第十三話
その日、私は慣れ親しんだ寝台の中で、朝日が昇るよりずっと早く目を覚ました。身を起こした途端、布団からはみ出た肌にひやりとした冷気が突き刺さる。私は思わず身震いして、いつもより少しだけ時間をかけて寝台を降りた。
薄暗い室内を手探りで移動して、ナイトテーブルに置いたままにしていたランタンに火を入れる。その仄かな灯りを頼りにクローゼットへ向かい、そこから暗がりに紛れるための黒いローブと、侍女の手を借りずとも着替えられるように準備しておいたシンプルなワンピースを取り出した。
ある朝に前世の記憶を思い出してからあっという間に時間は過ぎて、もう10年と少しが経った。
そして今日、今からおよそ12時間後に、この国は滅ぶ。
私は手早く着替えを済ませると、昨晩侍女が用意してくれたテーブルの上の水差しから一杯分水を注いで喉を潤した。それから寝台に戻り、枕元に置いていた本を手に取る。この10年で何度も何度も開いたその本はすっかり草臥れていて、ところどころに開き癖がついていた。表紙を捲れば、そこにはとっくに見慣れた文言が記されている。
『運命の魔女“レディ・ブラック”より、未だ見知らぬお嬢さんへ』
私はそれを一瞥して一度本を閉じ、終盤あたりのページを開き直す。そこに乱雑に挟まっている紙切れの文字は、私自身の手で記したものだ。今日この日のために繰り返し打ち合わせた内容を、事細かに書き留めてある。
――あれから、随分と協力者は増えた。
数年前に起こった魔物との戦いで戦死する筈だった騎士団長と彼の直属の部下である数名の騎士や、シナリオ中盤で病死する筈だった男爵令嬢。無実の罪を着せられ流刑に処される直前だった元宮廷魔法使い。それから、異端と蔑まれて故郷を追われ、暗殺者になる未来が設定されていた双子の亜人。
彼らのうちのほとんどは、本来のシナリオだと序盤から中盤あたりで退場し、以来物語の大筋に絡むこともない人物だった。その顛末はほんの少し攻略対象に影響を与えるくらいで、シナリオ通りに退場せずとも展開自体を変えてしまったりはしないような、そんな人物達。
もちろん、そうでない人もいる。特に騎士団長やその部下達なんかは、もしも彼らが生き残れば大きく未来が変わってしまう。だからそういう人達はあくまでストーリー通り“死んだ”ことにして、誰にも気づかれないようにひっそりと助け、代わりにそのまま身を隠して貰っていた。世間的には死亡扱いになる訳だから、不自由を強いる形になってしまったけれど。それでも正直に事情を打ち明ければ、皆協力を誓ってくれた。いつの日かエンディングの向こう側に辿り着いて、大切な人達みんなと笑い合える未来のために。
今日はその集大成だ。失敗すれば全てが無に帰す。けれど自分でも意外なほどに、心の奥は凪いでいる。不安も恐怖も勿論あるけれど、うずくまって動けなくなるほどではない。それは多分、私がひとりではないからだ。
味方は沢山いる。色々な面で私より優れ、秀でている人達が同じ目的のために協力してくれているのだ。それを思うたびに勇気が湧き上がってきて、私を奮い立たせている。
「……必ず、救ってみせる」
宣戦布告でもするように、改めて言葉にする。
そうして、私は本を持ったまま静かに部屋を出て行った。
夜明け前とはいえ、屋敷に数多くいる使用人の内、何人かは既に仕事を始めている頃だ。勿論、外には普備の兵だっている。だから曲がり角をひとつ曲がるたびに周囲を見回して、息を潜めながら廊下を進む。朝になればいつも通り侍女が私の寝室を訪れるのだから、どうしたって私が不在であることはいずれ知られてしまうのだけど、それにしても今誰かに見つかるのはまずい。こんな時間に出歩こうなんてばれたら叱られるだけでは済まないし、まして母様や父様に報告されたりしたら、洗いざらい事情を話すまで部屋に軟禁されかねない。それでは計画が水の泡だ。
だから私は努めて慎重に、ランタンの灯が周囲を照らしすぎないように注意を払って、一歩ずつ足を踏み出さなければならなかった。前世で見たスパイ映画のワンシーンなんかを思い出す。ただ廊下には毛足の長い絨毯が敷かれているから、足音を消すのが難しくないことは幸いだった。
そんな風にしてそろそろと廊下を抜け、事前に約束していた待ち合わせ場所へと向かう。
