この手に残る、柔らかな温もりを
ラッキースケベ回
「バル、わたしに剣術を教えてほしいの」
ゲルプ王国第三王子のバルドゥールが、ガルボーイ王国第一王女アンナに乞われたのは先月のこと。
アンナの生国ガルボーイ王国国内は、内乱によって、大変不安定な政情にあった。
そのためアンナは生後間もなく、ゲルプ王国に亡命した。
現在、グリューンドルフ公爵タウンハウスに身を寄せている。
現ゲルプ王国国王の王弟であるグリューンドルフ公爵は、公にはアンナを遠縁の親戚から引き取った養女であると評していた。
学園の泊りがけの軍務訓練もなく、王族としての公務からも解放された週末のある日。
バルドゥールはいつものようにウキウキと弾むような足取りで、グリューンドルフ公爵タウンハウスに出向いた。
手にはアンナのために王家御用達の刀匠に拵えさせた短剣一振りと、演習用の模造刀を三振り。
真剣であるダガーはアンナの護身用の剣として進呈するつもりだ。
一方、演習用の模造刀の内訳は、ダガーに寄せた模造刀二振りと、サーベルによく似せた木剣一振り。
普段バルドゥールが剣術の稽古や軍務演習に用いるのは、剣先を潰した模造刀。
しかしアンナに剣術指南をするにあたって、それではあまりに危険性が高い。模造刀とはいえ、殺傷能力は十分に高い。
アンナに少しの傷も負わせたくないバルドゥールは、婦女子の剣術稽古に向く代物をと。姉であるゲルプ王国第一王女エーベルに意見を仰いだ。
エーベルは自身が護身術を習う際に用いていた、短剣を模した刀と、また教師が使用していた木剣をバルドゥールに提案した。バルドゥールはそれを取り入れることにした。
「バル、お待たせしたわね」
アンナの強く気高く響く声が耳に入り、バルドゥールは振り返った。
視線の先にはふっくらとした唇を不敵に吊り上げたアンナが、こちらに歩を進めている姿。
いつもは背にゆるく下ろしている艷やかな黒髪。高く結い上げられ、アンナが足を進める度、馬の尻尾のように揺れている。
きつく結い上げられ頭皮まで引っ張られているのか、常より目尻が吊られているように見えた。
それがまた、今日の装いに乗じて、酷くそそられる。
「やあ。今日は男装しているんだね」
屋敷のティールーム前にある、庭を一望できる屋根つきのテラスから出て、こちらへと向かうアンナ。
それまで薄暗い影に覆われていたのが、屋根下から出た途端、アンナは燦々と白く降り注ぐ太陽の光を全身に浴びた。
スタンドカラーのシンプルな白いブラウスに、濃紺のスラックスをベルトでギュッと絞り、足元は黒く艷やかなジョッキーブーツ。
シャツの胸元はどこか苦しそうに、ぱつぱつと左右に引っ張られている。
ベルトで強調された細い腰から豊かなヒップ、ジョッキーブーツへの曲線。スラックスを仕舞いこんだジョッキーブーツは、膝からその下、すらりと長く細いふくらはぎの形が露わになっている。
「とてもよく似合っているよ」
バルドゥールが目を細めたのは、アンナが背に太陽を背負っていたからではない。
確かに正午の白い太陽は眩しかったが、アンナの魅惑的な身体のラインが、ハッキリと陽の光で発光するかのようになぞられていたのだ。
バルドゥールからすると逆光となって、アンナの表情は見えにくかったが、愛する女性の表情は、その声色から手に取るようにわかる。
アンナは不敵に笑んでいる。
「ええ。だって今日は、バル直々に剣術の稽古をつけてくれるのでしよ?」
弾む声で答えるアンナはバルドゥールの側まで来ると、腰に手を当てバルドゥールを見上げた。
バルドゥールの影に入ったアンナ。
その表情は太陽の残像が残るバルドゥールの目に、鮮やかに刻み込まれた。
