番外編③
――かん、と高い音とともに、手の内から木剣が弾き飛ばされる。空を舞うその軌道をなんとなく目で追ってしまってから、おれは舌を打った。柄を握りしめていた手のひらが微かに痺れている。腕に力がこもり過ぎていたのだろう。不覚。未熟。油断、……そんな言葉が頭を過って、自分自身への苛立ちが湧き上がってくる。
そんなおれに相対していたオズはこれみよがしに溜め息を吐くと、木剣の腹を己の肩に乗せた。
「なぁ、おまえ歳いくつだっけ」
「はぁ? なんだ急に」
「今日は随分と感情が態度に出てるからか、いつもよりガキっぽく見えるなと思って。……それとも、“ご主人様”の前じゃない分素が出てるだけか?」
わかりやすく煽られている。
おれはじとりとオズを睨みつけてから、地面に転がった剣を拾うために歩き出した。
初めてこの男に手合わせを申し込んだのは、彼らがヴァルドル公爵家に移り住んだ日の夜だった。昼間手続きに忙殺されていたルクシオン様が早々に寝台へ入ったからと、ぼうっとしていたところを捕まえたのだ。
少し前、チセ・クレアシオンに不覚をとったことは記憶に新しい。この体たらくでは有事の際お嬢様を守りきれないかもしれないと、一から鍛え直すつもりであったおれにとって、ちょうどよく暇をしていて気兼ねなく斬りかかれるこの男の存在は都合が良かった。故にそれからは、こうした手合わせが毎晩の習慣となったのだけど。
それでも、今のように日が高いうちから剣を交えるのは初めてのことだった。ルクシオン様の従者のくせに割と放任されているこの男はともかくとして、おれには普通に使用人としての仕事があるし、そうでなくとも護衛としてお嬢様の側に控えるのが役目であるからだ。
では何故今はそうしていないのかといえば、お嬢様から直々に供を断られた以外に、理由などあるはずもなく。
拾い上げた木剣の柄を、強く握りしめる。お嬢様がおれを気遣ってくれたのだということはわかっているし、それに不満などない。ない、けれど。
どうしても、胸の奥がじわじわと苦しくて仕方がなかった。それをひとときでも忘れたくて、手合わせの約束を取り付けた、というのがことの次第である。
とはいえ。少し体を動かせば気が紛れると思ったのに、いまだ気分は晴れぬままで。木剣に傷がないのを確かめて、おれはオズに向き直る。上段から振り下ろした剣を体の前で構え、剣先をぴたりと静止させる。やがてオズが構え直したのを見とめて、地面を蹴った。
奴の間合いに一歩踏み込んで、横薙ぎに木剣を振るう。なんのフェイントも絡めていない、単純な一撃だ。元々当たるとも思っていなかったけれど、案の定、オズは身を引いてそれを躱した。そうして自身の腹の前を剣先が通り過ぎるのを待ち、反撃してくる。下段からの片手突き。空いた左手が後を追っているから、これはあくまで牽制。こちらに防がせて、その隙を狙った2撃目こそが本命だろう。
だからおれは僅かに身を捩って、突き出された相手の木剣に自分の剣身を絡めるように手首を返した。意図を察して剣を引かれる前に、足元に向けてそれを叩き落とす。流石に剣を取り落とさせることは叶わなかったが、その代わりに体勢が崩れた。見逃さず、追撃。下方から顎を狙って切り上げる。
今度は当てるつもりで振ったのだけれど、やはり直前で防がれた。木剣同士が小気味良い音を立ててぶつかり合い、オズは飛び退って距離を取ろうとした。ので、更に追う。首や腹への攻撃には無意識に備えているだろうから、あえてそこを外して目を狙う。これまでの攻防から考えて、おそらくはこれも防がれるか避けられる。しかし目に向かって物体が迫り来れば、大抵の生き物は反射的に瞼を閉じる。そうして狭まった視界の外側からの攻撃ならば、反応が遅れる。それでもまだ勝負を決められないとしても、主導権は握れる。それが狙いだった。
木剣を振るう。たとえ弾かれてもすぐ追撃に移れるよう、肩から僅かに力を抜いて。
次の瞬間、剣身ではなく柄を握った右腕を蹴り飛ばされて剣先が傾いた。まずいと思った時には既に遅く、顔の横を通り過ぎた木剣に一瞥もくれずに距離を詰めたオズの木剣が、左上から振り下ろされる。
