不可思議ロスタイム
死んで灰になったはずの妹が蘇った。
そう言ったら、誰か信じるだろうか?
あの訃報から一ヶ月。俺の住む安アパートの玄関口に、妹は立っていた。
ベタだが、頬をつねって夢じゃないことを確かめる。ちっぽけな痛みが走った。
「こんなこと、現実であるんだな」俺は言った。
笹木瑠璃花、ルリと呼ばれていた妹は、霊体なんてものでもなく、明瞭な姿で存在している。そして、朗らかに言った。
「自分でも、夢を疑ってたりする」
「そんなもん……なのか?」
俺たち兄妹は、オカルトな存在に対して否定的だった。テレビを観ていて、幽霊云々の番組が始まるとチャンネルを変えた。もしくは、馬鹿にするために視聴を続けた。
だから俺はルリを見て、幽霊などではないと思った。
少し悩むところだが、幽霊よりかは生き返って戻ってきた、という方が納得できる。
ルリは眠そうに欠伸をかみ殺す。まさに、生きている人間の所作だ。
俺は玄関掃除の最中だった。日常の中に、まるでトラックが突っ込んできたかのように非現実がやって来て、茫然自失になっていた。そこでようやく、ずっと持ったままだった箒を、壁に立てかける。
「どうして?」
どうして生き返った?
どうして帰ってきた?
その後にあるべき質問が、喉から出てこない。
窒息する感覚が身体に広がった。
「会いに来たよ、空兄さん」
嬉しい? とルリは笑顔で訊ねる。
俺の顔は自然とほころび、涙が零れた。
「嬉しいよ。死ぬほど」
***
俺とルリは3つ歳が離れていた。享年19だった。
朗らかに話し、健やかに動く。誰とでも仲良くなり、誰からも好かれる。俺とは真逆の性格で、尊敬の念すら抱いていた。兄として誇らしい、と思うのも憚られるくらいに。
ただ、「死ぬほど○○」という口癖を持っていて、それに関しては眉をひそめられることがあった。両親は「そんな言葉を使うのはやめなさい。はしたないから」などと口うるさくしていたが、諦めたのだろう、やがて黙認するようになった。
それどころか、口癖は俺にも感染した。
俺が中学生で、ルリが小学生だった頃、家族でスキー旅行に行った。生まれも育ちも東京の俺たちは、ビルが建ち並ぶ街では見ることのできない銀世界に目を輝かせた。
特にルリは子犬のように、はしゃいだ。
はしゃぎ回って、滑走中にバランスを崩して転倒した。横倒しになり、雪の上を滑って転がっていく。
俺はルリほどスキーに慣れることができず、咄嗟に助けに向かえなかった。転がるルリを見て、鼓動が早くなり、無事であってくれと天に祈った。
泣きそうになる俺の気持ちとは裏腹に、ルリは雪中から身体を起こし、大声で笑った。
「死ぬほど焦った!」
「俺も……死ぬほど焦ったぁ……」
そのときにはすでに、口癖は感染していたと記憶している。
それにしても、本当に死んでしまうことはないじゃないか。
***
居間に通し、コーヒーを注いだ。ルリは味が分かるのだろうか、と俺は疑問を抱く。だからブラックにしてみたら、「苦っ」と舌を出したので、安心した。
「兄さん、これ死ぬほど苦いよ! ブラック無理だって、忘れた?」
「……良い目覚ましになるかなって」
ルリは口をへの字にして、ふくれっ面をする。19にしては、子どもっぽい抗議だ。
「死んだときのこと、よく覚えてないんだよね」
彼女が死んだときの真実を、打ち明けるべきだろうか?
思い出させてしまうのではないか。痛みがフラッシュバックするのではないか。言うにしても早くしないと、と思い始めると焦ってしまう。
「大丈夫だよ」とルリは言う。
「……なにが?」
「本当のことを言ってよ。迷ってるんでしょ。わたしがどうやって死んだのか……言うべきかなーってさ」
流石、我が妹だ。
「本当に?」
「覚悟はできてるって」
真剣な眼差しを受け取った。少し垂れ目で、二重まぶたで、瞳は力強い光を湛えている。懐かしい、大好きだった瞳だ。
「交通事故だよ」
「嘘、信じられない」目を丸くする。
「ガードレールのない道だった。夜だったし、街灯もなかった。無灯火の車に、轢かれた」
「あー……いつも通る道でってなると……あそこかなぁ」
遺影には、よくある日常を切り取った、笑顔の写真を使った。こんなことのために撮ったわけじゃないと抗議したかった。誰にだよ、と言われると困るのだが。
笑顔の遺影の下には、目を瞑ったルリの遺体があった。
生気を失った顔、少しも動かなくなった肌。棺桶の中で、花に囲まれた身体。
思い出すだけで、胸が苦しくなる。
なのに、ルリは軽く言った。
「あー、残念だなぁ」
「それだけ?」
「やっぱり、思い出せないんだよね。だからかなぁ。運転手への怒りとか、悲しみとか湧かなくて。実感ないや」
実感がないといえば、今の俺も同じだ。
「死んでからの感覚とか、分からない? たとえば、暗闇の中にいたとか」
「そういうこと聞いちゃう?」
「ん……ごめん」
「理屈とか考え出すと、頭痛くなっちゃうよ。いや、この痛みは死んだときの奴かな? なんちゃってー」
「……笑えないぞ」
「ごめんって。でもさ、何故か生き返っちゃったし。生き返っちゃったもんは、仕方ないよね。不思議パワーで復活しました、じゃダメかな?」
「……いいんじゃないか?」
「流石、我が兄さん。ね、ね。それよりさ」
ルリは唐突に立ち上がった。コーヒーの黒い水面に波紋が踊る。
「わたし、前からやりたいと思ってたことがあるんだ」
「やりたいこと?」
「ダメかな?」
「内容にもよる……けど」
よるけど、俺はどんな内容でも了承するだろうと、確信があった。
ルリもそれを理解しているのか、「ありがとう兄さん!」と、先走った礼を言う。
「ソラ兄さんの、日常が知りたい」
俺は予想だにしないことで、驚いた。
「そんなことでいいのか?」もっと、色々あるはずだろう。
「たぶん、わたしはずっと存在しているわけにはいかない」
「えっ?」
「ほら、小説とか映画だと、こういうのって絶対にいつか消えちゃわない? だから、わたしもきっと消える。ってか、そんな予感がする」
「これは小説でも映画でもない。現実だ」
「あまりにも現実感のない、ね」
ルリは淡々と続ける。
「だから残り少ない人生」そこで人生? と首を傾げる。「死人生を、ソラ兄さんと一緒に過ごして、終わりたい」
ふと、サッカーのロスタイム、という比喩が頭に浮かんだ。ルリの人生という試合は、前半戦も終わっていないのに、無理矢理、後半戦に突入させられて、あっけなく終了を迎えた。本来、もっと長い試合のはずなんだ。
ロスタイムがあるはずだ。
「兄さん、今、ロスタイムって考えてない?」
「え」
「その比喩は、小説とか映画でありがちだよ」
「これは現実だ」
「知ってる? ロスタイムにも、終わりはあるんだって」
「……まぁね」
「よろしく。兄さん」
『ノベルアップ+』にて、3年前の本作が読めます。私の拙さが見たい物好きな方は、読んでみてください。完結済みです。