番外編②
自分に前世の記憶があることを自覚したのは、“暗殺者”として初めて“仕事”を命じられた夜のことだった。
証拠を残さないように丁寧に後始末を終えて現場を離れたオレは、ふらふらと街中を彷徨いながら、記憶と思考を整理する。そうしなければ、前の自分と今の自分の価値観や常識が反発し合ってろくな考えが浮かばなかったからだ。
“仕事”の実行日までは、あと数日程時間がある。そのうちに混乱を落ち着かせて、せめて八割ぐらいは万全の状態に近づかせたかった。こんな“仕事”にプライドもなにもあったもんじゃあないが、それでも大事な収入源だ。特に信用第一な職業柄、一度でも失敗すれば路頭に迷いかねない。
足掻くほどに死にたくない理由はないけれど、無意味に飢えたくもない。そのためにも、己がどういう人間であるかくらい、自分の内でははっきりさせなければ。
日本ほど明るくないこの国の夜は、物思いに耽るには都合がいい。すっかり人の気配が失せた市場をあてもなく歩きながら、オレは回想する。
この世界に生まれ直す前の――あちらの世界で死ぬ前のオレは、大学生だった。工学部の3年生で、どちらかといえば不真面目な部類の。明確な目標がある訳でもなく、ただ居心地の悪い実家から出る口実にするためだとか、就職するときに大卒の肩書きが欲しいだとか。その程度の理由で奨学金を借り大学に通っている、特に珍しくもないタイプの人間である。
けれど大学を卒業する前に、オレは死んだ。バイト帰りだったように思うけれど、何故死んだのかまでは覚えていない。死んだ時になにか衝撃を受けたせいかもしれないし、そうでないかもしれないけれど、覚えていないものはしょうがない。ただ、自分が死んでいることだけは、何故だか根拠もなく確信している。
その筈なのに、オレは生きている。日本で生きていた時とは似ても似つかない外見で、“暗殺者”なんて物騒な仕事をしながら。
「つーか、なんで今更になって思い出すかな……」
誰に言うでもなく呟いて、ため息を吐く。
今世のオレの親は暗殺者ギルドの長だった。というより、身寄りのないオレを金で買って暗殺者として育てたギルドの長が、名目上の養父であるというのが正確だろうか。
それ故に幼い頃から暴力には慣れていて、将来人殺しをして生きていくのだと察した時も思うところはなかった。だというのに、今になって嫌悪感を抱いているのは、間違いなく前世を思い出したからだ。
前世のオレは決して善人ではなかったけれど、最低限の道徳心ぐらいは持っていた。自分の手で人を殺すなんて想像したこともないし、そうでなくとも、罪のない人間が殺されることを受け入れられない。法治国家で生まれ育った人間の大半がそうであるように、オレにだってそういう倫理観は染み付いている。
だからオレは、どうすっかなぁ、と悩み始めていた。
数日後の初仕事を失敗すればオレは収入源を失う。日本ほど社会保障制度が整備されていないこの国で、学も身分もないオレが無収入で生きていける筈もなく、かといって別の職に就くのだって容易ではない。
ならば予定通り人殺しをするしかないわけだけれど、前世から引き継いだ倫理道徳が激しく拒否しているわけで。それを最後まで無視し切れる自信が――寸前でも躊躇わない自信が、オレにはなかった。それは致命的な隙になるる。そのせいで仕事を失敗すれば、結局は元の木阿弥に終わる訳で。
進退極まるとはこのことだ。どちらを選んでもろくな未来は待っていない。だから、どうすっかなぁ、なのだ。なにより困ったことに、――“どちらかを絶対に選びたくない”理由すらないから、消去法でも選べやしない。
そうして、しばらく悩んだ末に。
「まぁ、とりあえず……行くだけ行ってみるかな」
半ば投げやりに、オレはそうして結論を保留することにした。
とにかく標的のところに行ってみて、相手が意外と極悪人だったり、思いの外オレの道徳心が欠けたりしていたら、さくっと殺れるかもしれないし。もしどうしても殺せなさそうだったら、諦めて投降するなり退散するなりして、あとは成り行きに任せるとしよう。
我がことながら優柔不断極まるオレが、今の段階で下せる決断なんてこの程度が精々で。後回しにしただけ、ともいうけれど。
結局オレは数日後、予定通りに、標的がいるヴァルドル伯爵家の離れに忍び込んだのだった。