バルドゥールの予測していた通り、不敵に口の端を吊り上げ、上向きに曲線を描く睫毛に囲われたグリーンアイズは挑戦的にバルドゥールを見上げる。
その煽情的なこと。
バルドゥールは王子として鍛えた微笑が崩れないように、表情筋に力を込めた。
「うん。アーニャには短剣を用意してきた。大振りの剣より使い勝手がいいかなと思って」
そう言うとバルドゥールは、模造刀をアンナに手渡した。持ち手は細く軽量で、ダガーを模している。
アンナが模造刀を鞘から引き抜き、しげしげと見つめる。
「へえ……。まるで本物みたい。よく出来てるのね」
バルドゥールは苦笑した。
「それは流石にないかな。ほら、こっちと見比べてごらん」
バルドゥールは慎重に真剣であるダガーの鞘を抜いた。
その刃を太陽に翳す。白い陽を受けた刃がきらりと光った。
「あら……。本当だわ。こちらは真剣なのね?」
魅入られたようにバルドゥールの翳す短剣を見つめるアンナ。
バルドゥールは短剣を下ろすとゆっくりと鞘に戻した。
「うん。これはアーニャへの贈り物。護身用にと思ってね。出番がなければそれに越したことはないけど」
バルドゥールはアンナから模造刀を一度引き取ると、短剣を手渡した。
アンナは両手で受け取り、小さく頷く。
「ええ。勿論不用意に剣を手にしたりしない。これは人の命を奪う武器だわ。だからこそ、わたしは奪うのではなく護るためだけに使う」
「最後の手段だからね。僕がアーニャに多少の心得を教え、それをアーニャが体得したとしよう。それでもアーニャは、これを積極的に振るってはいけない。君の身は騎士に守らせるんだ。それでもどうしようもなく、他に頼る者が一切いなくなり逃げ場もなくなり、そこで初めて、アーニャ。これを使うんだ。わかったね?」
バルドゥールを見上げ、しっかりと頷くアンナに念押しをする。
「例えば、誰かが危機的状況にあって、その者の周りに助けがなかったとしたら。アーニャしかその場に居ないとする。しかしその時も、アーニャは手を出してはいけない」
不満気な表情を浮かべるアンナに、バルドゥールは左右に首を振った。
「アーニャがまずすべき事は、その場を安全に逃れ、助けを呼ぶことだ。アーニャの力量が今後どう変化しようと、アーニャが攻撃のために、また他人を救うために剣を取ることを許すつもりはない」
「……立場を自覚しろ、ということね」
バルドゥールは頷いた。
寂しそうに目を伏せるアンナに同じ王族としての孤独を感じ取るが、バルドゥールも譲れない。
アンナの手を汚すことなど、本来あってはならないし、気丈で勇敢な少女が自ら進んで犠牲になろうとすることには、予め釘を刺しておかねばならない。
王族の義務だなんて、体の良い言い訳だ。
バルドゥールはただ、好きな女さえ助かってくれればいいだなんて、王族にあるまじきことを考える、愚かな男に過ぎない。
「誓ってくれ。アーニャが何より自分の身を第一に考え守ること。危険を感じたら逃げること。誰かを助けようと飛び込まないこと。その剣をアーニャの身を護ること以外に振るわないこと」
バルドゥールがアンナの目を覗き込むと、アンナは目を閉じた。そして静かに瞼をあげる。
バルドゥールの影に入っているはずのアンナの瞳が、キラリと光ったように見えた。
「誓うわ。わたしはこの剣を己の身を護ること以外に、決して振るわない」
アンナの決意に満ちた顔つきに、バルドゥールは頷く。
「誓いをたててくれてありがとう」
バルドゥールが微笑むと、アンナは唇を尖らせ、拗ねた素振りを見せる。
「バルだって王子様なんだから、自ら率先して剣を振るうんじゃなくて、護衛騎士に任せなさいよ?」
「いや。僕は学園卒業後は軍務に就くから」
