3話 変な部活②
「あれ、埜井さん?」
「あ、添観くん。」
ものすごくラッキーだったと思う。
僕はふだん、学校ではあまり埜井さんと一緒にはいない。
毎週土曜日はかならず散歩部の活動があるけれど、平日は。
僕が二年九組で、埜井さんが二年二組。そこに至るまでの教室の廊下の長さと言ったら途方もなくて、用事がなければ、なかなか会いにいくことはできない。(しかも僕は置き勉派なので、「教科書を忘れちゃったから、貸してもらえないかな。」なんて言いにいく機会すら、ほとんどない。でも、あんなに大きなロッカーがあって、毎日かばんの中に教科書を詰めて登下校なんてするのは、かえって無礼な話だとすら思う。)
でも、今日の放課後は。
たまたまホームルームが長引いて、いつも乗るはずの帰りの電車の時間に、どうがんばっても間に合わないような時間になってしまって、仕方がないからとしばらく明日の小テストの勉強をしてから、ようやく帰り道につこうとしたら。
そうしたら、埜井さんがいた。
あまりにもラッキーなことだと思う。
「いまから帰り?」
「あ、うん。そうなんだけど……。」
それじゃあいっしょに帰ろうよ、とウキウキで言いかけて。
僕は目ざとく、埜井さんの注意が、どうにも『これから帰宅すること』に向いていないらしいということに、気がついた。
僕たちがいるのは、四階建ての校舎の、三階。
二年生の教室のある四階(どうしてがんばって進級したにもかかわらず、毎朝毎夕、一年前より一階分多く上り下りしなくちゃいけなくなったのか。その真相は、謎と悲しみに包まれている……。)から降りてきて、階段のところに立っている。
それで、彼女の目線の行く先は、教室の方。
僕たちの側から見て、一年四組から、一組までの教室が並んでいる方だった。
「どうかしたの?」
すこしだけ考えたけれど、答えがすぐにわかりそうにもなかったので、訊いてしまった。
一年生の知り合いに、用でもあるんだろうか。
散歩部のメンバーは僕と埜井さんだけだから(そしてそれぞれ、副部長と、部長だ。)、この学校で知り合ったというわけじゃないだろうけど、中学校からの、というわけだったら、後輩のひとりくらいはいても、おかしくはない。
うーん、と埜井さんはうなった。
そして、「大したことじゃないんだけどね」と前置きをしてから、言った。
「さっき、すれちがった男の子がいたんだけどね、その子が『いいアイディアだと思ったんだけどなあ……。』って言ってて。」
「そのアイディアっていうのが気になって?」
うん、と彼女はうなずく。
「でも、いきなり知らない人に『そのいいアイディアってなんですか?』って訊きに行くのも……。」
「あはは。変な人みたいだもんね。」
「ね。変な人みたいになっちゃうから、悩んでて。」
僕は内心で「そもそもそうして悩んで立ち止まっている時点で、埜井さんはちょっと変な人だなあ。」と思っていたけれど、とりあえずそのことは口にしないで。
「それじゃあ、いっしょに訊きに行ってみる?」
「ほんと!? ……いや。びっくりしちゃわないかな、向こう。」
「するだろうね。まちがいなく。」
なんてことを、話していると。
パッ、とその廊下のむこう……教室から、ひとりの男子生徒が、飛び出してきた。
ちょっとだけ背が高くて、釣り目で、やせ型で、格好いい。
そんな彼は、どういうわけか、大股で、僕たちのところまで、ずんずんと進んできた。
あまりの勢いに、僕と埜井さんはおどろいて顔を見合わせる。
でも、目の前の彼は、そんなことにはまるで構いもしないで、僕たちの目の前までやってきて、こう言った。
「このへんで、猫缶を見なかったか!?」
見てません。
QQQ
「なるほど。つまり、猫缶消失事件なんだね。」
「そうなんだよ! そう!!」
すっかり埜井さんのスイッチは入っていた。
散歩部の活動のときと、だいたい同じ。
この目の前の男の子が、さっき埜井さんが気にしていた『いいアイディア』の持ち主だってことは、横でぼんやり聞いていただけの僕にも、よくわかった。(もっとも、その『いいアイディア』の中身自体は、なんだかよくわからなかったけど。猫の横で猫のコスプレをして猫缶の食べ比べ? ……どういう需要を、彼は想定してるんだろう。)
彼がかくかくしかじかで話してくれた内容を、早速埜井さんは事件として認定して、自分の漫画に応用するために、推理を始めている。
でも、今回ばかりは。
「ようし、それじゃあ先輩が推理してあげよう! ……だれかが、取っていったんじゃないかな。」
「そりゃそうだけどよ、先輩!」
あんまりにも簡単に事件の説明がついてしまうので、妄想のキレが悪かった。
だって、猫缶なのだ。
ただの猫缶。
意味深なメッセージでもなければ、時限爆弾の入ったバッグでもない。