依頼人は内部の人間だったから、敷地内に侵入するのは簡単だった。あらかじめ鍵が開けられていた裏門を抜け、木を伝って建物の外壁に一つだけある窓から中に入って。そうして、机に向かい仄かな光源を頼りに本を捲っていた少年へと襲いかかる。
そのまま力任せに冷たい床へ引き倒すと、緩く波打つ生成色の髪がふわりと舞った。組み敷いた体は硬く骨張っていて、皮膚一枚纏っただけの骨格標本みたいに貧相な造りをしている。このまま少し体重をかければ折れてしまいそうなその脆さは、軟弱な貴族であることを差し引いても些か異常に思えた。
けれどそんなことは、オレの知ったことじゃあないと気を取り直す。
片手でそいつの口を塞いで、周辺の気配を探る。どこにでもいる一般人だった頃よりずっと発達した聴覚が捉えたのは環境音のみ。おそらくこの屋敷に他の人間はいない。本来ならばあり得ないだろうが、今夜に限っては“想定通り”のシチュエーションである。なにせこの暗殺を仕組んだのは標的の実父、つまりヴァルドル侯爵家現当主——タキオン・ヴァルドルなのだ。全てがつつがなく終了するまで「離れには決して近付かないように」と、全ての使用人に言い含めてあるのだろう。
だから邪魔は入らない。
息をするより簡単な仕事だ。
これから殺されるこいつにとっては、気の毒な話だなぁと思うけれど。野生動物だって、生き残るため以外に身内を殺したりなんかしないのに。
問題は、そのうえでオレがこいつを殺せるかどうか、だ。薄々わかっていたことではあるが、この少年が「まぁ殺されるのも因果応報だよね」と言えるほどの極悪人でないことは確実になりつつある。であればやっぱり、オレの生活のためなんかで殺すべきではないんじゃないかなぁ、なんて思うのだ。
と、そんなことを考えて――オレは、床に抑え込んでいる標的が、これまで一切の抵抗をしていない事に気がついた。歳頃はそう変わらぬとはいえ体格差はあるし、抵抗したからって意味は無いが。それにしたって多少なりとも“死なない努力”をするのが生物の常ではなかろうか。まさか打ちどころが悪くて死んだりしていないだろうなと、オレは視線を落とす。
さてその先で、少年は呑気にも目を丸くしていた。やがて互いの視線が絡むと、穏やかに微笑んで見せる。
ぞわりと、背筋に冷たいものが走った。この状況で、笑っている。虚勢のようには見えない笑みだ。生き物であれば例外なく所持している筈の生存本能が機能していないのだろうか?一体どんな人生を送れば、こんな気味の悪い人間が育つというのか。
オレの動揺に気づいたのか、男はきょとりと目を瞬かせつつ緩慢な動きで口を塞ぐオレの手に触れ、ゆるりと目を伏せた。色素の薄い睫毛が左右で色の違う瞳に影を落として。
次の瞬間、オレは豪奢な装飾のドアにたたきつけられていた。
衝撃に息が詰まって、けれどこの身体はこんな程度で壊れはしない。跳ねるように身を起こす。片手の指先を床についた、いつでも飛びかかれる体勢で男を見る。いま、何が起こったのかがまるでわからない。投げ飛ばされたのかと一瞬は思ったが、それにしては予備動作が無かったしなによりこの体格差だ。いくらなんでも貴族のお坊ちゃんに腕力でふり回されるはずもない。無理やり言語化するなら、見えない腕で横から突き飛ばされたみたいな――強力な磁石のちからで弾かれたみたいな、そんな感触だった。ならば考えられる可能性はひとつ。
視線の先。その男はぽんぽんと夜着の乱れを鳴らして、それから気負いなく頭を下げる。教科書通りの、貴族の礼。呆気にとられるオレへ、さっき、おそらくは音もなく魔法を発動させてオレをぶっ飛ばしたのであろう彼は、なんでもないことのようにあっさりこう言った。
「初めまして、私はルクシオン・ヴァルドル。良かったら君の名前を教えて欲しいな。きっと私達は、よい友人になれると思うから」
「そんな予感がするんだ」と。
――その瞬間、オレは事前に読み込んだ“ルクシオン”の情報を思い出していた。
ルクシオン・ヴァルドル。ヴァルドル伯爵家の長子。
初代ヴァルドル伯爵にも勝ると言われる魔法の腕前と、人並外れた頭脳をもち、次期当主としてなんら不足のなかったその子どもは、幼くして母を亡くした。
一年も経たぬうちに迎えられた第二夫人。彼女が正式に公爵夫人の位を与えられ、後継者になりうる男児がその腹から生まれた2年後。
