1話 ネタバレ
『最終的な判断はきみにまかせよう』
そう、壁には書かれていた。
「なにかな。」
「なんだろうね。」
それに足を止めたのが埜井さん。
足を止めたのに付き合っているのが僕、添観。
ふたりとも、少し珍しい名前をしていて。
ふたりとも、少し珍しい部活に入っている。
市立日早高校、散歩部。
「事件の匂いがするよ……。」
むむむ、と埜井さんはその壁に顔を近づけた。
壁とは言っても、たとえば教室の壁とか、自分の部屋の壁とか、そういうものじゃない。
ちょうど部活動中の僕たちは、外に出ているから。
彼女が見ているのは、ブロック塀だ。
何の変哲もない……と言いきれてしまうくらいには普通のブロック塀。
なにせ塀というのはたいていの場合、なにかを遮ったりするためにあるものだけれど(たとえば視線とか。)、この塀はその高さが僕の胸くらいまでしかない。
むこう側にごくふつうの林が横たわっているのまで見てとれるんだから、言いきってしまったってまさか、誰にも文句はつけられないだろう。
「……そうか。名推理が浮かんだよ。」
けれど、埜井さんはその何の変哲もない普通のブロック塀に書かれた、古ぼけた落書きを見ながら、ピンと人差し指を立てて言う。
よく晴れた春の日だった。
空は、文房具屋さんの青の絵の具よりずっと青い。風はあたたかくて、透明に光っているように思える。広大な林地のすき間を縫うようにして広がる日早市の午後は、今日も田舎と都会の中間点。おだやかすぎるくらいおだやかに過ぎていて。
僕たちは、散歩をしていた。
「これはスパイの暗号だよ……。」
「どんな?」
「日早市に潜入捜査していたふたりのエージェント。その片方が敵に正体を知られてしまう。命からがら逃げだした彼は、まだ潜入がバレていないもう片方に事の真相を伝えつつ、『最終的な判断はきみにまかせよう』と書き残して姿を消した……。」
「どう?」と言って、埜井さんは僕を見上げた。
僕は心のなかで「今日も埜井さんの妄想は絶好調だなあ。」と思いながら、せいいっぱい感じよく見えるように笑顔をつくって、答えた。
「ありえ……」
「る?」
「ない。」
「ないかー。……どのへんが?」
「そうだな。」と僕は、埜井さんの隣にいっしょに屈みこむ。
「まず、これ、書く場所がおかしくないかな。」
壁に向かってなにかペンで書き込むようなジェスチャーをすれば、埜井さんもすぐに気づいてくれた。
「書きづらいね。」
「うん。僕らの身長でこれだけ手首を曲げなくちゃいけないなら、エージェントをやるくらいの大人はだいたい、すごく書きづらいんじゃないかな。」
(埜井さんの言うところの)暗号の書き込まれた位置は、すごく低かった。
屈みこんで、自然な位置で何かを書こうとした場合、もう三十センチは上に文字は残されるはず……だから、まずはそこから指摘。
「でもさ、あれかもよ。」
「どれ?」
「人目につかないように、できるだけ下の位置に書いたのかも。」
「でも、僕らが気付くくらいには目立つ大きさで書いてあるじゃないか。もしそれが目的なら、もう少し文字自体を小さくするんじゃないかな。」
「うーむ。」と埜井さんは言った。
まだ納得しかねているらしい。
「他には、そうだな。」
だから僕は、いつものように追い打ちをかけることにする。
「埜井さんの話だと、スパイは、」
「エージェント。」
「うん、わかった。エージェント。」
いったいスパイとエージェントの何がちがうのかは、僕にはよくわからなかったけど、とりあえずうなずいておいて、
「色々なヒントを残して、最後に相棒にこのメッセージを託したわけでしょ。」
「相棒っていうか、うーん……。相棒かあ。なんていうか、もっとこう、ビジネス的な付き合いなんだよね。」
腕を組んで、埜井さんは言った。
「もっとこう、お互いがお互いを信頼していないっていうか……。でも、実力だけは認めざるを得なくて、だから最後に残したメッセージって、読者からすると『そうか、あのグレイがとうとう……。』みたいな感動のあるセリフなんだよ。」
「そうなんだ。」
エージェントの片方は、グレイという名前らしい。
そんな、たぶんこれからの一生でほとんど使うことのない知識を教えられつつ、
「とにかく、他のヒントは残すわけでしょ。だったら、この一文だけじゃ足りないよ。敵組織の情報がどこかに隠されてないと。」
「そこがカギなんだよ!」
