第十四話
全体的に埃っぽく、ところどころは腐食した箇所もある板張りの階段を上るのには思いのほか神経を使う。うっかり踏み抜いてしまわないよう、万が一踏み抜いてしまっても大丈夫なように手すりを握りしめて、逐一足元を確認しながら進まなければならないからだ。
しかし本当に、定期的な整備がされているのか、疑わしくなるほどの劣化具合である。無事計画が成功し今まで通りの明日が訪れたあかつきには、絶対に担当の業者を問い詰めてやると私は決意する。そのためにも、まずちゃんとこの国を救わなくては。
そんなことを考えながら息を切らして足を動かす私を、先行していたジークが心配そうに振り返る。この階段の状態じゃあとてもふたりぶんの体重には耐えきれないとわかっているから、助けたくとも手の貸しようがなくて、彼にとってはもどかしいのだろう。だからこそ私は「だいじょうぶよ」と強がって笑い、呼吸を整える。
頂上は、もうすぐそこだ。
ふらつく足を叱咤して上り切った階段の終わり、外から見れば丁度文字盤の裏に位置する小部屋。この部屋こそが、私達が魔法の儀式場として選んだ場所だった。床一面には既に複雑な紋様の魔法陣が準備されていて、あとは私がここに魔力を注ぎ込むだけの状態になっている。
これから起こる悲劇をなかったことにする、一発逆転の魔法のために。
私はパンプスを脱ぐと、魔法陣の外側に向きを揃えて置いた。線を踏まないよう注意しながら、素足のまま廃法陣の中央へ向かう。すると人ひとりが座っても余裕があるくらいぼっかりとスペースの空いたそこには、折りたたまれた紙が何枚か残されていて。不思議に思ってそれを拾い上げれば、紙いっぱいに文字が書かれていた。
『がんばれ!』
『後は頼みます!』
『どうかこの国を救ってください』
それから、「新しい明日でまた会いましょう』と。
筆跡がそれぞれ違う文章の羅列に、思わず頬が緩む。
魔法陣を描くため事前にここを訪れていた、協力者の魔法使いたちが置いてくれたのだろう。けれどそれだけにしては筆跡の種類が多すぎるから、きっと他の協力者たちからのメッセージも混ざっている。
結局、パッドエンドを変えたいなんていうのはエゴでしかなく。私にとってはこの世界がもう”画面の中の世界”ではないからこそ、ひとりでも多く救いたいなんて思ったけれど。あくまで”ゲームの世界”と割り切るなら、死ぬ筈のキャラクターはちゃんと死ぬべきだ、というのはあながちおかしな主張でもない。そりゃあチセのやり方は少し乱暴だとは思うけれど、でも原作のシナリオこそ至高とする彼女の思想が間違っているって訳じゃない。それがこの10年間で私がたどり着いたひとつの結論である。
故に、誰かに感謝されたいとも思わない。私がやりたいことを、周囲を巻き込んでまで、ただ私がやりたいようにやったに過ぎないのだから。けれど一方で、こうやって同じ思いを抱くひとがいること。応援してくれるひとがいることが、心の底から嬉しかった。
頑張ろう、と思える。期待に応えたいと、勇気が湧いてくる。私は宝物に等しいその言葉たちを抱きしめて、顔を上げる。
すると、文字盤を見上げるための開口枠に、焦茶色の小鳥がとまっていることに気が付いた。
「ジーク、あれ」
「はい」
ジークは器用に魔法陣を避けてそちらに近づくと、手袋に包まれた右手を差し出した。途端に小鳥はジークの手首の上あたりに移動して、ちゅんと可愛らしい声を上げる。
スズメにも似たその鳥に、私は見覚えがあった。ルクスの使い魔である。
「なにかあった?ルクス」
そう問いかけると、小鳥はまんまるの瞳を私に向けて嘴を開く。そこから響いたのは、やはり間違いなくルクスの声だった。
『いいや。ただ、見届けようと思ってね』
小鳥は再び翼を広げると、ジークの腕を離れて今度は近くの棚の上に飛び移った。そのうちマイペースに羽繕いをし始めて、私は思わず苦笑する。
数日前から彼をはじめ、協力してくれた人々に順次隣国へ避難してもらっていた。この先のシナリオに登場しない彼らが、滅ぶとわかっている国にわざわざ留まる必要もないからだ。
それを提案したときルクスがどこか不満げな顔をしていたことには気が付いていたけれど、特別反対はされなかったから、なんだかんだで納得してくれているのだと勝手に思い込んでいた。それがまさか寸前になって、使い魔を遣わせるなんて。
一方で、私の意見を尊重しながらも自分の意見も曲げないあたりを、彼らしいなとも思うのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて、最後まで見守ってもらおうかな」
呟いて、私はその場に膝をついた。ぺたんと座り込み、小脇に抱えていた件の本を開く。
