第四話
それから。
彼が出発するのを見送った私は、とりあえず適当な理由をつけてお父様から書庫に立ち入る許可を貰った。以降、いくつかの本を開いてみたけれど、目立った成果は得られていない。
凝り固まった体をほぐそうと、ページをめくっていた手をいったん止めてぐるりと肩を回す。
気が急いている自覚はあった。滅亡の日までまだ時間はあるし、不用意な行動をするべきではないとわかっているのに、何かしていないと落ち着かない。
だってもし私が失敗したら、何千何万という人命が失われるのだ。本来の私は――前世も、今世においても――他人の人生を背負って立てるような人間ではない。ジークには「ひとりでも多く救いたい!」なんて大層なことを言っておいて、その実恐ろしくて仕方がなかった。
『失敗したらどうしよう。出来ることを全部やったとして、それでもなにも変わらずに“あの日”が来てしまったら?精一杯やったから仕方がないなんて、そんな慰めは通用するの?』
次々にそんな不安が生まれて、容赦なく私を追い立てる。他に打てる手はないのか、どんな些細なことでもいいから、できることはないのかと――
「……あ」
そこで、私はふいに思いだした。
前世の知識の一つ、『バタフライエフェクト』という言葉とその意味を。
つまり、蝶の羽ばたき一つで竜巻が起こるように、あるいは風が吹いたら桶屋が儲かるように。
「一見関係がないようなことでも、めぐりめぐれば、大きな変化になりうるかもしれない……?」
――そうだ、さきほどジークとの会話の中で気づいたはずではないか。大切なのは会心の一手ではなく、小さな変化の積み重ねだと。であれば直接シナリオに影響することではなくとも、もっと些細なところ――例えば私の人生とかを動かしたらどうだろう。
クラウディアは物語上の出番こそ少ないけれど、一応は公爵令嬢だ。ならば私の行動で人生が変わる人だっている筈で、なにより。
「少なくとも、リンドブルム殿下の人生をほんの少し変える手札を、私は既に持っている!」
勢いよく立ち上がり、身を翻す。
いままで漁っていた歴史書の棚ではなく、近代史一一高位貴族に関する記録がまとめられた書架へと向かって。
ジークが帰ってきたのは、夕方の事だった。
「おかえりなさい、どう――」
どうだった?と言いかけて、私は口を噤んだ。なぜなら、遠慮がちに私の部屋に訪れたジークが、右腕にきつく布を押し当てていたからだ。
さらに、きっと白かったであろうその布と、それを抑えるジークの手袋に包まれた左手が赤黒く染まっている。彼が軽くない負傷をしていることは一目瞭然だった。
さあっと血の気が引く心地がして、私は慌てて彼に駆け寄った。
「ど、どうしたの、その怪我!?」
するとジークはほっとしたように肩を落として、さりげなく私から一歩分距離を取った。
「汚れますよ」
「ううん、いや、そんなこと今はいいから、とりあえず手当てしなきゃ!いまお医者様を、」
「平気です、この程度。見た目が派手なだけですから……後ほど自分で止血します。さきに報告だけさせてください」
そう言って、彼はいまだ血を流す右手で懐を探り、小さな水晶を取り出した。付着した血をハンカチで丁寧に拭ってからそれを差し出して、使い方はわかりますか、と問いかける。
私は頷いた。
「記録用の魔法具、だよね。お兄様から教わったことがあるから、多分大丈夫」
「それは良かった。こちらに、件の少女からお嬢様宛の伝言が記録されています。どうか、覚悟を決めてからご覧になってください。おれもすぐに戻りますので」
ひとつお辞儀してから部屋を出ていく彼を見送って、残された私は手の中の水晶を見つめる。まだ、心臓がばくばくと跳ねて落ち着かなかった。まさかジークが怪我をして帰ってくるなんて思いもしなかったのだ。彼は私の護衛を一人で任されるくらいには武術に長けていて、今まで何度か彼が戦うところを見たこともあったけれど、その際だって傷ひとつ負わずに相手を制圧していたのに。
そんなジークが、怪我をさせられた。誰に?