ピンともういちど人差し指を立てる、お決まりのポーズで埜井さんは言う。
「たしかに、この文章だけじゃどうやっても敵組織の秘密は教えられない……。まわりを探しても、他にそれっぽい言葉はなにも書いてないし。」
いちおう、僕はあたりを見渡して確かめてみた。
埜井さんの言うとおり、塀にも地面にも、ほかに文字として読みとれるようなものは見当たらない。
「だから暗号なんだよ。これ自体もメッセージ性を持った文字ではあるんだけど、実は暗号として隠された意味も持ってて、これを解き明かすと重要な情報に変換できるようになってるの。」
「どうやって解くの?」
「…………。」
そうだったらいいな、と思っている段階らしかった。
押し黙ってしまった彼女を見ていると、なんだか僕の方まで悲しい気持ちになってくる。(それはそれとして、ぐうの音も出なくなっている埜井さんはかわいいなという気持ちも、残念ながら存在する。)
「発想としては面白いと思うんだけどね。」
複雑な気持ちで僕がフォローを入れると、またたく間に埜井さんの顔は「でしょ?」とかがやいた。
「漫画とかでもよくあるじゃん。最初のころに出てたコマが、後になって『実はこれは……。』っていうの。私もああいうのやってみたいなって。」
「そうだね。普通のメッセージが暗号になってた、っていうのは、僕も読んでみたらびっくりすると思うな。」
「びっくりは面白さのひとつだよ。」と彼女はにんまり笑った。
でも。
「これを暗号として解く、っていうのは、ちょっと僕には見当がつかないかな……。」
「……たぬきの絵でも添えてみる?」
僕は彼女の提案にちょっと考えてから、
「『た』を抜いても何も変わらないみたいだけど。」
「……しまった。そう来たかあ。」
勝手につっこんでいった人が、しみじみそんなことを言う。たぶんだけど、埜井さんは運転免許を取らない方がいい。
「じゃあ署名してみようか。『羽鳥』って。」
「『は』を取ったら『最終的なンダン君に任せよう』になるね。」
「『最終的なンダン君』って誰? ファイナルンダン君?」
「埜井さんが自分で言い出したことなんだけどな……。」
律儀な僕は、いちおう携帯を取り出して、インターネットで『ンダン』という言葉を検索してみた。知らない国の地名や人名だったらありうるかもしれない……。そんな風に思ったからだ。
でも、残念ながらなにもそれらしい言葉は引っかかってくれなかった。
「うーん。推理失敗かあ。」
「そうだね。」
ひと段落つくと、よく埜井さんはこの『推理失敗』という言葉を使う。
ちなみに『推理成功』と言ったことはない。
そもそも、成功させる気があるのかどうかすらも謎だ。(まったく『ない』と言いきれるわけじゃない。ふつう、こんな地味で落ち着いた街にエージェントが来るなんて妄想を口にするのは、推理ではなく悪ふざけだと思うだろうけど、埜井さんの頭のなかでなら本当に推理として成立している可能性があるから、いちがいに断言することはできないのだ。彼女には、謎が多い。)
「でも、アイディアは面白いって言ってもらえたもんね。メモしておこ」
そう言って彼女は、背負ったリュックサックをぐるっとおなかの方に回して、そこからノートを取り出した。
しゃっしゃ、と音がして、鉛筆でそこに、絵と文字が書き込まれていく。
黒服を着たエージェントふたり。
傷を負って命からがら逃げだしたその片方。
レンガ造りの街の壁に、その怪我人が何かを書きこむ姿……。
そこに『一見ふつうの言葉だけど、解き明かすと別の意味に読める暗号』と、メモが書かれる。
「でもこれ、暗号を作るのむずかしいよねえ。」
手を止めて彼女が言うのに、僕は、
「暗号自体は簡単にしてもいいんじゃない? 暗号を解いた先でなにかもうひとつ事件があるとか。」
「あ。いいね、それ! 場所とか、人の連絡先とか、そういうのを指すだけの短いのだったら、私でも作れそうかも。」
「ナイス添観くん。」と埜井さんは言った。
「ナイスな添観くんでよかった。」と僕は思った。
ところで、そろそろ埜井さんがいったいなにをしているのか、ちょっとくらいは説明した方がいいかもしれない。もしかしたら、彼女がただの変な人に見えてしまっているかも……。でも、実際には、ちょっと違う。
彼女は『ただの』変な人ではなく、市立日早高校散歩部の伝統を受け継いだ、由緒正しい奇行を体現する、なかなかの変な人なのだ。
