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しかし、数十秒後には「飽きちゃった」と言って彼女は立ち上がった。良かった、シロツメクサは無事に試練を耐え抜いたようだ。
「じゃあ帰ろうよ」
「うん。お腹空いた」
数分前のむくれ顔とは打って変わってからりと笑っている。さっきまでは全然動く気がなかったはずなのに、早く早くと僕を急かす。まったく、なんてマイペースな人なんだ。そうは言いつつも彼女との交友関係を一向に断ち切ろうとしない僕も、なかなか特異な人種なのだろう。そんなことを思いながら、彼女に背中を押されて僕はまた帰路を歩み出した。
いや、正確に言えば、歩み出そうとしたのだ。
突然、空を引き裂くような叫び声が僕らの耳へ届き、僕たちはバッと振り返った。そこには、いつかの光景を連想させる紅が流れていた。
震えながらへたりこんでいる女性の隣には、ゴールデンレトリバーだと思わしき大型犬がぐったりと横たわっており、紅を溢れさせた犯人は今もなお犬を痛めつけている。あまりにも悲惨な光景に、僕は思わず目をつむりたくなった。
犯人は全身真っ黒な格好で、ナイフを犬の腹に何度も執拗に突き刺している。ぐにゃ、ぐちゃ、と嫌に現実味を帯びた音が響く。犬がもう息絶え絶えであることは明らかにわかっているのに、犯人はなお手を止めない。犯人以外の人間は、情けないことに僕も含めて、その場から動くことができなかった。目の前で甚振られている命を、助けることができなかった。
何分か経った頃だろうか、犯人は一瞬僕たちの方を向いて、明確な意図を持って何かを見つめた。もしかしたらそんなことはなかったかもしれないが、少なくとも僕にはそう見えた。そして、逃げるようにどこかへ走り去っていった。
それからは、事が終わった後の通報で駆けつけた警察官の指示に従って動いた。いくつか質問されて、事件の流れや犯人の容姿などを伝えたはずだ。詳しいことは、正直、ショックであまり覚えていない。犬の腹部から零れ出た血の色が以前見た景色と重なって、僕も相当やられていた。でも、ふと彼女を見たとき、何かがおかしいような気がした。目の前の死ではなく、僕の知らない何かに怯えているような感じがした。結局、弱りきった精神状態の僕では、その答えには辿り着けなかったのだが。
その日唯一理解できたのは、再び目に焼き付いてしまった紅は、もう二度と消えることはないだろうということだけだった。