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「食べ物で釣るんですか」
頬を膨らませたままではあるが、彼女は口を開いた。じっとこちらを睨む瞳は「納得いかない」と訴えかけていて、目は口ほどに物を言うというやつをまさに今体感している。
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあどういうわけですか」
「女の子は甘い物、好きかなって」
「やっぱり釣ってるじゃないですか」
「……あんみつ嫌い?」
埒が明かないので、笑みを込めた困り顔で控えめにそう言ってみた。普段だったら絶対こんなことしない。所詮、媚、猫かぶりだ。
とはいえ、今回は「ドS」が行き過ぎてしまったし、悪かったとは思っている。それはちゃんと伝わったようで、しばらくの沈黙の後、彼女は小さく「好き」と答えた。
「じゃあ、あんみつ食べる?」
「食べる」
「わあ、即答だね」
ようやく、目と目がパチリとあった。そして、二人でクスクスと笑った。なんだか、長い茶番をやっていたような感じで、どうもおかしかったのだ。
笑いがおさまったところで、あんみつが僕たちのテーブルに到着した。佐伯さんはなんてタイミングが良いのだろう。
「これ、【 】くんの奢り?」
「まあ、そうなるね」
「いただきます」
「どーぞ」
彼女は美味しそうにあんみつを頬張った。それにしても、これがデザートは別腹、というやつなのだろうか。
「ねえ、お願い聞いてよ」
少々強引な彼女が頼み事なんて、珍しいこともあるものだ。不思議に思いながらも「何?」と返事をする。
「明日も、一緒にみゃーこに会いに行こうね」
「それ、いつものことでしょ?」
「そうだったー」と彼女はとぼけたように笑う。
「梅雨だから、気まぐれにどこかへ行っちゃうかもしれないけどね」
「あー、早くみゃーこをなでなでしたいなー」
「明日まで気長に待ちなよ」
「うん、そうしよう!」
それからは、そこら辺にいるありきたりな学生のように、普通に談笑していた。学校の話とか、みゃーこの話とか。僕がコーヒー一杯を堪能していた時間で、彼女はあっという間にあんみつまでしっかりと平らげて、「ごちそうさまでした!」と元気よく言った。
ここは居心地が良くて、つい長居しすぎてしまった。機会があったら、一人でもまた来よう。そんなことを考えながら帰り支度をした。席から立ち上がると、彼女は窓の向こうを見て目を見開いた。
「あ、あれ虹じゃない? 佐伯さん、これ私の分のお金ね! ちょっと見てくる!」
僕が引き止める間もなく、彼女はバタバタと外へ出て行ってしまった。ドアのベルがカランカランと遅れて響いた。佐伯さんは「夕陽ちゃん、元気ねぇ」と呑気に笑っている。僕は「まあ、そうですね」と曖昧な返事をすることしか出来ず、苦笑いしながら代金を支払う。
「あの子が連れてきたの、君が初めてよ」
「え」
唐突に発せられた言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
「そう、なんですか」
「ええ、いつも一人で来ていたから。ここに来て話す相手はいつも私や娘だったし……。きっと【 】くんは夕陽ちゃんの『特別』なのね」
佐伯さんの言う「特別」という言葉が、やけに胸にすっと入り込んできた。そんなこと、考えたこともなかった。
彼女は確かに少々強引だが、明るくフレンドリーであるのも事実だ。だから、当然友人も多くいて、彼らとよくここを訪れているものなのだと思っていたのだが。もしかして、友人が大勢いるにも関わらず、意図的にこの場所を紹介していないというのだろうか。
「『特別』ですか」
考えれば考えるほどわからなくなる。自分がここに呼ばれた意味が、海の底へ向かってどんどん沈んでいって、やがて見えなくなる。うまく言えないけれど、そんな感じだ。
「私が言うことじゃないのかもしれないけど」という佐伯さんの声で、僕は思考の渦から現実世界へと引き戻された。
「これからも夕陽ちゃんのことよろしくね」
「……はい」
穏やかに微笑む佐伯さんに、まだ迷いのある言葉を残して、僕は喫茶店を後にした。