ルクシオンは正体不明の集団から暴行を受け、瀕死の重症となった。発見された時の光景は、想像以上に惨たらしいものであったという。まだ成長途中の少年の体は刃物で何度も刺され、何度も切り付けられて、ぼろ雑巾のように血溜まりに沈んでいた。誰もがきっと、子どもの死を覚悟しただろう。
けれど彼は生き残った。自身が溜め込んだ魔力を全て治癒魔法へ変換し、それでも結局は深い後遺症を背負うことになったけれども、しかし事実として生き残った。
しかしその無茶な魔力行使は、当然身体に多大な負荷を与えた。結果、ルクシオンの魔導回路は酷く歪み、さらなる成長の可能性どころか、今まで普通に使えていた魔法すら満足には使えなくなり。
どころか、先に述べた魔力の循環異常により、使えもしない魔力がただ体内に溜まり続ける状態となってしまったのだ。
放出先のない魔力は内側から身体にダメージを与える。専用の薬を投与すれば一時的な発作は抑えられるらしいが、筋力・体力の低下はもちろん内臓にも負担をかけるわけで、つまりそう永くは生きられない。
そんな死に体に伯爵家当主は務まらないと、現当主タキオン・ヴァルドルはルクシオンを後継から外し、ブラディオンに後を継がせることとした。となると今度は第二夫人――ブラディオンの実母の殺人未遂が問題になるからと、真相を捻じ曲げ、ルクシオンの事件は“押し入って来た反体制派の暗殺未遂”として処理された。以降、彼はただでさえ不安定な第二夫人を刺激しないように離れに追いやられ、秘匿されるに至ったのだ。
人々が、ルクシオンという天才の存在を忘れることを願って。
――あぁ、どうして忘れていたのだろう。
オレは激しい後悔に苛まれながら、口角を引き攣らせた。
そんな目に遭った子どもが。そんな理不尽に晒せて、なのに狂うでもなく平然と生きているような子どもが、まともであるはずがないというのに。
浅い気持ちで此処に来た過去の自分を呪いつつ、オレは窓の外に視線を向ける。かつての魔法の天才とはいえ、今は弱体化している筈だ。身体能力ならこちらが上。なりふり構わなければ、逃げられないこともない、と、思いたい。
しかしルクシオンはくすくすと笑いながら、オレの視線を遮るように移動し、窓枠に背を預けて言った。
「もうそのつもりはなさそうだけれど一応言っておくと、実は、私を殺すのは不可能なんだ。先の事件の後遺症のひとつでね、今も私の身体は、自分の意思で制御のできない回復魔法が常時発動されている状態にある。どんな傷を負ってもすぐに治ってしまうんだ。これまで父が、ヴァルドル家最大の汚点である私を始末できなかったのはそういう理由さ」
「っそんなの詐欺じゃねぇか! どうやっても殺せねぇ相手をどう殺せってんだよ!」
「そう、詐欺なんだよ。駄目で元々、というか。そんな依頼のために人生を棒に振るのももったいないだろう?」
ルクシオンがぱっと手のひらを開くと、オレの足元に転がっていた黒い本が音もなく浮かび上がって、奴の元へと飛んでいく。それを事もなさげに受け止めて、ルクスは再び表紙を捲った。
「つい先日、私にも目標ができたんだ。死ぬまでにこの本に記されている“とある魔法”を実現させたい、という目標がね。そのためにやるべきことと、やりたいことが色々とある。でもひとりで頑張るのはすぐに飽きてしまうから、誰かに付き合って欲しかったのだけれど、生憎私には友人がいなくて。君が来てくれて丁度良かった」
「あのな、オレはお前を殺しに来たんだ。友だちになるわけねぇだろ頭大丈夫か」
「でも諦めたんだろう? それに理由はわからないけれど、君は私を殺したくないとも思っているようだし。あぁ、私の目的に付き合ってくれている間は、従者扱いで衣食住も保証してあげよう。悪い話ではないと思うけれど?」
疑問系ではあるものの、断らせる気など一切ないような口調でそう言って、ルクシオンは開いた本の1ページ目をこちらに向ける。
そこにはただ一言、女性らしい字でこう記されていた。
『レディ・ブラックより、フロイラインへ愛を込めて』と。
この言葉の意味を知るのは、それから2年以上後のこと。それまでにオレとルクシオン――ルクスが本当に友人同士になっていて、まして運命なんてものと戦う羽目にまでなるなんて、今の時点のオレには、まだ予想できる筈もなかったのだ。