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気がついたとき、僕はスコップで地面をパンパンと軽く叩いていた。自分は今、何をしているのだろうか。全く状況が把握できないまま、体は勝手に動き、近くにあった何かを掴む。そして、先程スコップで叩いたあたりにそれをゆっくりと差し込んだ。そこに書いてある文字を理解するのに、そう時間はかからなかった。
「今は、これでいいんだよね」
後ろの方から聞き覚えのある声がした。立ち上がって振り返ると、やはりそこには彼女がいた。最近の彼女と違って、何かを吹っ切れたような表情が見える。
「【 】くん、ありがとう。私、前に進むよ」
そう言って彼女は青くて広い空を仰いだ。風が彼女の髪をやわらかくなびかせる。僕たちがいたのはどうやら桜の木の下だったようで、空中では花びらがはらりひらりと舞い踊っている。それは自然と彼女と出会った日の光景を連想させた。
「桜、綺麗だよ。こんなに大きな桜、私初めて見たかも」
子供みたいにくふくふと笑った彼女は、唐突に漂う花びらをキャッチする遊びを始めた。僕がいるのに恥ずかしげもなく、夢中で花びらを追いかけている。しかし、するりひらりと指の隙間をすり抜けて、花びらはなかなか捕まらない。そんな彼女を、僕はただぼうっと見つめていた。
「難しいなあ。ねえ、【 】くんもやってみてよ」
僕はやる気なんてないのに、体が勝手に彼女の言うことを聞いてしまう。舞い散る花びらの一つに目標を定めて、僕はぱっと手を伸ばした。
「え、うそ! 一発で取れたの⁉」
彼女は驚いた顔で近づいてきた。早く見せてと言わんばかりに覗き込むから、僕はゆっくりと拳を開いた。すると、おかしなことが起きた。
「あれ、これ桜の花びら? ビビッドピンクって感じだね」
彼女がビビッドピンクなんて言葉を知っているとは思わなかったが、驚いたのはそこではない。僕の目には、それが至って普通の桜の花びら、つまり薄桃色に見えるのだ。彼女は顎に手を当てて、首を傾げている。反応からして、嘘をついて僕を騙そうとしているわけではない、と思う。いったい、これはどういうことなのだろう。
疑問を抱きつつ、再び手中の花びらに目を向けると、今度は突然それがでろりと溶けた。なんというか、色素が全て溶け出したような感じで、ほぼ透明な液体が手のひらにたまる。彼女は花びらがビビッドピンクに見えていたらしいから、この液体の色も違って見えているはずだ。もしかしたら、いつかの血溜まりの光景と重なっているかもしれない。
そんなことを考えていると、急に嫌な感覚が僕を襲った。掌に溜まっていた液体が、手の甲の方まで生きているかのようにまとわりつく。ぞわりと気持ちの悪い感じに耐えられず、僕はそれを思い切り振り払った。