次の手を考える暇などなく、咄嗟にそれを受け止める他なかった。腕力はあちらが上だ。受けに回れば押し切られる。真っ向から弾き返すことも難しい。仕方なく刃を滑らせるようにして相手の剣をいなし、崩れた体勢を立て直すべく距離を取った。たんたん、たん、と続けて3歩分。相手に踏み込まれても対処できる、ぎりぎりの距離だ。
構え直す。木々の葉が風に晒されて擦れ合う音が響いた。遠くの方で鳥が鳴いている。使用人達が朗らかに話す声も。――剣を下ろしたのは、あちらが先だった。
「……ここまでだな。そろそろ“あっち”の話し合いも終わる頃だろ」
そう言って、オズは肩越しに別邸の方を振り返った。もう完全に続ける気がないのを悟って、おれは懐から懐中時計を取り出す。お嬢様がルクシオン様と待ち合わせていた時間から、大体3時間ほど経っている。この後のおふたりに特段予定は入っていなかった筈だけれど、一度様子を見に行っても良い頃合いだろう。
時計を再び仕舞い、おれはオズに近付いて手を伸ばした。意図を汲んだオズが差し出した木剣を受け取り、自分のものと合わせて片手で抱え直す。これを片付けたら軽く汗を拭いて、身だしなみを整え直してからおふたりに声を掛けにいこう。あぁ、その前に一度本邸の厨房に寄って、何か差し入れる飲み物でも用意してからにしようか。今日は少し気温が高いから、紅茶ではなくさっぱりするものが良い。
そこまで算段をつけたところで、そういえばと、おれはオズを振り返った。
「今まで聞きそびれてたけど、ルクシオン様にお出しするのを控えた方が良い食品はあるのか? レモンとか、ハーブとか」
「あ? あぁ……いや、無いけど」
「そうか」
ならば、炭酸水にミントを添えようか。最近料理長が質のいいオレンジを仕入れたと言っていたから、少し貰ってそれを絞るのもいい。ルクシオン様の好みはまだ把握できていないけれど、少なくともお嬢様はそちらの方がお好きだろう。
そんなことを考えながら歩き始めたところで、気配が近づいてくるのを感じた。再び振り返れば、気まずそうに視線を逸らしながらオズがこちらに寄ってきているところで。
なんだこいつと訝しむおれに、オズは二振りの木剣を指して言った。
「それ、片付けておく」
「はぁ? なんで」
「ルクス達のところに行くんだろ。こっちは俺がやるから、先に行っててくれ」
了承する前にするりと剣を奪われて、おれはじとりとオズを睨む。いや木剣の片付けにそれほど執着はないんだけれど、なんとなく、個人的な借りをこいつ相手に作るのが不満で。するとオズは、呆れたようにため息を吐いた。
「あっちの様子、ずっと気になってたんだろうが。つーかやけに機嫌悪かったのも、“ご主人様”に置いていかれたせいなんじゃねぇの」
「……だったらなんだ」
「そんなの、次からは仲間に入れてくださいって素直に白状してくれば済む話だろ。あのお嬢様ならそれに怒ったりしないだろうし」
――確かに、それはそうだろうと思う。そもそもお嬢様が今日おれが供をするのを断ったのだって、おそらくは、おれの都合を考えてのことだ。あのひとは優しくて、真面目だから。件の計画におれを巻き込んだことを、心のどこかでは申し訳ないと思っているのだ。
気にしなくていいのに。おれは自分の意思で協力していて、お嬢様が喜んでくれるのなら、どんなことだってしてみせるつもりでいるのだから。
けれど。それを真っ直ぐに伝えられないのは、根底にある感情に、忠誠や敬愛とは違う種類のものが混ざってしまっているからだ。
思わず押し黙ってしまってから、おれは首を振った。これはこいつに限らず、誰にも言うつもりのない話だ。今のお嬢様に、いやたとえそうでなかったとしても、余計な悩みの種を植え付けたくはない。お嬢様の側にいられれば、おれは充分に幸福なのだから。
まぁ、それはそれとして。できるだけ早く近くに馳せ参じたいのは侍従の性だ。折角申し出てくれたのだから片付けは押し付けてしまおうと思い直し、おれは行き先を変えた。そうして隣を通り過ぎる間に、オズだけに聞こえるよう声を潜めて答える
「言わないよ。それこそ、世界の終わりでも来ない限りはな」
「……だからおまえ、歳いくつだよ」
このマセガキ。
ため息混じりに吐き捨てられた言葉を笑い飛ばし、おれはその場を後にした。