けれど始める前に、もうひとつやるべきことが残っていた。私はまっすぐにジークを見上げて、精いっぱいの笑顔を浮かべる。
「ジーク」
「……はい」
「あとは、私ひとりでできるよ。だから貴方はもう逃げなさい」
一一本当は、もっと早い段階でこうしたかった。遠くに逃げれば逃げるほど、当然生き残れる確率も上がるのだから。そうできなかったのは、私の力不足に他ならない。
でも、魔物の襲撃が始まるまではまだ時間がある。
まだ間に合う筈なのだ。
「こんなにぎりぎりになってしまって、ごめんね。けれど、貴方の足なら今からでも王都からは出られるでしょうし――逃げることだけを考えれば、上手く魔物を躱して国外に出ることも難しくはないはずよ。どうか、無事に逃げ切って」
今まで本当にありがとう。
そう言って頭を下げた私に、ジークは何も言わなかった。ただ靴音から彼が歩き出した気配を感じて、私は内心安堵する。勿論計画を成功させるつもりであることに変わりはないけれど、それはそれとして、彼には安全なところにいて欲しいというのも本音だった。私がこれから行う魔法はあくまで"一度起こった事象をひっくり返す“魔法で、“悲劇そのものを未然に防ぐ“というものではない。いまこの国にいる人間は、一度確かに死んでしまうのだ。
でも私は、ジークに生きていてほしかった。たとえいずれ無かったことになるとしても、一度だって死んでほしくない。
どうして、なんて――今更、自問するまでもなく。
だからこれで心残りはなくなったと、本当に安心したのに。けれどジークは、きっぱりとそれを切り捨てた。
「いやです」
「……は、」
「いくら貴女の願いでも、それは聞けません」
弾かれるように勢いよく、私は声がした方を振り返る。
そこではいつの間にか部屋の入口近くに移動していたジークが、手慣れた仕草で髪を結い直していた。先ほどよりも、頭の高い位置で後ろ髪を纏めている。まるで、これから戦いにでも行くみたいな雰囲気だった。
「おれは下に降りて、魔物からこの塔を守ります。どこまでできるかわかりませんが、できる限り」
「な、――だめよそんなの!……っあのね、この国は滅びるの。わかるでしょう?それを私が無かったことにする、そういう計画なんだから。何が壊れても、誰が死んでも元通りになる。貴方が命を悪けて守る必要なんかない!」
「では何故、そんなに必死になっておれを逃がそうとするのですか?」
私は、答えに詰まってしまった。
否。はじめから、この件に関して彼を言い含められる理屈などなかった。何を言っても、私の言葉には矛盾が伴う。
だってこれは理屈ではなく、すきなひとに生きていてほしいという、そういうどうしようもない感情の話だからだ。
彼は言う。頑是ない子供に言い聞かせるみたいに優しく、穏やかな口調で。
「同じですよ、きっと。無駄だとしても、無意味だとしても、そんな理由ではとても許容できない。何もせずにはいられないんです」
「……これは命令だ、っていっても?」
「申し訳ありませんが、聞けません。おれは侍従失格ですね」
とうとう押し黙った私に、すると彼は「失格ついでに、ひとつだけ」と、悪戯っぽく笑ってみせた。
「”世界の終わりでも来ない限りは言わない”と、いつだったかオズには言ったんですが、」
「オズさん、?」
「いつまでも格好つけている方が情けないと思い直しまして。……ずうっと前から、貴女に言えずにいたことがあるんです。全てが終わった先で、また会えたそのときに、聞いていただけますか?」
――あぁ、いま私の胸中を吹き荒れるこの感情に、なんて名前を付けたら良いのだろう。”嬉しい”と”悲しい”と、他にももっとんな感情が混ざりあっていて。そのどれもが正しくて、間違っているような気がしたけれど、そんなことを考えている余裕もなく。
少しでも気を抜いたら、泣いてしまいそうだった。そうしたらきっと私はもう一歩も進めないだろうと、確信めいた予感がする。
それでもなにか言わなければと、懸命に振り絞った声は、かすれ切ったか細いものにしかならなかった。
「ばかだなあ」
「はい」
「ほんと、ばかだよ。貴方も、私も」
大きく息を吸って、吐いて。やがて私は、人の気も知らずにどこか清々しそうにしているジークをじとりと睨みつける。
「いいよ、わかった。聞いてあげる。その代わり、私にだって言わせてね」
「……ええと、はい」
「覚悟しておきなさい」
途端に戸惑うように視線を彷徨わせたジークに、私はめいっぱい意地を張り、無理矢理に笑顔を作って言う。
「また会いましょう」
「ええ、また」
それが強がりだとおそらくジークにも気づかれていたけれど、彼はあえてそれを指摘せずに、部屋を出て行った。