たしかに、『学校にある』って点を付け加えてみれば、ちょっとは変な事件みたいに見えるかもしれないけど……でも、物がなくなったっていうだけだと、ごくありふれた、どこにでもあるできごとにしか、思えない。
「だれかが取っていった、っていうのはわかってるよ! 問題は、だれが取っていったかなんだって! 犯人を見つけて、返してもらわなくちゃ! 結構な値段だったんだから!」
「ちなみに、いくらくらい?」と埜井さんが訊いた。
すると、本当にその後輩くんは『結構な値段』を口にしたので、僕も埜井さんも、ちょっとおののいた。
そして後輩くんは、その『結構な値段』を口にすると、なんだか急に力が抜けていって、へなへなと僕にしがみついてきた。(本当は、角度的に埜井さんの方へ向かいかけていたんだけど、当然、僕はそれを許さず、割り込んだ。)
「うぅ……。俺のお年玉貯金が……。」
さすがにちょっと気の毒になって、僕も質問をしてみることにした。
「心当たりはないの?」
「……ない、と思うんだけど。まだ、クラスのやつらに嫌われるようなことをするほど、入学から時間も経ってないし。」
それはそうだ、と僕はうなずいた。
まだ彼は、一年生の春なのだ。市立日早高校には、五月の文化祭をめいっぱい楽しむことで、ようやくクラスの仲や溝が深まるという、伝統的なスケジュールがある。いまはその文化祭より前だから、たしかに彼の言うとおり。
「アリバイは?」
とりあえず、という調子で、埜井さんが訊いた。
「だれか、その猫缶を取っていけそうな人の心当たりはないの? 『しそう』『しなさそう』じゃなくて、『できる』『できない』から絞っていってみない?」
「うーん……。」
埜井さんの質問は、とてもいいものだったと僕は思う。(妄想の暴走さえなければ、おおむね埜井さんは常識があって、ちゃんとしたことを言う人なのだ。)
でも、後輩くんは、悩まし気に答える。
「……ない、なあ。俺、今日の放課後は、生徒会室に行って、戻ってくるまで結構かかっちゃったから。そのあいだに、だれかがってなったら……。」
「生徒会室に行く前に、だれが教室に残ってたとかは? 覚えてない?」
「えーっと……ちょっと待ってくれ。名前とか顔とか、まだパッと出てこないこともあって……。」
うーん、ともう一度うなってから、後輩くんは自分の眉間に指を当てて、考え始めた。
うーん、うーん、とさらに二回うなって、それからようやく。
「……なんか、クラス委員長とかがいて、喋ってたような……。でも、もう全員帰っちゃったみたいだから。」
今度は、埜井さんが「うーん」とうなる番だった。
「それだけじゃあ、なんともだねえ……。」
「だよねえ……。」
それで、ふたり揃って、また「うーん。」。
でも、埜井さんだけが、そこから顔を上げて、僕を見た。
「添観くん、名推理。」
そんな『店員さん、オムライス。』みたいに言われても。
僕にだって、わかるわけがない。
被害者が見ていないところで、だれがいるのかもわからない状態で、密室でもなんでもない場所で、物がどこかに持ち去られてしまった。そんな事件。
難しいところがひとつもない。
なんなら、なんの関係もない僕がふらっとその教室に入っていって、取っていってしまうことだって、できたわけだから。
「厳しい条件がないと、かえって答えが定まらない……。数学とかもそんな感じだけど、難しいね。」
「あ!」
埜井さんが声を上げた。
僕は(そしてもちろん後輩くんも)おどろいて、
「なにかわかったの?」
「いや、いまの、いい言葉だなと思って。メモに取りたいから、もう一回言ってもらっていい?」
いいけど、と僕は答えて(もちろん、埜井さんの頼みを、僕は断らない。)、もう一度復唱する。それを、埜井さんはよいしょよいしょ、とカバンのなかからノートを取り出して、書きとめていく。
そんな光景を、「なんなんだこの人たち」という顔で、後輩くんが見ていた。
「……おほんっ! それじゃあ、もうちょっと推理してみようか。」
その視線に、おくれて気がついた埜井さんが、わざとらしく咳ばらいをして、仕切り直す。
「でも、先輩。推理って言っても、これ以上俺から言えることは……。」
「……添観くん、助け船。」
そんな『店員さん、コーヒーおかわり。』みたいに言われても。
でも、さっきパスは一回使ってしまったから、今度こそなにかを言わなくちゃいけないな、と考えて、僕はもうすこし、角度を変えた見方を提案してみることにした。
「ホワイダニットから考えてみるのはどうかな?」
「ホワイダニット、すか?」
うん、と僕はうなずく。
これは、埜井さんにまたなにか推理を求められたときにいい恰好ができるようにと、夜な夜なインターネットでミステリーについて調べていたときにつけた、付け焼刃の知識だ。
ホワイダニット。
Why done it.
