2話 労働①
私は労働をナメている。
いや、言いたいことはわかる。
労働はそんなにちょろいものではない。実際には人生の大半を埋め尽くす苦難の一つであって、なんなら私たちが現世と思って生きているここは『大労苦地獄』と呼ばれる、生前働かずに収入を得ていた人間が落ちる地獄のひとつなのかもしれない。そういうことを考えている人が、地球人類の大半だということは、ちゃんと理解している。
でも、実際。
労働のなかには完全にナメきっていても成立する場所もあるということを知っているんだから、これはもうナメない手はないと、そう思ってしまうわけだ。
高校生。内申書目当てで生徒会に入ってはいるけど、それ以外は帰宅部。日早市なんていう郊外と田舎のいいとこどりみたいな穏やかな街の。
アルバイト先は喫茶店。まかないつき。
もうここまでだって人から見れば「なんて楽しそうでキラキラしたアルバイトなんだ。」と思うかもしれないけれど、どっこいまだ先がある。
喫茶店のオーナーは、私の叔母。企業法務でキャリアを積んだのち独立。いくつもの企業を相手に顧問弁護士をしていて、不動産転がしも得意。そしてこの喫茶店は節税対策の一つとして、その恋人に店長をやらせている、赤字前提のゆるい店。
店長の時点で、もうまるっきりやる気がない。(ちなみに店長は戸籍上、私の叔父ってわけじゃない。日本の家族法制度に文句でもあるのか、叔母ともどもいつまで経っても籍を入れようとしないからだ。)
朝十時から午後三時までのたった五時間しか店を開けていないうえ、お客の来ていない間はずっとカウンターの奥に置いたテレビにゲーム機をつないで、レーシングゲームの設定を組んでいる。(そしてどういう趣味なのか、CPU同士を争い合わせるだけで、自分自身はプレイしない。いつかAIが人類に反旗を翻したとき、店長は真っ先にギロチンにかけられることだろう。)
お客が来ればそれなりにまとまったコーヒーと料理くらいは出す。
でも、中学生の職場体験なみの愛想しかない人だから、なかなかそのお客を定着させることができない。ひどいときは十二時ごろ、「腹減ったな。」とか言ってお客のいる前で自分も物を食べ始めることすらある。おかげで、常連と呼べるのはクジラ並みに心の広い人たちだけで、ここに店を構えて三年も経つ今となっては、ばかばかしくてクレーマーすら訪れなくなった。
そして私も、高校進学を機に去年からアルバイトを開始。
立派に労働をナメるようになり、きっかり十二時になると接客中だろうがなんだろうがほうれん草とベーコンのクリームパスタを食べ始める、そんな人間になってしまった。
責められようか。
責められまい。
だれだって、私たちみたいに適当なことをしながらのんびり暮らしていきたいと思っているはずだからだ。
店長を見るたび「できれば将来は、こんないい加減な人にならないで、自分の仕事に誇りを持って生きられるような人になりたいな。」と思う気持ちもあるけれど、なにせ学生の本分は遊びと勉強。そのための資金稼ぎなんていくら楽して済ませたっていいと私は思っていて、だからこういう、いい加減な態度で働くことを、自分に許している。
……徐々に自分がダメになっているという自覚は、ある。(「自覚があるからまだセーフだ。」と言い訳する気持ちも、ある。)
でもまあ、世界の片隅に一か所くらいは、こんな絵本みたいになんにも考えてない喫茶店があったっていいだろうと思うから、今日もこうして、平和に私はアルバイト(と呼ぶことすらおこがましい行為。実際には店長が通販で買った今日発売のゲーム機をテレビに繋いでセッティングしたくらいしか、まともな行動はしていない。)にいそしんでいる。
でも。
「なあ、バイトくん。」
「なんすか、店長。」
「あの席に置いてあるバカでかいバッグ、なんだと思う。」
「忘れものじゃないすか、お客さんの。」
「客なんて今日来てたっけ。」
「……」
「てかあのバッグ、なにが入ってると思う?」
「…………」
「時計の音がカチコチ言ってるし、俺は爆弾だと思う。」
たまにこういう、天誅みたいな目にあうこともある。
それはまあ、仕方がない。
……本当に、仕方のないことか?
