最終話
――ひとことで言うなら、極楽に居るような心地だった。
鋭すぎず熱すぎない、ひたすらに穏やかなだけの木漏れ日が頭上に降り注いでいる。さらさらと小川の流れる音と、猫の鳴き声が混ざり合いことさらに眠気を誘って。もはや抗う気も起きず、私は机に頬杖をついたままこくりこくりと舟をこぐ。だって瞼が持ち上がらないのだもの、しょうがない。
欠伸を漏らす。するとその拍子に、食欲を刺激する香ばしい匂いの気配に気が付いた。焼きたての自家製パンと、とろけたチーズの匂いだ。最近ようやくストレートで飲めるようになった、ジークが淹れた紅茶の香りも。そういえば、そろそろ昼食にふさわしい時間だ。意識した途端にお腹が空いて、でもやっぱり目が開かない。
やがてノックの音が3回響いて、私はなんとかかんとか返事をする。とはいえまともな言葉にならず、ふにゃふにゃと間の抜けた声に、ドアの向こうでジークが笑っていた。
10歳の春。
前世の記憶を思い出した朝から始まった私たちの“計画”は、数か月前、ついに終結を迎えた。結果は、まぁ成功と言っていいだろう。最良ではなかったかもしれないけれど、それでも目的通り、一つ残さず無かったことになったのだから。
私自身、あの日起こったことすべてを把握しているわけではない。魔法を発動してから実際に事象が回帰し終えるまでの間、記憶がふつりと途切れているのだ。時間にしておおよそ3日分くらい。その間に魔物の襲撃があって、国が滅んで、チセたちが魔王を倒して、と――近代史の教本が分厚くなるほどに、色々なことがあった筈なのだけれど。
単に気を失っていたのかもしれないし、実は死んでいたのかもしれない。どちらにせよ、積極的に知ろうとも思わなかった。
それに何も覚えていなかったのは、なにも私だけではない。魔法の対象となった国民全員が同じである。だから王家や上位貴族でさえ、近隣の国々から聞かされて初めて、この国に起こった悲劇と魔王を倒した英雄たちの活躍とを知ったのだった。
さて、このことが何を意味するかといえば。
なんだかよくわけのわからないことが起こった日に人気のない時計塔へ無断で侵入し、効果も仕組みも未知の魔法を行使した人間が、怪しまれないわけがない、ということだ。公爵家の人間としての社会的信用を差し引いてもなお、一連の私の行動は怪しすぎた。
とはいえそれだけなら、疑いを晴らすのだってそう難しくなかっただろう。私が悪さをした証拠があるわけでもなし。事情を知っている人だって複数いるのだから、証人には事欠かない。けれど、私はそうしなかった。その結果として私と、私に協力したことを隠さなかったジークは密かに公爵家を追い出され、市井に紛れて生きることになったのである。
「少しご休憩されてはいかがです?特別急がなければならないというわけでもないんですから」
「それはそうなんだけどねぇ……ほら、この前。ルクスが言ってたじゃない?“過去に物体を送る魔法”、完成の目途が立ったって。それを聞いたらなんだか焦っちゃって」
言いながら私はペンを置き、机を支えにして立ち上がった。ふいに足がふらついても転ばぬよう、周囲の物に掴まりながら食卓へ向かう。食器をのせたトレイを天板へ置いたジークが慌てたようにこちらへ手を伸ばすのを視線で制して、椅子を引く。そうしてなんとか席に着いた頃にはばくばくと心臓が跳ねていて、私はゆっくり息を吐きだした――あんな無茶な魔法の使い方をしたのだから、この程度の代償は想定内である。むしろ五体満足で生き残れた分、幸運だったともいえる。
2度3度と深呼吸をして、私は心配そうに眉を下げているジークを見上げた。この家で同居するようになってもう数ヶ月が経つけれど、彼の心配性は変わらない。それが嬉しくもくすぐったくもあって、こほんとひとつ咳ばらいをする。それからわざとらしく声を潜めて、私は彼に問いかけた。
「今日の見張りは何人だった?」
「……ふたりです。やはり先日から人数が減っていますね。あまり熟達した兵というわけでもなさそうですし」
「危険性は低いって思ってもらえてるのかも。まぁ、いい傾向ではあるよね」
おどけたようにそう言うと、ジークは苦笑しながら食卓に食器を並べ始めた。その合間に一度だけさりげなく、見張りがいるのだろう窓の外へ視線を走らせたことに、私は気づかないふりをする。
