第一話
人は、つい、幸せを見失いがちになる。
あるところに一人の神様がいました。
その神様の見た目は、老婆の姿をしていました。老婆の姿をした神様に親切な行いをした人間には、ご褒美が与えられました。
「一つだけ願いを叶えてあげましょう」
そう言って一つだけ願いを叶えてもらえるのです。
◎◎◎
坂田遼斗は怒っていた。
――アイツ、死ねばいいのに
取引先からの帰りの車の中で毒づく。
遼斗は小さな文房具メーカーに勤めている。今日訪ねたのは、この地域で一番名の知れた企業だった。
社内で使う文房具一式を、遼斗が勤めるメーカーに発注してくれている。
大口のお客様なのだ。
現、社長は一代で会社を築いたやり手だけあって、人あたりもいい。
ただ、二代目にあたる息子が厄介だった。
今日も、クレームの電話をかけてきた。
「ちょっとー、お宅で買ったボールペン、インクの出が悪いんだけど!」
――知るか!!
と思ったけれど、無礙にはできない。お詫びに出向いたのだった。
「12本中3本もインクが出にくいってどういうこと?」
「もっと大きな企業に契約変えてもいいんだからね?」
二時間くどくどクレームを言われたのだった。
聞いているふりをして、別のことを考えても、二時間ネチネチ言われるのは消耗する。
気づくとアクセルを踏み込みすぎていた。
いけない、いけない……
信号のない横断歩道に差し掛かる。
ふと手前に何か見えた。
老婆だった。腰が曲がり、杖をついている。対向車はそんな老婆に気づかないのか、減速することなく横断歩道に差し掛かる。
遼斗は自然に停車した。それに気づいた対向車も停止する。
老婆は一礼するとゆっくりゆっくり横断歩道を渡った。
◎◎◎
会社が契約しているコインパーキングに車を停め、社屋まで歩いていた時だった。
「もしもし」
後ろから声をかけられた。びっくりして遼斗は振り返る。そこには、腰の曲がった老婆がいた。
――どこかで見たことがある……
はっとする。
先程、横断歩道を渡った老婆にそっくりだったのだ。
でも、こんなところにいるはずがない。
そんなことを思っていると、老婆が言った。
「一つだけ願いを叶えてあげましょう」
「は?」
状況が飲み込めず、遼斗は混乱する。
「あなたは先程、横断歩道を渡らせてくれました。そのお礼です」
――やっぱり!! 横断歩道を渡った老婆だったのか
老婆の顔に刻まれた皺は深かったが、その目には妙な力が宿っている。
本当に願いを叶えてくれるのだろうか。
遼斗はいろんな考えを巡らせながら、ある願いを思いついた。
「どんな願いでもいいんですか?」
念を押す。
老婆は深く頷く。
遼斗はその願いを口にした。
◎◎◎
翌朝、出勤すると社長が慌ててやってきた
「田中商事の息子さんが交通事故で亡くなったらしい……お前も一緒に通夜に来てくれ!」
僕は息を呑んだ。
「はい……」と返事した声は、動揺のあまり震えて掠れていた。
――田中商事っていう会社の息子を殺してほしい
昨日、老婆にそう頼んだのだった。
まさか、本当にそれが叶うなんて。
僕は上の空で仕事をし、社長と一緒に通夜に向かった。翌日の告別式にも参列した。息子は間違いなく亡くなった。
田中商事の社長のショックは相当なもので、社員に支えてもらわないと立てない程だった。
◎◎◎
それから半年後、田中商事の社長は突然、会社をたたんだ。
それは僕の会社にも大きな打撃を与えた。一番の顧客を失ったのだから……
僕の会社は業績が悪化し、倒産に追い込まれた。
僕は今、無職だ。
あの日、老婆にあんなことをお願いしなければ、こんなことになっていなかったのかもしれない。