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プロローグ 南無



 その年の市立日早(ひばやし)高校の入試は、2月24日に執り行われることになった。



 冷たい雨の降る日だった。

 だけど、駅から降りて日早高校を目指す同級生たちの顔は、どちらかと言えばやわらかだったと思う。


 その日、ほんとうは雪の予報が出ていたからだ。


 日早市ではめったに雪は降らない。年に一回も積もれば大ごとで、真っ白に染まったグラウンドなんて見た日には、校庭に犬が入ってきたときよりも、みんな興奮しはじめる。


 だから当然、電車なんかも雪に弱い。

 風が吹いたって止まるくらいだから、雪が降ったらもう、まずまちがいなく動かない。


 日早市の中学生の多くは、公立高校の受験を本命として考える。


 だから、昨日の夜くらいからずっと悶々としていた人たちもたくさんいたんだろう。

 これからが受験の本番だっていうのに、高校の最寄りの駅までたどりついて、もうあとは会場まで歩いていくだけ、という段になって、早くもほっと一安心してしまっている。黒と透明の傘がオセロみたいに並んで、ベルトコンベアーに運ばれるようにゆっくりと、動いていた。


 そういう空気に、僕もたぶん、呑まれていたんだと思う。


「あっ。」

 手に持っていた受験票が、ふいに、風で飛んでいってしまったのだ。


 どうにか捕まえようとしたけれど、あいにくそのとき吹いた一瞬の風は、ものすごく強かった。伸ばした指先にかすりもしないで、受験票はまっ黒な雲に吸い込まれるようにひらひらと飛んでいく。


 場所も悪かった。ちょうどそこは、駅前を少し通りすぎたところにある橋の上。つまり、ちょっと勇気を出して身投げをしてみるだけで、冷たい冬の川でぞんぶんに水浴びできてしまう、そんなスポットだったのだ。


 はらはら。

 ぽちゃん。


 南無阿弥陀仏。


 あーあ、と僕は思ったし、周りの人たちも、あーあ、という顔でそれを見ていた。


 忘れないように手で持っていけ、というのは父さんと母さんからのアドバイスだった。なんでも、カバンの中に大切なものをしまっておいたらいつの間にかどこかで落としてしまった、という経験を、ふたりともしたことがあったらしい。(ふたりはけっこう奇遇な、似た者どうしの夫婦なのだ。)


 でも、こんな嵐の日に、大切なものを手で持ったりしていたら、そりゃあこんな風になる。

 アドバイスされたとき、(実を言うと)僕はすでにそのことを予感していたのだけど、「気合がなくちゃ受かるものも受からないよ。」と朝からお皿にこんもり出された豚カツを食べきるのに必死で、「うん。」とその場でうなずいてしまったのだ。


 ついさっきの風はどこへやら。

 橋の下の小川を、のんびりと、見せつけるように、僕の受験票は下りつつあった。


 言い訳をしてもしかたがない。

 さてどうしよう、と僕は立ち止まって、じっくり考えることにした。


 さいわいにして僕は、父さんと母さんのどちらからもそそっかしさを受けつぐことはなく、親戚一同そろってもいちばんの『落ち着きやさん』だった。(そんな言葉があるのか知らないけど。)だから、こんなハプニングにあっても、自分のペースで冷静に、思考をめぐらせた。


 そして、考えた末に、こんな結論にいたった。


 まあいっか、と。


 川の中にじゃぶじゃぶ入っていって受験票を取るなんていうのは、はっきり言ってありえない。この冬の雨のなかでびしょ濡れになってしまったら、風邪を引いてしまう。


 それにきっと、受験票をなくしてしまったのは僕だけじゃないはずだ。

 小学生もそうだけど、中学生だってよく忘れものをする生き物だ。全市全県、まして全国で必ず毎年、高校入試は行われている。大きな視点に立って考えてみれば、受験票をなくすのなんてありふれた失敗だろうし、まさかそのたび、「忘れものをしたからあなたの今年の受験はこれで終わりです」なんて手酷いことが行われているはずもない。僕はけっこう、人の優しさというものを信じている。


 たぶん会場に行って、「受験票を忘れました。」と正直に言って、学生証と名前を見せれば、それで済む。

 わざわざ願書だって提出しているんだから、むこうだってこっちの名前と顔くらいは名簿で控えているはずだ。それをちゃんと確かめてもらえば、受験票なんてなくたって僕が「受験番号××番の添観(そえみ)くん」だってことを、ちゃんとわかってもらえるにちがいない。


 うん、決めた。


 それなら少し余裕をもって会場にたどりつかないと……そう考えて川から目線を外して、傘の行列に僕はふたたび加わろうとした。



 じゃぶじゃぶ、という音が聞こえてきたのは、そのときだった。



 そのときの僕のおどろき具合といったら、とても言葉で表せるものじゃなかった。

 なにせ、当の本人である僕があきらめてしまった冬の川に、ひとりの女の子が川原から入っていくのを目にしたんだから。


 見ているだけで、凍えてしまいそうだった。

 寒さに強い人、というわけじゃなさそうなのも、橋の上から見ただけでじゅうぶんにわかった。川に入ってからのたった十秒で彼女の顔はまっ白になって、くちびるは絵の具を塗りつけたみたいにくすんだ紫色になってしまっていたから。


 僕はあわてて橋を渡って、川原へと下りていった。そのあいだに、彼女はまたじゃぶじゃぶと水をかき分けながら、戻ってくる。


「はいっ。」

 目の前まで来ると、彼女はそういって、僕にその受験票を渡してくれた。


 受験票は、水に濡れてぼろぼろだった。

 インクも溶けてしまって、名前だって見えやしない。ふやけすぎて、受け取り方をまちがえれば、それだけではらはらと破けてしまいかねない。


 そして、女の子も。

 靴や靴下だけじゃない。長いスカートの裾まで濡らして、そこからぼたぼたと水滴が垂れていて、すこしだけ見えている膝から先の足には、本物の鳥よりも目立つくらいに、鳥肌が立っている。


 でも、彼女は、笑っていた。


 大丈夫だよ、と僕に語りかけるみたいにやさしい顔で、ほほえんでいた。


 僕は今でも、彼女の行動が正しかったとは思わない。ありえない、とも思う。


 だって結局、そのボロボロの受験票なんてろくに見られもしないで会場には入れたし、ずぶ濡れになった彼女は案の定、三月になるまでひどい風邪を引いてしまったらしいし。


 メリットとデメリットが、全然釣り合ってない。

 でも。



「――ありがとう。」

「どういたしましてっ!」




 僕はその日、ありえないくらい、彼女のことが好きになった。




 彼女は埜井(のい)さん。

 日早高校に合格した僕が、散歩部なんて変てこな部活に入ったのも、もちろん、彼女が入るのを追いかけてのことだった。





(プロローグ・了)




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