さらりと否定するバルドゥールに、アンナの目の色が変わる。
「何それ! 聞いてないわよ!」
毛を逆立てた猫のように猛然と向かってくるアンナ。
バルドゥールは両手を挙げ手の平をアンナに向けて、降参を表明する。
「仕方がないよ。僕は第三王子なんだ。内政に外交といった公務は主に兄上達が担う。僕に任せられるのは、王国騎士団の牽引なんだ」
だから当初はバルドゥールは王立学園ではなく騎士学校に入学しようと考えていた。しかしそれは父国王や侍従に反対されたのだ。
第三王子とはいえ、一応は王太子のスペアであり、また他国の王女との婚姻の可能性があるから、と。
あのとき助言を受け入れ、踏み留まって本当によかったと思う。
アンナが女王となったとき、王配としてアンナを支えるのに、騎士学校で培う人脈より、王立学園で築く人脈の方が役立つことだろう。
「大丈夫だよ、アーニャ。外征に赴くことは学園を卒業するまでないだろうし、国内は今のところ、武を要する小競り合いもない」
納得がいかないというように片眉を上げるアンナに、バルドゥールは身をかがめる。
アンナの耳元で小さく囁く。
「ガルボーイの紛争もあと数年のうちに終わるだろう。外征に赴く必要も、おそらくなくなるから」
バルドゥールの言葉にハッとするアンナ。バルドゥールはにっこりと微笑みかけた。
「ではお姫様。稽古を始めましょうか?」
ガルボーイ王国国内が落ち着けば、アンナは国に戻るだろう。
アンナがガルボーイ王国王女として立場を明確化したならば。バルドゥールは堂々と婚約を申し込む。
アンナは十四歳。
すぐに婚姻を結ぶことは出来ないだろうが、少なくともアンナの成人する十六の頃には婚姻を交わしたい。ガルボーイの内乱が早期に落ち着くよう、ゲルプ王国王族達も尽力している。
「練習にはこっちね」
バルドゥールは真剣である短剣をアンナの手から奪うと、自身の侍従に預ける。それから短剣に寄せた模造刀をアンナの手に渡した。
「……よろしくお願いするわ」
バルドゥールが自身のために用意した模造刀は二振り。
アンナに動きを指導する際、刀の持ち方に捌き方、様々な構えに型を示すのに自身の使用するがための短剣の模造刀を一振り。
そしてゲルプ王国に限らずこの大陸において、大概の騎士に剣士が使用するサーベルを模した木剣。
アンナに一通りの動きを指導したあと、対峙しての実戦練習をするには、バルドゥールはサーベルを模した木剣を構えるつもりでいた。
だが、今日一日でそこまで進めるつもりはない。
「まずは持ち方」
バルドゥールはアンナの後ろに回り、利き手である右手で自身の模造刀を握って見せた。
親指を鍔の先端にのせ、残る四指で鍔を握る。リバースグリップだ。
「これはリバースグリップ。手首の可動域は狭くなるし、対象に刃先を届かせるには距離を詰めなくてはならない」
「それでは不利ではないの?」
首を傾げるアンナに、バルドゥールは頷いた。
「そうだね。だけどアーニャが剣を取るのは、身を護るためで、絶体絶命のとき。観客のいる決闘や試合じゃないし、相手を徹底的にぶちのめす必要もない。逃げる隙を作ることが出来ればいいんだ」
バルドゥールはアンナの前に回ると距離を取った。
短剣を手にした右手は肘を曲げ、畳んたままバルドゥールの顔正面に掲げている。そしてそのまま斜め左下に振り切った。
「こうして振り下ろす。この握り方が一番力が入るし、安定する。対象を捉えられたなら、他のどの握り方より最も確実に対象に刃を立てることができるし、手首を痛めにくい」
真剣な顔で向かい合うアンナに、バルドゥールは「やってみて」と促す。アンナは頷くと、逆手に短剣を持って掲げると、素早く振り下ろした。