『どうして』それが行われたか。
それに着目して、考えてみるのはどうか、というわけだ。
「たとえばこれが、直接的にお金だったら、簡単に窃盗の動機は成立するよね。」
「そう……だなあ。俺も、金はいくらでも欲しいし。」
その受け答えでいいのかな、と後輩くんの倫理観に若干の疑問を持ちつつ、しかしそれを無視しつつ、僕は続ける。
「でも、猫缶となると、それを取っていく動機っていうのは、かなり限られてくる。換金するのはちょっと面倒だろうし、だいいち、どうせ盗むっていう危険を冒すなら、『取って』『売る』っていうふたつの手間がかかる猫缶を取るより、財布の中身を抜いてしまう方が、ずっと楽だからね。」
「はいっ! お待ちください、添観くん!」
「はい。なんでしょう、埜井さん。」
勢いよく埜井さんが手を挙げたので、僕は発言を譲る。
すると彼女は、
「猫缶はともかく、財布を机に置きっぱなしにする人って、そんなにいないんじゃないかな? 私も移動教室のときとかは、ちゃんと持って歩くようにしてるし……。」
「ああ、それはたしかに……。」
放課後の、そのタイミングでしか物を取ることができないなら、いま僕の言ったことは、『猫缶を取らない』理由としては弱い。
『猫缶と財布を比べて、猫缶を取るはずがない』っていう考え方は、取るものの選択肢の中に、財布も入っている場合に成立するものだからだ。
まさか、生徒会室に長時間行くのに、目の前の後輩くんが財布を置きっぱなしにしていたわけもないだろうと思って。
彼に、目をやると。
「…………。」
顔真っ青。
「ちょ、ちょっとたしかめてみる!」
そう言って、教室のなかに、再び走って戻っていった。
QQQ
「あ、あった……。よかった、中身も入ってるし……。」
教室の、ちょうどまんなかあたりの、机の上。
置かれたリュックサックの中身をたしかめて、後輩くんはほっと息を吐いた。
「これからはちゃんと、持ち歩くことにします……。」
「うん。そうした方がいいと思うな。だれにでも持っていけるような場所に置いておいちゃうと、自分でなくしただけのときにも、だれかを疑わなくちゃいけなくなっちゃうしね。」
僕がそう言えば、「はい。」と後輩くんは、素直にうなずいてくれて。
「……ん?」
そしてそのとき、僕はふっと、気がついた。
これもすごく、単純な話だったんじゃないかって。
「どうかしたの? 添観くん。」
「いや……うーん……。」
あまりにも、単純すぎる答えなんだけど。
「後輩くん。もしかして、今日のホームルームで、文化祭の出し物の話とかしなかった?」
「え?」
なんの話なんだ、という顔を、一旦彼はしてから、けど、素直に。
「あー。してたけど、なんでそれを……?」
「いや、うちのクラスもちょうどやってたから。そろそろ実行委員会でなにか会議があるんだろうね。……で、そのときになんだけど。」
ほんとうにこれだったら、かなりくだらないな、と僕は思いながら、念のため。
「クラスの出し物、お化け屋敷がいいとか、そういう話にならなかった?」
「……なんでそれを!?」
おどろく後輩くん。
でも、別にこれを言い当てたこと自体は変なことでも、すごいことでもない。
「なつかしー。去年も争奪戦になったよね。お化け屋敷って、やりたいところが多いから。毎年人気なんだよ。」
「あ、なるほど。そういう……。」
単純な話で、たいてい高校生の文化祭なんて、お化け屋敷か喫茶店のどちらかをやりたがるものだから。(そしてそのあと、文化祭実行委員会では各クラス代表による熾烈なじゃんけん大会が開催され、敗者は各クラスに帰還したのち「責任を取れ!」「大和武士なら背筋を正して切腹せんか!」とおおいに糾弾される運命にある。)
ただ、彼がそうだとうなずいてくれるなら、答えは簡単だった。
「猫缶、べつに、だれにも取られてないと思うよ。」
「――え?」
探してごらんよ、と僕は言う。
「猫缶は、まだこの教室の、机のなかにある。」