市立日早高校散歩部の伝統は古い。二十年くらい前までさかのぼる。(大したことがないじゃないかと思う人は、もう一度考えてみてほしい。よく『創立百周年』とかそんなノボリが街中にかかっていることもあるけど、たいていの人にとって二十年というのはけっこう大きな時間だし、特に僕みたいな高校二年生の十六才から見れば『地球誕生から四十六億年』とそんなに変わりのない数字だ。)
当時は生徒の数がとても少なかった。今でこそ各学年八クラスだけれど、当時はなんと一クラス。隣市の再開発が始まってわいわい賑わい出すまでは、細々とした、いかにも田舎の高校だったらしい。
そして当時、文化部の数もすごく少なかったらしい。というか、ほとんどなかった。
吹奏楽部なんてとてもとても。人数が揃わない。かけ持ちも当時は認められていなかったから、文芸部、茶道部、華道部、歴史部、美術部、物理部、科学部、軽音楽部、漫画研究部、短歌部、俳句部、川柳部、推理研究部、オカルト実践黒魔術部、陶芸部、パソコン部、調理部、手芸部、かるた部、落語研究部、奇術部、演劇部、新聞部、放送部……えーっと、あとはなんだっけ。特撮研究部、ゲーム部、チェス部、囲碁部、将棋部、軍人将棋部、広告研究部……とりあえずこんなところで。
こういうたくさんの文化部が、生まれようとしては「人数が足りませんでした。」で挫折してしまったそうだ。
しかしあるとき、賢い人が気がついた。
分けようとするからダメなんじゃないか、ってこと。
つまり、総合的な文化部をひとつ作って、そこに文化部を志す人々を集めてしまえば、とりあえず部としては設立できて(そして、切実な話として)学校から部費をせしめることもできるんじゃないか、と。
もうおわかりだろう。
そうして設立されたのが、われらが散歩部だ。
どうして『散歩部』なのか。
それは、文化と散歩は密接な関係にある、という認識にもとづいているらしい。
人は考えごとをするときよく歩く。たとえば、京都には哲学者がよく歩いたという『哲学の道』がある。松尾芭蕉だって、名所を旅しながらいくつもの俳句を詠んだ。あと、(ひょっとするとこれがいちばんわかりやすいかもしれないけど)テスト前で夜遅くまで勉強していて、わからない問題に遭遇してしまったとき、立ち上がって熊みたいにぐるぐる考えごとをする人だって、結構いるはずだ。
だから、散歩部。
ときどきみんなで連れ立って歩いて、おしゃべりをしたり、珍しいものに足を止めたり、そういうことをして、いわゆる『ひらめき』ってやつを得るための部活。
実際には与えられた部費はおのおの勝手に自分たちの専門領域に使ってしまったのだけど(前に先生たちから聞いたうわさでは、三階倉庫の得体の知れないダンボールの七割は、散歩部の遺産だそうだ。遠回しに「だから部室に持って帰れ。」と言われた気がしたけど、僕は、無視した。)、週に一回集まってみんなでこうして散歩することで、生徒会の厳しい監査を「活動してますけど?」という顔でかわしてきたらしい。
長くなってきてしまったので、まとめよう。
散歩部は、総合文化部。活動内容は週に一回の散歩。そしてその散歩は、各自の文化的な活動の種になる。
つまり、埜井さんは、その体現者。
プロの漫画家を目指している彼女は、こうして毎週散歩をして、頭をすっきりさせたり、ネタ集めをしたりして、それを原稿に活かしているというわけだ。
ぱたん、と埜井さんがノートを閉じる音がした。
「よし。お待たせしました。」
「いえいえ。」
それじゃあ散歩の続きに、と戻る前に、「そういえば」と彼女が言う。
「結局、この落書きって何だったのかな。」
そして、ちらりと僕を見る。
なるほど、と僕は心のなかでだけうなずいた。
期待されてるらしい。
そして、期待されたら応えたくなるのが『なんたら心』というやつで、僕は「そうだね。」と口元に手を当てて、いかにも『探偵』らしい仕草で言ってみる。
「やっぱり、位置が問題だよね。」
「すごく低くに書いてあるっていう?」
うん、とうなずいて、僕はもう一度その位置をたしかめてみる。
僕はだいたい同世代の平均くらいの身長だ。埜井さんも、たぶん女の子のなかだったらそのくらい。でも、膝を折ってかがみこんだって、その位置に書くにはかなり手首を折り返す必要がある。
つまり、不自然な体勢にならないと書けない、ってことだけど。
「でも、書いた人にとってはそれが自然だったのかもね。」