「まさか……まさか、ね」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は椅子に戻って腰掛ける。そして大きく深呼吸をしてから、おそるおそる水晶に触れた。瞬間、水晶に記録された映像が頭の中に飛び込んできて、とっさに目を閉じる。
浮かび上がった映像は、予想通り、ヒロインの彼女とジークが接触した場面の記録だった。
薄暗い路地裏に、真っ白なワンピースに身を包んだ少女立っている。
肩口で切り揃えたふわふわの髪に、華奢な白い手足。彼女はスカートの裾を軽やかに揺らして振り返り、“こちら”を見た。
瞬間、ぞわりと背筋が粟立つ。この映像はジークが記録したもので、だからきっと彼女の視線の先には彼が居る。その筈なのに、何故か私自身を見据えられた気がしたのだ。
そして彼女はゆったりと口角を上げ、微笑む。まるで天使のように美しく、不気味な笑顔だった。
『はじめまして。意外なお客さんだね。わたしのこと、知ってる?』
――知っている、とは、言えなかった。容姿は確かに私が知る『救クレ』のヒロイン、チセ・クレアシオンだけれど、作中の彼女はこんな風に笑う少女ではなかった。
『知ってるよね。知ってるから、わざわざこんなところまで来たんでしょう?えっと、そう、ジーク君だったかな。本来ならあなたとわたしが出会うのはずっと未来のこと。てことは、きみは“スコルハティ家の出来損ない”じゃあなくなったのかな。もしわたしが知ってるあなたのままなら、今お家の外を出歩けてるわけがない。確か数年後騎士団に放り込まれるまで、ほとんど軟禁されて育つはずだもんね』
小さく、ジークが息を呑む気配がした。
私も身を強張らせて、愉しそうに目を細める少女を見つめる。何故、今の時点で彼女がジークのことを知っているのか。数年後の未来まで言い当てて、――なにより彼女自身が、“本来なら”と口にしたのだ。つまり、彼女は。
私と同様に。
『そう、わたしは、この世界のシナリオを知ってる。明日お母さんが死ぬことも、お葬式の帰り道で魔物に襲われることも、そのとき大魔導師に救われて、彼の弟子になることも。もちろん、わたしがゲームの登場人物だってこともね』
そう言って、少女は――チセは、唐突にくるりと一回転してみせた。指先を頬に当て、考え込むように目を伏せている。
『やっぱり、きみが個人で動いてるとは思えないなぁ。裏に誰かいるんでしょう?じゃあ、そのひとに伝えて欲しいの。わたしの邪魔をしないで、って』
『邪魔、とは?』
そこで初めてジークが口を挟んだ。硬く、警戒心を隠さない声だ。するとチセは芝居がかった仕草で僅かに身を屈め、こちらを見上げて言った。
『わたしの目的はね、シナリオ通りに物語を進行させることなの。きみのご主人様が誰かはちょっとわかんないけど、わたしを探してたのは、どうせ未来を変えたいとかそういう動機で、だよね。でもそれって迷惑なの。私はシナリオを変えたくない。だから勝手なことして欲しくない。わかるでしょ?邪魔をしないでっていうのは、なにもしないでってこと。魔王はわたしがちゃんと倒すからさ』
『……そうだとして、その前にこの国は滅びるのではないのですか?』
『そうだね、でもしょうがないよ。そういうストーリーなんだから。本当ならきみも騎士団長の副官になって、魔物との戦いの中で戦死して欲しいんだけれど……まぁいいや。“ジーク・スコルハティ”は脇役だけれど意外に人気があってさ。続編で攻略対象にするために、リメイク版では設定改変される予定だったんだよね。だから“そういうもの”として特別に見逃してあげる。わたしにとって大事なのはストーリーの大筋が変わらないことだから、それ以外の些細な部分は、正直どうだっていいし。数人ひっそり生き延びるくらいなら許容範囲かなぁ』
一方的に捲し立てて、チセはけらけらと笑う。押し黙ったジークのことなんて気にも留めずに、笑って――やがてふ、と表情を消し、無造作に右手を挙げた。
『これは、警告だよ』
ひゅ、と指先が揺れて。
瞬間、視界の端に鮮血が舞った。次いで映像が揺らいで、ジークが小さく呻く。攻撃されたのだ。誰になんて、あえて考えるまでもない。
反射的に攻撃を受けた右腕へ視線を向けたジークは、すぐさま隠し持っていた短剣を抜いてチセに向き直る。切先を向けられたチセは意外そうに目を丸くして、それから一歩分後退った。
『おぉ、根性あるね。結構痛くしたつもりだったんだけどなぁ。思い切って切り落としちゃった方が良かったかな?』
『……っ、おまえは、結局何者なんだ。本当にチセ・クレアシオンなのか』
『そうだよ、帰ってきみのご主人様に確認してご覧?“間違いない”って言うだろうから。わたしからの伝言も忘れずに伝えてね。もし次に勝手なことしてるの見つけたら、今度は主従共々細切れにするからねって。警告は一度だけだよ』
それでは、ご機嫌よう。
ひらひらと手を振って、彼女はジークに背を向けると路地裏を出ていった。あんまりにも無防備で、不用心な背中を、ジークはあえて追わなかった。
そこで映像が終わって。
目を開き水晶から手を離した私は、がくりと椅子から崩れ落ちた。