「そう。それでいい。力が入らなくて不安定だったり、思い描く軌道からズレたりはしない?」
「ええ。大丈夫。きちんと握れていると思うわ」
「それならよかった。僕の目から見ても、特に問題はなさそうだ」
ぶんぶんと模造刀を振り回しているアンナ。上下左右、様々な角度から振り下ろしているらしい。バルドゥールは思わず笑みが零れる。
するとバルドゥールの微笑に気が付いたアンナがじとっと恨めし気な視線を投げてきた。
バルドゥールはコホンと咳払いをする。
「次は構えだね」
バルドゥールは模造刀を持った手を後ろ手に隠した。
「可能なら、相手に剣を持っていることを悟られないように。反対側の手を動かすとか、何か投げるとか、なんでもいい。気をそらすことができればさらにいい」
「わかったわ。他には? 腰を下ろすとか、肩幅に足を開くとか。そういうことは?」
バルドゥールは頷く。
「アーニャが言ったような姿勢をとれれば、それは一番初動に適していると思う。ただしその構えは相手を襲うことをあからさまに宣言している。アーニャのような『か弱い貴族令嬢』の一番の強みは、相手の不意をつけるかもしれないってこと。だから必ずしもそれが適しているとは言えない」
「そう……。じゃあどうしたらいいの?」
「うーん。でもまあ、まずは安定した姿勢で剣を構えることから始めようか。基本が大事だからね」
アンナの言ったように肩幅程度に足を広げ、腰を落とし、模造刀を持つ手とは逆の手を前方に構える。それを見たアンナがバルドゥールを真似た。
へっぴり腰というわけでもなく、なかなか様になっている。
アンナの体幹がそれなりに鍛えられていることは知っていた。体力も筋力もある。
グリューンドルフ公爵自身が武に秀でているため、公爵家の人間は自然と体を鍛えることが日課となっているからだ。
また公爵所有騎士団の基礎訓練に、フルトブラントがアンナを時折混ぜてやっていたりする。
しかしそれでも、アンナに剣術を指南することはなかった。
剣術とは、どう言い繕ったところで、人の命を奪うためにあるものだからだ。護身用の剣術だろうが、それは変わらない。
――それはわかる。僕だって好き好んでアーニャに剣術なんて教えたいわけじゃない。
剣術を習ったから、と下手に自信をつけて無鉄砲に飛び出されてはかなわない。
それならば最初から剣術のイロハなど教えず、守られていろ逃げ延びろとだけ教え込む方がいい。
――だけど、ねえ……。
この一年、アンナと交流するうちに、バルドゥールとて気が付く。アンナがただ守られているだけに留まる少女ではないことを。
どうせバルドゥールが教えなくても、いずれグリューンドルフ公爵家嫡男のフルトブラントだったり、グリューンドルフ公爵騎士団の騎士の誰かだったりがアンナに懇願され、音を上げるだろう。
アンナの義兄フルトブラントはアンナを猫可愛がりしているし、婦女子が剣を持つことをとても厭うているから、頷かないかもしれない。グリューンドルフ公爵も同じだ。
だがアンナをグリューンドルフ公爵家の美姫として崇め愛でている、グリューンドルフ公爵騎士団の騎士達はどうだろう。
アンナが何度もおねだりすれば、ころっと陥落するに違いない。そしてそれ以上にバルドゥールが敵視しているのは……。
「姉上。こんなところにいらしたのですか」
突如テラスから投げかけられた声。
アンナはその声に振り返った。
「アデル!」
栗毛の巻き毛を揺らし、アデルと呼ばれた美少年が天使の微笑みを浮かべてこちらに駆けて来る。
バルドゥールは苦虫をかみつぶしたような顔になった。またこいつがアンナとの逢瀬の邪魔をする。
この一見無邪気そうな顔をした従弟が実は腹黒く陰湿なことなど、バルドゥールはよく知っている。