「……? どういうこと?」
「つまりね……、」
そこまで言いかけると、ちょうど僕の推理を補強してくれる一団が、向かいから自転車で走ってくるのが見えた。
僕と埜井さんは道の端に寄っておく。向かいから来るのは三人。僕たちの動きに気がついて、会釈をしてくれた。
「小学生の落書きじゃないかな。それなら、屈みこんでこの位置になるのは自然でしょ。」
自転車に乗った、小学生三人。
漫画の話をしながら、たのしそうに僕たちとすれ違っていった。
その背中を見届けてから、僕は、
「どうかな、埜井さん。ただ、小学生がこんな感じの文章を書くかなっていうところは、若干疑いがないでもないんだけど。」
「…………」
「……埜井さん?」
返事がない。
てっきり褒めてもらえるものだと思っていた僕は(こういうのを『捕らぬ狸の』なんて言う。僕はよくこれをやる。)、不思議に思って彼女の顔を覗きこむ。
「ね、ネタバレ食らった……!」
すごい顔だった。
「え?」
「聞こえたでしょ? 添観くんも、いまの。『うらうら』の今週分の内容の話してたよ……!」
「ええっと、」
『うらうら』ってなんだっけ。
僕はなんとか、記憶のサルベージを試みた。
たぶん漫画だ。(埜井さんがときどき唱える不思議な呪文は、たいてい漫画に関する言葉だ。)
それで、ええと、土曜日にその話を聞いてショックを受けるってことは、今日か昨日が発売日で。
いや待てよ、たしか月曜日も祝日でお休みになるはずだから。
「『裏の裏の浦島』、だっけ」
ようやく正式なタイトルを思い出せた。
口にすれば、正解、とばかりに埜井さんはうなずいて、
「しまった~……。ちゃんと読んでから散歩に来ればよかった~……。」
あからさまにしょぼしょぼした顔で、彼女はさらに言う。
今度は、壁の落書きを見ながら。
「添観くんの推理はね、当たりです。」
「え?」
「あのね、『うらうら』の今週分だったらこの台詞が出るパターン、想像ついてたんだよ。そっか~……。そう来たか……。」
何を言っているのかよくわからなかったので、もう少し僕は深く訊いてみた。
するとなんでも、『うらうら』の先週分の展開と、ついさっきすれ違ったときに小学生たちが話していた今週分の話、そのふたつのパズルピースを与えられた埜井さんは、なんとすっかりこの落書きが今週分の『うらうら』のなかで使われたものだと確信してしまったらしい。(僕にはわからない世界だ。)
「そっかあ。」
「そうなんです。」
「残念だったね。」
「残念だったんです。」
なぐさめようとしても、実は僕は人に『ネタバレ』をされたときの苦しみというのがよくわからない。添観家では映画やらなにやらを見る前に、レビューサイトを参照する行為がおおいに推奨されているからだ。(特に、父さんなんかは「こういうのは本当はよくないんだ。」とか言いながら、嬉々として調べ始める。「よくないならやらなきゃいいのに。」と僕はいつも思っている。)
だから、苦笑いをして、中身のない言葉を投げかけることくらいしかできない。
「そのうちいいことあるよ。」
「あるかなあ。」
「きっとあるって。晩ごはん、カレーかもよ。」
「カレーかあ……。」
「すき焼きかも。」
「すき焼きかあ!」
どうして僕のなんの根拠もない励ましでそこまで元気になれるのかは謎だけど、僕は埜井さんのこういうところも好きだ。
「なんだか急に生きる気力が湧いてきたよ。」
「そう? よかった。」
「そうと決まれば、帰ってすき焼きの前に『うらうら』の最新話を読んでおかないとね!」
「なにも決まってはないけどね。」という言葉を呑み込んで。
僕は、早足になった埜井さんに付き添って、また春の道を歩き始めた。
埜井さんのリュックサックが揺れている。
僕の前髪が、風にさらりと流れる。
春うらら。
坂道を下って、郵便局へと続く道。
木漏れ日まみれの林道を、ふたりで、僕らは歩いた。
ああ、そうそう。
もしかしたら不思議に思っている人もいるかもしれないから、ひとつだけ。
埜井さんは漫画を描く。
その一方、僕は『総合文化部』としての『散歩部』に所属していて、いったいどんな文化的活動をしているのか、ってこと。
ひょっとしたら、気にしている人もいるかもしれないから。
自己紹介。
僕は添観、高校二年生。
好きな女の子と、部活にかこつけてデートするっていう、史上もっとも文化的な活動に、青春のすべてを注いでいる人間だ。
(1話・了)