公爵家を出た日から、私たちの挙動は騎士団によって昼夜問わず見張られている。明らかに怪しい振る舞いをした人間への対応としては、妥当なところだろう。
それにそもそも私は人の気配に敏感なたちではなく、やましいことがあるわけでもないし、特に困ってもいない。しかし私と違って鈍くないジークにとってはそこそこストレスになっていたようだから、段々と見張りが緩くなっているのは素直に喜ばしくもあって。
それでもあの日、あえて弁解しなかった理由はいくつかある。事情を説明するなら私の前世やゲームの世界についても話さなければならないけれど、そのまま話したとして信じてもらえるだろうか、とか。“魔力収束魔法”や“事象回帰魔法”について不用意に話して、悪用される危険はないか、とか。
しかしそれよりも、私自身がなんだか満足してしまった、ということが大きかった。
計画が成功して、重圧から解放されて。立ち上がるのにも苦労するような重たい体を持て余しながら、“もういいか”と思ってしまった。後のことはどうなっても、最後にジークと交わした約束さえ叶えられるなら、それ以外はどうだっていいと。そう意味じゃあ、貴族という立場を捨てられたことは好都合だった。あんまりにも無責任な考えだとわかってはいたけれど、それでももう、自分を偽ってまで頑張ろうとは思えなくて。
そうして流されるままに流された結果が、現状の隠居生活というわけである。当然、ルクスとの婚約も解消されている。それがヴァルドル家とフレッグバアル家の力関係にどういう影響を及ぼしたのかは、もはや私には知る由もない。ただ時折こっそりこの家に遊びに来るルクスとオズさんの様子を見る限り、彼らも昔のような不自由はしていないようで。
彼らだけではない。他の私に協力してくれたひとたちも、つつがなく各々の日常に戻れているらしく。それぞれの大切な人たちと、当たり前に明日が来る日々を過ごせていると聞いている。
ならばやっぱり、まぁいいんじゃないかと思えてしまうのだ。少なくとも、今の私にとっては。
さて。それはともかく、まずはごはんだ。せっかくのジークのごはんを前にして、悩み事なんてもったいない。とぽとぽと小気味よい音を立ててティーポットからカップへ注がれる赤茶色の紅茶を前に、私は身を乗り出した。
食卓にはふたり分の食事が並んでいる。もう使用人ではないジークと、もうお嬢様ではない私の分だ。
「ねぇ。そういえば、考えてくれてる?」
「はい?」
「私と話すとき敬語外してみない?って話。だって私たち、もう主徒じゃないんだもの」
瞬間、ジークの動きが止まる。類を緩める私に彼は恨めしげな視線を向け、のちにすっと顔を背けた。よく観察しなければ気が付けない程微かに、その耳の先が赤らんでいる。
「……えぇと」
「ふふ、うん」
「その。……話は変わりますが、進捗はいかがですか? おれに手伝えることはありませんか」
彼らしくない、支離滅裂な文脈すらなんだか嬉しくて。思わず笑みを溢しながら、私は書類机の方を振り返る。そこには全く同じ装丁の黒い本が2冊、開いたままになっている。一方は古く、また一方は真新しいものだ。
「大丈夫だよ。そのまま書き写すだけだから、難しい作業でもないし。それに、こればっかりは私の筆跡じゃないとね」
2冊のうちの新しい方。インクが乾く前に紙同士ががくっついてしまわないように、重しを置いて開いたそのページには、”つい先ほど書いたばかりの”一文だけが記されている。
それすなわち。
『運命の魔女“レディ.ブラッグ”より、未だ見知らぬお嬢さんへ』と。
「これを過去に送ったら、今度こそ“レディ・ブラック”のお役目はおしまい。……だから、ご褒美が欲しいなぁって思うのだけど」
私は上目遣いにジークを見上げて、あざとく小首を傾げて見せる。すると一瞬言葉に詰まったジークは、やがて困ったように笑ったのだった。
「他でもない貴女の望みであれば喜んで。――でも、どうぞお手柔らかに」
――そう、これは私たちの物語。
主人公でもなく、ラスボスでもない。どうしたって脇役な私たちの。
ありふれた、ハッピーエンドの物語。