ああ、愛しの縁者へ(5)
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リヒトは周囲の様子を窺っているのかただ、国境方向を見つめていた。
ゼーシルが落ち着きを取り戻すまで、無言の時間だけが過ぎていく。
湖面に張った水を眺めているような静寂を破ったのは以外にも落ち着きを取り戻した、当人だった。
「私は、ネージュ様を裏切って、聖国へ行くつもりでした」という迷いのない発言によって、その場の静けさは、さらに悪い意味合いで広がりを見せることになった。
ネージュは一瞬ほどには動揺して瞳を瞬かせたが、すぐに平静を取り戻した。そもそも魔国を出て聖国に移ったら主を裏切ることになるということなどない。頭に疑問が駆け巡る。
「理由は? ゼーシル。理由を言え、何だ?」
戸惑いを隠しきれず、ネージュが詰め寄ると相手はさらに押し黙った。唇を噛み締めながら俯いて苦悶の表情を浮かべている。
彼女の弱々しい姿を見て、質問主はまた脳内をひねった。
しかし、質問主、ネージュは大きく息を吸い込むと、「勝手にすれば良い」と断言した。
「――リヒト。グラースも、もう城へ戻るぞ」
素早く踵を返す。無情とも思える行動だったが、そこまでして秘密にするのだから、彼女にもよっぽどの事情があるのだろう。ネージュなりに、そう考慮した上での結論であった。
リヒトが無言でその背へと続く。
最後にグラースも渋々といった様子で魔獣に跨がると空へと舞い上がる。
その場に残されたゼーシルは、深々と下げた頭を三人が消えるまで上げることはなかった。
ネージュたちが城に戻った頃にはすでに日が傾いていた。役職を終えた兵士たちが続々と各々の寮へ退散して行く。
耳の尖った門兵が「おかえりなさいませ」と三人に声をかけたが、遅れて付いてきたグラースが簡単に手を振っただけで、ネージュは普段通りの横暴そうな態度を見せた。
城内に入った後も、ネージュとの別れ際まで、グラースは「納得行かない」と騒いでいたが、ネージュにとっては、傍使いが一人減ったということなど、大騒ぎする程の問題があるようには思えなかった。
ゼーシルの両親はすでに亡くなっている。魔王の直下でない彼女がいなくなったことを気にする者など、この城にはいないのだ。
ネージュだって気がかりがない訳ではない。彼女が何を思って故郷を離れるのか、一人で聖国で暮らして行けるのかという心配は当然ある。
リヒトは特に何も言わず、主の部屋で壁に寄りかかっていた。そんな彼の側、床に腰を下ろし、瞑想しながらネージュは更に考えを巡らせた。
ネージュは魔王の娘だ。しかし、母親は正室でなく側室の一人であり、それを非難する者も多い。
魔王である父親は、それなりに可愛がってくれたので、身の上に不満はなかったが、正室生まれの兄がいるのでどうやっても王位は継げない。
家臣たちは兄に仕えるほどの特はないと思っているのか、彼女にはあまり尻尾を振らなかった。
そして兄派の連中にはネージュの従者をぞんざいに扱う者がいる。
ゼーシルも何か嫌がらせを受けて、人知れず傷ついていた可能性も……とそこまで考えてから思考を止めた。
結局のところ当人が何も言わなかったので、後であれこれ考えても徒労な気がしたのだ。
ゼーシルではない他の下女が、紅茶や菓子が乗ったカートを押して部屋へ入ってきた。
「お茶が入りましたよ」と、にこやかに微笑む彼女が一瞬、幼なじみ(ゼーシル)に見えた気がして、ネージュは自身に困惑した。
そこまで彼女を大切にしていただろうか。ならば、自分はどうして引き留めなかったのだろう。ネージュは惑っていた。
複雑な心情を悟られないように、引かれた椅子に大げさに腰掛けた。
「うむ、苦しゅうないぞ」
足を組むと、いつものように調子よく笑ってから焼き菓子を口へと放り込んだのである。