QQQ
怒涛の十二分だった、と言っても過言ではないかもしれない。
いや、過言かな……。
今日は土曜日で、だから散歩部の活動日で、僕は今日も、まちがってスキップしたりなんかしないように気を付けながら、埜井さんの隣を歩いていた。
今日の行く道は、サイクリングロードのすぐ横。市が中途半端に整えた、なんともいえない桜並木を、ゆるやかに曲がりながら、のんびりと散策していた。
しかし気付くと、時間も十二時二十四分。
そろそろ解散しなくちゃね、という空気もありながら、近くのバス停まで戻る道を、僕たちは進もうとしていた。
ひとつ目のびっくりは、まずそこで起こった。
――――ぐぅうううううう。
「…………。」
「…………なにか、聞こえましたか?」
音の鳴った瞬間に、しゅばっ、とおなかを抱えこんだ埜井さんが、僕の方を見ながら、そう言った。
そしてもちろん、僕の返すべき答えは、ひとつだけ。
「――え? ごめん。考えごとしてたよ。」
なにかあった?と。
わざとらしいくらい、不思議そうな顔で。(もちろん、僕の考えごとなんて「埜井さんの耳がうっすら赤くなっててかわいい。」とか、そのくらいのことしかないんだけど)。
うんうん、と埜井さんは、僕の答えに満足そうにうなずいた。
そして彼女は「それはともかくだね、」と安心したような顔で、
「おなかが空いたね。お昼だから。」
まったくそれはともかくとしていないことを、つぶやいた。
「そうだね。」
「なにか食べて帰ろっか。」
「え。」
そしてこれが、ふたつ目のびっくり。
埜井さんから、お昼ごはんに誘われたこと。
「あ、ごめんね。うち、今日は私ひとりしかいなくてさ。お昼、どこかで買って帰ろうと思ってたから。添観くんはどう?」
そう。
埜井さんはいつも、「うちにごはんあるから。」とお昼は食べないで、バスに乗って帰ってしまう。
だからこれは、ものすごく幸せな『びっくり』だった。
そしてちょうどいいことに、僕はよく埜井さんとの部活動を終えたあとに、ふらふらひとりでお昼ごはんを済ませてしまうことが多い。だから、ここでいっしょになってごはんを食べていったとしても、別にだれにも咎められることはない。
「ああ、うん。全然。いいよ。」
だからもちろん、答えはイエス。
内心僕は、その場で踊りだしたってかまわないくらいだった。
「なに食べよっか。添観くんって、食べられないものあるっけ?」
「うーん。特にはないけど……あ、強いていえば、桜が苦手かな。」
「桜? 桜味?」
「そうそう。春限定メニューでよくあるけど、個人的にあんまり……。」
なんて話をしながら、バス停にむかって歩いていたら。
「あ。」「わ。」
三度目のびっくり。
僕らの進む先に、喫茶店があった。
ふだん僕たちは、できるだけ一度も通ったことのない道を歩くことにしている。
だからその喫茶店を見かけるのは初めてのことで、しかも、こんなにタイミングもちょうどよかったものだから……。
ちら、と僕と埜井さんは、視線を合わせた。
言葉にしなくたって、なにを考えているかは、おたがいにわかっていた。
ここにしよっか。
うん、そうしよう。
そういうこと。
お店の前に立っていたボードには、『開店中』の文字だけ。
ふつうこういうところって、お店の名前とか、おすすめの名前とか、そういうものが書いてあると思うんだけど……。どうやら、そういう細かいことは気にしないタイプのお店らしい。やけに外装は新しくてきれいだから、その頑固一徹みたいな姿勢は、ミスマッチな気もしたけれど。
そんな風に僕が観察しているあいだに、からんからん、とドアベルを鳴らして、先に埜井さんが入っていった。
僕もその背中を追いかけるように、いっしょになって、中に入って。
「……あれ。だれもいない?」
埜井さんが、不安そうにこぼしたとおりの感想を、いっしょになって抱いた。
これが、四つ目のびっくり。
カウンターの奥に、店員さんの姿はなかった。
そして、こうやって音を出して入ってきたのに、店員さんが「何名様ですか?」なんて聞きに出てくる気配もない。
外のボードに『開店中』と書いてあったんだ。
だから、まさかやっていないということはないと思うし、勝手に座ってしまおうか、とも考えたんだけど、一応、僕は、
「すみませーん。」
それなりに大きな声で、そう声をかけた。
そして、五度目のびっくりがやってくる。
「あ、危ないぞ! 下がるんだ!」
僕よりもずっと大きな、声がした。
いったいなんなんだ。
そう思って、その声の方に、目をやると。
ポニーテールの、僕らと同じくらいの年齢の女の子……その子が、三十才くらいだろう灰色の髪の男の人といっしょに、ボックス席の陰から頭をひょっこり覗かせて、僕らを見ていた。