アデルのずる賢さは、兄であるフルトブラントなど足元にも及ばない。
アンナはこちらに駆け寄ってくる義弟に嬉しそうに手を振る。
面白くない。まったく面白くない。
バルドゥールはこの腹黒シスコン従弟に見せつけてやろうと思いつく。
アンナが一体誰のものなのか。いや、ものというのも違うのだが。とにかくアンナの隣に立つのはバルドゥールだけである、と。
「アーニャ。ちょっとおいで。肩に芋虫が……」
ついてるよ、と言おうとしたところでアンナが大絶叫した。
「いやああああああああああっ! 取ってええええええええ!」
気が動転しパニックに陥ったアンナは、手にした模造刀をぶん投げ、バルドゥールに迫った。
アンナの放った模造刀がひゅんひゅんとバルドゥール目掛けて飛んでくる。
「うわっ!」
間近で勢いよく放たれた模造刀をよけ、なおかつ助けを求めるアンナを抱き寄せる。そのつもりだった。
が。しかし。
むにゅり。
バルドゥールの大きな左手に沈み込む、柔らかで弾力のある感触。
――えっ。これはなんだ?
あまりの触り心地のよさに、思わずバルドゥールは弾力ある何かにぐにぐにと指先を沈める。
手の平全体に伝わる熱。柔らかくしっとりとして手に吸いついてくるような――……。
むにゅむにゅ。
バルドゥールは意識を飛ばしていた。
本当に飛ばしていた。
嘘じゃない。決して嘘じゃない。
今日はコルセットをつけてなかったな、とか。手の平に当たるこの突起は、とか。
そんなことを考えちゃいない。本当に。
「やっ……! や、やだぁ……っ!」
はっと我に返ると、羞恥で顔を真っ赤に染め上げ、目を潤ませ。バルドゥールの胸を力いっぱい押して、離れようと藻掻くアンナがいた。
「うわっ! ご、ごめん!」
勢いよくアンナから離れるバルドゥール。
両腕を抱き、涙目でバルドゥールを睨みつけるアンナ。
「うわって……」
アンナはどこか傷ついたような顔をする。バルドゥールは己の失態に、もはやどうしたらいいのかわからない。
――傷ついてる? え? 僕が触ったから? 触ったというか、も、揉んだ……よな……?
この変態! 死ね! とか思われているのだろうか。アーニャに嫌われてしまっただろうか。
そんなことは耐えられない。
バルドゥールは真っ青な顔でアンナに謝る。
「ごめん……! ほんとに……! あの、わざとじゃ……なかった、んだ……けど……」
わざとじゃない?
あんなに堪能しておいてか?
バルドゥールは我ながら白々しいと語尾が小さくなった。
アンナがキッと睨む。
「そう……! そうよね! わたしの胸なんて、バルがこれまで揉んできた女よりずっとささやかでしょうよ! どうせ胸だとも思わなかったんでしょ!」
「えっ?」
何かとんでもない勘違いをされている気がする。
そもそもアンナの胸は成長途中の十四歳の少女とは思えないほど、けしからん大きさだ。
いや、そういうことじゃない。
「あの、アーニャ? その、それは一体どういう……?」
おずおずとアンナに問い、ゆっくり近づこうとすると、アンナとバルドゥールの間に黒い影がさした。
「最低です、殿下。見損ないました」
冷たく凍り付くような声。
声変わり途中で、普段は掠れがちな声が今はやけにしっかりと発声している。
「アデル……」
アンナは義弟のアデルがまるで救世主であるかのように、うるうると縋る眼差しを向ける。
「えっ? 最低? いや、確かに、僕のしたことは褒められたことじゃないかもしれないけど……」
いや、しかし。
好きな女の子の胸に手が触れるなんて事故が起こったら、ちょっと仕方がないんじゃないか?
だって健全な男なんだし。というか、これまで揉んできた女ってなんだ?