予定したよりも早く私がその場所に到着したとき、ジークはさらに一足先に待っていた。彼は私に気が付くと、腰に差した細剣が音を立てないよう、柄頭を軽く押さえながら頭を下げる。それから、手袋に包まれた右腕をしくこちらへ差し出した。
うなずいて、その手を取る。彼は声を出さずに、唇の動きだけで失礼を詫びてから、両腕を私の背と膝の裏に回して抱え上げた。すかさず私は彼の腰から鞘ごと剣を引き抜いて、胸の前で抱きしめる。するとそれを見たジークはふっと吐息で笑い、私を片腕で抱えなおすと、空いた手で音もなく窓を開けた。
ここは本邸の二階、その端にある階段の踊り場である。このまま階段を降るルートだと、必然的に使用人部屋の正面を通らなければならない。故に窓から外に出て、一気に飛び降りる算段である。しかし貧弱な令嬢の私では、二階分の高さとはいえうっかり大怪我しかねないわけで。
本能的に身を強張らせる私を安心させるように微笑んで、ジークは窓枠に足をかけると一息に飛び降りた。根性でなんとか悲鳴をこらえているうちに彼は軽々と着地し、間もなく私を抱えたままで歩き出す。この後は木を伝って外壁を飛び越えなければならないから、そのためだろう。
しかしやっぱり申し訳なくて、私は彼の耳に顔を寄せ、か細い声で問いかけた。
「い、今更だけど私重くない?大丈夫?」
「ええ、まったく」
同じく小声で答えたジークは言葉通り余裕そうではあったけれど、さすがに“まったく”というのは無理がある。十年前の私ならばともかく、今の私は普通に成人女性の平均くらいに身長も体重もあるのだ。重くないわけがない。
――ただし、あの頃から成長しているのは私だけではない。おとなしく運ばれながら、私はちらりとジークの横顔を見上げた。
10年前はまだ幼さが残る顔立ちで、どこか少女じみた可愛らしささえあったジークは、いつ頃からかすっかり凛々しい青年になった。耳の後ろあたりで縛り肩口へと垂らした長い金髪は、暗がりの中でも灯りを反射して、控えめながらおひさま色に輝いて見える。手も足もぐんと伸びたし、剣術の鍛錬を欠かしていないからか、密着した衣服越しにしなやかな筋肉の硬さを感じて。……などと意識し始めると妙に恥ずかしくなってきて、私は無意識に身じろいだ。
それに気づいたのか、真剣に周囲の様子を探っていた彼の夕焼け色の双眸が、うつむいた私の顔を覗き込んでくる。咄嗟に顔をそむけると、彼は不思議そうにしながら正面に視線を戻した。
とにかく、なるべく早く敷地内から脱出したかった。計画の成功のためにも、他の意味でも。
屋敷を出た私たちが向かったのは、王都の地理的中心である建国記念公園――そこにそびえ立つ時計塔の足元だった。何故ならこれから行使する大魔法の魔法陣が、この時計塔を中心として構成されているからである。
十全に魔法を発動するためには、魔法陣全体に不足なく魔力を行き渡らせなくてはならない。“事象回帰魔法”の方は“魔力収東魔法”で集めた大量の魔法を使って発動するために、多少偏りがあろうとそもそもの魔力量が膨大である分誤魔化しがきく。しかし“魔力収束魔法”を発動するために使うのは私の魔力だ。十年かけた特訓で少なからず魔力量は増加しているけれど、それでも人並み程度。余裕があるとは言えないのが正直なところだ。
ならばやはり魔法陣の中心に立ち全周・全方位に向かって魔力を放出するのが、最も欠けや不足なく魔法陣全体に魔力を注ぎ込めるだろう――それが、ルクスとの議論と試行錯誤を重ねた末の結論だった。
普段この時計塔内部に立ち入るのは、整備を任された職人のみに限られている。それ故に一般の人間が不用意に入り込まないよう、入り口には頑丈な錠前が掛けられてい
た。事前に入手していた情報のとおりである。だから私はワンピースのポケットからあらかじめ作っておいた合鍵を取り出し、鍵穴へと差し込んだ。
そう頻繁に外されることがないからか、鍵穴は錆び付いていて、かなり力を入れなければ鍵を回せなかった。見かねたジークに手伝ってもらい、なんとか半回転させる。やがて錠前はがたりと重い音を立てて外れ、扉の取手に巻き付いていた鎖とともに地面へ転がった。
そうしてやっと開いた扉の先では、埃っぽい石造りの床と、天まで伸びるような長い長い古木の階段が待っていた。