと過去にどんなに怨んだか知れない、己の父親に今の自分が重なる。

 『忙しい』が口癖の…命を削って働き続けた無骨な無口な人で……今も変わらない。


 しかも当時を思い出せば、休日に小難しい顔をした父親が子供たちを前に座らせ、なにに対してなのか覚えていないが、姉弟三人に向かって一人一人に『よくやった』や『考えが足りない』などと、一言づつ声をかけていた。

 それは延々と高校を卒業するまで続き、思春期にはかなりうざったく思っていたのは否めない。

 だが、今思えばあれほど父親と面と向かった時はなかったのだ。


 そっけなく無遠慮で、容赦のない一言。

 内心怖くもあり、嬉しくもあった複雑な心境。


 特に父親への反発が強かった時期に、放たれた一言は今でも鮮明に覚えている。


『お前のように…何事にも死ぬ気で取り組まないヤツは、カスだ』


 言われた当時は怒りに任せて家を飛び出した。

 お前に何が分かるんだと、仕事しか能のないお前に一体、俺の何が分かるんだと。


 知りもしないくせに、知ろうともしないくせに!


 だが…本当に知ろうとしなかったのは俺の方だった。

 家族から目を叛けて、父親から逃げるようにフラフラと楽な方へと進んでいた。

 姉が当時望まぬ妊娠でどれ程苦しんでいたのかも、弟がどれほどイジメで苦しんでいたのかも、知っていたのに知らぬフリをしていた。


 そして何より、母親や父親が娘息子の問題にどれ程までに血反吐を吐く思いで苦しんでいたのかを…見ようともしなかった。


 今では多少笑い話になるようになってきたが、どんなに時が経とうとも本当はそんなに軽いモノではない。

 それこそ当時の父親は仕事で無能な上司と反発心旺盛な部下に挟まれ、今の俺ならばきっと舌を噛み切って死んでいるに違いない状況だったのだ。

 それなのに。

 あの人はただ…ただひたすら、家族の為に根気強く耐え、決してその苦しみを唯の一言も洩らす事はなかった。



 己が実社会に出て、初めて父親がいかに強い男だったのかを思い知らされた。



 言われなければ分からない、内心の苦しみをただ一人で背負うなど、今の俺には到底真似できるものではない。


 家族の問題、仕事上の問題…母親の心の苦しみも分からなくもないが…子供を持って初めて俺は父親の苦しみを理解できた。



 守りたいと思う者が、目の前でなす統べなく苦しむ姿…それがそれほど苦しいのかを。



 だが、同時に喜びも理解できた。


 一週間なりのあいだに成長した我が子を前に、埋められないその他の時間を埋めたくて必死に目を凝らす。

 まったく子どもにとっては迷惑千万な話だが、親にとっては涙が目の奥で溜まるほど、子どものどんなに些細な成長ですら嬉しいのだ。


 だが、初めて我が子の小さく小さくか弱い手に、己の指を握られた喜び。

 笑い声を上げた瞬間。

 どれもが胸の奥を知らぬ間に切なさで満たす。これほど何かを守りたいと思ったことはない。


 何も知らなかったのは、俺。


 全ての苦しみから逃れようと、目を叛け続けていたのは俺だった。

 誰が好き好んで週に一度だろうと、痛む心を押さえつけて、褒めるならまだしも…真剣に子どもを目の前に怒りの言葉を吐き出さなければならないのか。


 それは…大事だからだ。


 守りたいからだ。


 それ以上、苦しませたくないからだ。


 最近、晴れて社会人デビューした弟から聞いた話しだが……弟のイジメは近くのコンビニの裏で囲まれ、いつものようにネチネチと言葉でいたぶられていた時、何故か突然現れた父親が巌のような顔で放った一言で嘘のように沈下したのだという。

 弟曰く『俺もちびりかけた…』のだから、相当怖かったのだろう。その時、父親が言ったのは説教でもなく演説でもない、低い声でごく短い言葉を発しただけ。


『力の暴力は痛い。が…言葉の暴力は痛みどころか直接相手の心を殺す。お前らは殺人者になりたいのか』


 そして姉の時は相手の親ではなく、当の男に対し短い一言を投げ捨てたと聞く。


『己の子を殺す苦しみを、お前だけが知らぬとは言わせない。どうしても堕ろさせるならば、病院に己の足を向けて二人で背負え!!』


 俺には考えられないが…その時の男が今の姉の夫であり、その時の子供はすくすくと成長して幸せに暮らしている。


 不思議なものだ。


 だが、どれも父親の心の底から湧き出た言葉の力によるもの。真剣に、必死に我が子を守ろうとして口を突いた言葉なの力なのだろう。

 だからこそ言われた相手の心に鋭く、深部にまで突き刺さる。


 今なら分かる。


 どんな時も父親が俺に向けて放った言葉が、一時の怒りや気まぐれで発せられたのではないと。全て、俺と云う人間をしっかり見た上で言われたのだと。



 子を持って初めて分かる親の愛。



 ふと思い浮かんだ、過去に散々バカにしていた言葉に耳まで赤くなる。


「あー…字も書ける様になったし、どうせならジイジにでも手紙かくかぁ?」


 クスリと耳元に聞こえた妻の声。そして、意気揚々と喜ぶ子供の姿。当の俺は…テレ隠しに不機嫌な顔で頭をバリバリと掻き毟った。


 オレの父親は言葉で俺たち子どもに生きる力をくれた。


 だからこそ、今一度。


 お返しと云う物ではないが、せめて孫の初めて書いた文字という、無情の喜びを感じさせたい。

 母親に送る定期的なメールではなく…手紙としてしっかり、父親の手に握らせてやりたいと思った。


 触れられないものにも価値はある。

 だが、触れられるものにだって、価値はあるのだ。


 その価値を知るのは、恐らくどんな綺麗ごとでもなく、ごく些細な生活の中から生まれるのだろう。


 己の子どもの小さな成長からソレを感じられるように育ててくれた親への恩を思いながら、今一度…自分も子どもに戻って鉛筆を握りたい…と、切に思った。


母の力は偉大ですが、父親の力も大事です。


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