バルドゥールはこれまで閨の授業でさえ、女の胸を揉んだことなど一度たりとないのだが。
自分の童貞はアンナに捧げると誓って、紳士の社交場として王立学園の馬鹿どもや騎士団の面々によって娼館に連れていかれたときも、一切女に触れなかったのだが。
さすがに酌くらいはさせたけれども。
「何か誤解があるんじゃ……」
「何が誤解ですか」
オロオロと取り乱すバルドゥールを冷たく一瞥すると、アデルはアンナの手を取った。
「いもしない芋虫がいる、などと姉上に嘘をついて」
「うっ……。それは……」
だってアンナがアデルの登場に嬉しそうにするから。
週末にようやく会えるかどうか、というバルドゥールにとって待ち遠しく貴重な時間なのに、まるで二人きりの時間などたいしたことがないように。
俯き言い淀むバルドゥールに、アデルは鼻を鳴らした。
「行きましょう。姉上。こんな変態、放っておけばいい」
クズって!
第三王子をつかまえてクズって!
アデルに手を引かれて屋敷に戻っていこうとするアンナを、バルドゥールは追い縋るように見つめた。
アンナはちらちらとバルドゥールに振り返りながら去っていく。
「アーニャ……」
情けなく眉尻を下げたバルドゥールに、アンナはぐっと息を飲み込む。
アンナの手を引くアデルの足が速くなる。
「バル!」
手を引かれながらも、アンナが叫ぶ。
バルドゥールはアンナが自分の名を呼んでくれたことにホッとする。
「あなた、次会うときまでに、もうちょっと(女心を)お勉強してきなさい!」
――えっ? お勉強?何を?
バルドゥールの頭に疑問符が浮かび、そこに立ち尽くしている間に、ついには小走りになったアデルに引っ張られ、アンナの姿は屋敷に消えてしまった。
――勉強って一体……。
混乱するバルドゥールに、これまで始終を見守り控えていた侍従が小さく嘆息した。
バルドゥールはゆっくりと振り返り、侍従に尋ねる。
「勉強って……なんだと思う?」
「さあ……。とにかく今日はお早くお帰りになった方がよいかと」
疲れたように首を振る侍従に、バルドゥールは「うん……」と力なく返事をした。
が、侍従のアドバイス空しく、グリューンドルフ公爵タウンハウスを後にしようと馬車に乗り込む寸前、バルドゥールはぐいっと力強く肩を引かれ、転倒して尻もちをつくこととなる。
驚いたバルドゥールが己に落ちる影を見上げると、そこには眉間の皺険しく、鬼のように憤怒を顔一面に表すフルトブラントがいた。
「え……? ブラント、どうし、」
どうしたのか、と問い終わる前に、バルドゥールはフルトブラントの鉄拳制裁を食らった。
バルドゥールがグリューンドルフ公爵タウンハウスに足を踏み入れる許可が出たのは、その日から約半年後のことだった。
その間、アンナに向けたバルドゥールからの手紙は、アンナの手に渡る前にアデルが執事から奪い、ビリビリに引き裂かれていた。
しばらくアデルと共に憤っていたフルトブラントだが、アンナの寂しそうな横顔に折れ、学園でバルドゥールから渡される手紙を、こっそりアンナへと運んでやった。
アンナのためにとバルドゥールが用意していた短剣は、あの日結局渡し損ねたため、フルトブラント伝手でアンナの手に渡る。
そしてバルドゥールとアンナは手紙を交わすことで、アデルという障害に阻まれた恋心を燃え上がらせる結果となり、アデルを悔しがらせることとなる。
バルドゥールはアンナに会えぬ間、幾度となく思い出しては反芻していた。
この手に残る、柔らかな温もりを。
了
こちらは【完結連載】「末っ子王子は、他国の亡命王女を一途に恋う(https://ncode.syosetu.com/n1152hd)」の番外編抜粋の短編です。